耐え忍ぶ者は救われる 2022年5月01日(日曜 朝の礼拝)
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耐え忍ぶ者は救われる
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 13章1節~13節
聖書の言葉
13:1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
13:2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」マルコによる福音書 13章1節~13節
メッセージ
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今朝から『マルコによる福音書』の第13章に入ります。1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき」とあります。イエス様がエルサレムに入られてから、神殿は、イエス様の活動の場でありました。イエス様は、神殿で、人々を教えて来られたのです。その神殿からイエス様は出て行かれます。そして、この後二度と、神殿に足を踏み入れることはないのです。
神殿を出て行くイエス様に、弟子の一人がこう言います。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」。この時のエルサレム神殿は、ソロモンが建築した神殿ではありません。ソロモンが建築した神殿は、紀元前587年にバビロン帝国の軍隊によって滅ぼされてしまいました。この時、イエス様と弟子たちが目の当たりにしていた神殿は、バビロン捕囚から帰ってきたゼルバベルが建てた神殿を、ヘロデ大王が大改修、増築したものです。ヘロデ大王は、ユダヤ人から気に入られるために、また、自分の名前を歴史に残すために、エルサレム神殿を、大改修、増築しました。「ヘロデの建築を見たことのない者は、美しいものを見たことのない者だ」と言われるほど、壮大な建物であったのです。そのエルサレム神殿を見て、イエス様は、こう言われます。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩れずに他の石の上に残ることはない」。これは、驚くべき言葉です。イエス様は、エルサレム神殿が徹底的に破壊されると預言されたのです。そして、事実、紀元70年に、エルサレム神殿は、ローマ帝国の軍隊によって滅ぼされてしまうのです。
イエス様がオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレがやって来ました。この四人は、ガリラヤの漁師であり、最初にイエス様の弟子となった者たちです。彼らは、こう尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。「そのこと」とは、神殿が徹底的に破壊されることです。また、「そのことがすべて」とは、「世の終わりに起こること」を指しています(ダニエル12:7「これらの事はすべて成就する」参照)。弟子たちは、イエス様から神殿の崩壊の預言を聞いて、世の終わりに起こることへと思いを馳せたのです。
イエス様は、こう言われます。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」。このイエス様の御言葉は、四人の弟子に対してだけではなく、私たちに対して語られている御言葉であります。37節に、「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ」とあるように、イエス様は、私たちに対して、「人に惑わされないように気をつけなさい」と言われるのです。世の終わりには、どのようなことが起こるのか。その一つに、偽メシアが大勢現れて、多くの人を惑わすことが起こります。自称、救い主が大勢現れて、多くの人を惑わすのです。ですから、私たちは、惑わされることがないように、まことの救い主であるイエス・キリストにしっかりと結ばれていたいと願います。
また、世の終わりには、戦争の騒ぎが起こり、戦争のうわさが聞こえてきます。神殿が崩壊するのも、ユダヤとローマ帝国との戦争によることでありました。戦争が起こる、戦争のうわさを聞くとき、私たちは慌てます。私たちは、ロシアがウクライナに軍事侵攻して始まった戦争のニュースを聞いています。そのようなニュースを聞いて、私たちは心を痛めます。また、私たちも戦争に巻き込まれる可能性が高くなれば、慌てるでしょう。しかし、イエス様は、「慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と言われます。ここで、「起こるに決まっている」と訳されている言葉(デイ)は、神様の御計画を表します。イエス様は、「慌ててはいけない。戦争の騒ぎは起こることになっているのだ」と言われるのです。それは、戦争の責任が神様にあるということではありません。戦争の責任は、「殺してはならない」という神の掟に背く人間にあります。ヤコブ書に、「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します」とあるように、戦争の責任は人間にあるのです(ヤコブ4:2参照)。ここで、イエス様が言われていることは、「戦争の騒ぎも、神様と無関係に起こっているのではない」ということです。私たちは、戦争が起こり、核兵器が使用されて、この世界は終わるのではないかと心配します。しかし、イエス様は、「まだ終わりではない」と言われるのです。偽メシアの出現、戦争の騒ぎやうわさ、これらは、世の終わりが近づいている徴ですが、まだ終わりではない。終わりの日をもたらす決定的な徴ではないのです。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、争いが起こる。そして、方々に地震と飢饉が起こる。これらは、歴史において、既に起こったことです。歴史を振り返るならば、それは民と民との争いの歴史、国と国との争いの歴史です。また、しばしば地震があり、この地上には、いつも飢えで苦しんでいる人たちがいます。そのことは、私たちが、既に終わりの時代に、生かされていることを教えているのです。しかし、イエス様は「終わりの時代」とは言われずに、「産みの苦しみの始まり」と言われます。この世の終わりは、新しい時代の始まりでもあるのです。お母さんが、子供を産むとき、陣痛で苦しむように、この世も、新しい時代を産みだそうと苦しんでいるのです(ローマ8:22参照)。
