深い悩みの中で 2022年4月10日(日曜 夕方の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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コヘレトの言葉 1章12節~18節
聖書の言葉
1:12 わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。
1:13 天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。
1:14 わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。
1:15 ゆがみは直らず/欠けていれば、数えられない。
1:16 わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、
1:17 熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。
1:18 知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す。コヘレトの言葉 1章12節~18節
メッセージ
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序.
今夕は、『コヘレトの言葉』の第1章12節から18節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。ちなみに、「コヘレト」とは「集める者」という意味で、集会を招集し、そこで教えていた教師を指しています。
1.コヘレトはソロモン?
1節に、「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と記されていました。また、12節にも、「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた」と記されています。さらに、16節には、「わたしは心にこう言ってみた。『見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった』と」と記されています。これらの記述から、コヘレトは、ダビデ王の跡を継いだ、知恵で有名なソロモン王であると考えられてきました。「ソロモン」という名前は、記されておりませんが、コヘレトがソロモン王であることを暗示していることは確かであります。では、『コヘレトの言葉』が、紀元前10世紀のソロモン王によって記されたかと言えば、そうではありません。多くの研究者が指摘していますように、『コヘレトの言葉』は、バビロン捕囚から帰還してしばらく経ってから、紀元前3世紀頃に、エルサレムに住む、知恵の教師によって記されたと考えられています。『コヘレトの言葉』は、後期の新しいヘブライ語で記されており、そこにはペルシャからの外来語が用いられているからです。ですから、コヘレトは、ひとつの文学的な技巧として、イスラエルの王ソロモンを装っているわけです。私たちは、そのようなことを踏まえて、コヘレトがソロモン王であるかのように、今夕の御言葉を読み進めていきたいと思います。
2.知恵による探究
第1章12節から第2章26節は大きなまとまりであります。ある研究者によれば、ここには、「満たされない王の独り言」が記されています。第1章7節に、「川はみな海に注ぐが海は満ちることはない」と記されていましたが、王の心も満ちることはないのです。その満たされない王の独り言に耳を傾けましょう。
12節から15節までをお読みします。
わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。ゆがみは直らず、欠けていれば、数えられない。
イスラエルの王であるコヘレトは、天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べました。このコヘレトの姿は、『列王記上』の第5章に記されているソロモンについての記述を思い起こさせます。旧約の534ページです。第5章9節から14節までをお読みします。
神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった。ソロモンの知恵は東方のどの人の知恵にも、エジプトのいかなる知恵にもまさった。彼はエズラ人エタン、マホルの子らであるヘマン、カルコル、ダルダをしのぐ、最も知恵ある者であり、その名は周りのすべての国々に知れ渡った。彼の語った格言は三千、歌は千五百首に達した。彼が樹木について論じれば、レバノン杉から石垣に生えるヒソプにまで及んだ。彼はまた、獣類、鳥類、爬虫類、魚類についても論じた。あらゆる国の民が、ソロモンの知恵をうわさに聞いた全世界の王侯のもとから送られて来て、その知恵に耳を傾けた。
知恵は国の違いを越えた、国際性を持っていました。ソロモンの知恵は東方のどの人の知恵よりもまさっていました。ソロモンの知恵には、植物や動物や鳥や魚について論じることができる自然科学の知識も含まれていました。ソロモンは神様に与えられた知恵によって、神様が造られた植物や動物を、神様を賛美しながら研究したのではないかと思います。しかし、コヘレトが装うソロモンは、そのことを、「神から託されたつらい務め」と言います。コヘレトが装うソロモンは、どこか疲れているのです。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の1034ページです。
コヘレトは、天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べました。このことは、神様が、コヘレトだけではなく、人の子ら(人間)の務めとなさったことです。コヘレトは、「すべての人間には、天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べるという務めが与えられている」と言うのです。ここで言われていることは、「学問」と言い換えることができると思います。神様はすべての人間に学問することを務めとして与えられているのです。そして、その務めは、コヘレトによれば、つらい