産みの苦しみの始まりの時代に生きている私たちに、イエス様は、こう言われます。「あなたがたは自分のことに気をつけなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」。イエス様は、弟子である私たちに、「自分のことに気をつけなさい」と言われます。それは、弟子である私たちが、イエス様のために、迫害を受けるからです。実際、『使徒言行録』を読みますと、弟子たちが、ユダヤ人から鞭打たれたこと、総督や王の前に立たされて、イエス様のことを証ししたことが記されています(使徒5、24~26章参照)。そして、そのことは、「福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」という神様の御計画によることであるのです(ここでも、ギリシャ語のデイが用いられている)。捕らえられた弟子たちの弁明によって、ユダヤ人たちや、ローマの総督や王たちに、福音が宣べ伝えられていくのです。イエス様は、「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない」と言われます。ここで「取り越し苦労してはならない」と訳されている言葉は、直訳すると「前もって心配してはならない」となります。私たちが、「あなたたちは、捕らえられる。そして、それがイエス・キリストについて証しをする機会になる」と言われたら、やはり、前もって心配してしまうと思います。私は、イエス・キリストを証しして、鞭打たれることができるだろうか。鞭打ちを恐れて、イエス・キリストのことを知らないと言ってしまうのではないか。あるいは、総督や王という地位の高い人の前に立たされて、うまく話すことができるだろうか。そのようなことを心配してしまうと思います。しかし、イエス様は、こう言われます。「そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」。ここで、イエス様は、弟子たちに聖霊が与えられていることを前提に語っています。『ヨハネによる福音書』によれば、聖霊は、父なる神が、イエス・キリストの御名によって遣わしてくださる弁護者(パラクレートス)であります(ヨハネ14:15参照)。その弁護者である聖霊が、私たちに何を話すべきかを教えてくださるのです。また、聖霊は、私たちに、「イエスは主である」と告白させてくださる御方でもあります(一コリント12:3参照)。その聖霊の恵みに謙虚に信頼するならば、私たちは、鞭打ちを前にしても、総督や王を前にしても、イエス・キリストのことを立派に証しすることができるのです(6つの誓約の4番目「あなたは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストの僕としてふさわしく生きることを、決心し約束しますか」参照)。
続けて、イエス様はこう言われます。12節。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」。兄弟と兄弟、父と子、子と親、これは、最も親しい人間関係です。しかし、その最も親しい人間関係に対立が生じる。それほどまでに、人々の愛は冷えるのです。親が子を殺す。子が親を殺す。そのようなニュースを私たちはしばしば耳にいたします。ここにも、私たちは、終わりの時代の徴を見ることができるのです。
イエス様は、続く13節でこう言われます。「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。このイエス様の御言葉は、歴史を振り返るとき、真実であります。日本のキリスト教の歴史を振り返っても、キリスト信者は、イエス・キリストの名のために憎まれ、苦しみを受けて来ました。イエス様は、そのことを見越して、迫害を予告されるのです。そして、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われるのです。少し細かいことを言いますが、「救われる」は、未来形の受動態で記されています(神的受動態)。「最後まで耐え忍ぶ者は神様によって救われるであろう」と、イエス様は言われるのです。ここでの「最後」は、世の終わりだけではなく、私たちそれぞれの人生の終わりをも意味していると読むことができます(個人的終末論)。そうすると、ここで、イエス様は、殉教の死について語っているとも解釈できるのです(黙2:10参照)。イエス様は、9節で、「わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」と言われました。「証しをする」と訳されている言葉(マルトゥリオン)は、後に「殉教する」という意味を持つようになりました。「証人」を意味する言葉(マルトゥス)は、「殉教者」という意味を持つようになるのです。「殉教する」とは、自分の命によって主イエス・キリストを証しすることです。2世紀に生きたテルトゥリアヌスの言葉に、「殉教者の血は、教会の種子である」という言葉があります。迫害の時代、キリスト者たちは、自分の命をもって、主イエス・キリストを証ししました(使徒教父文書『ポリュカルポスの殉教』参照)。そして、その命がけの証しによって、多くの人々がイエス・キリストを信じたのです。なぜ、キリスト者たちは、自分の命をもって、イエス・キリストを証しすることができたのでしょうか。それは、イエス・キリストが、最高法院に引き渡され、鞭で打ちたたかれ、総督の前で、立派な証しをされた御方であるからです(一テモテ6:13参照)。さらには、十字架の死から、三日目に栄光の体で復活された御方であるからです。そのイエス・キリストの聖霊の恵みに謙虚に信頼するならば、私たちは最後まで耐え忍ぶことができるのです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とは、聖霊の恵みに謙虚に信頼して、キリストの僕として生きる私たち一人一人のうちに実現してくださる神様の御業であるのです(聖徒の堅忍)。
今は、日本国憲法によって、信教の自由が保障されていますから、私たちが、イエス・キリストの名のゆえに、公に迫害されることはないと思います。しかし、また、別の苦しみがあるのではないかと思うのです。それは、無視されるという苦しみです。福音を語っても聞いてもらえない。礼拝に誘っても来てもらえない。そのような苦しみがあると思います。そして、そのことも、終わりの時代の徴であるのです。今朝は最後に、『テモテへの手紙二』の第4章1節から5節までをお読みします。新約の394ページです。
神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現と御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
このテモテに委ねられた務めを、私たちは、聖霊の恵みに謙虚に信頼するキリストの僕として、果たしていきたいと願います。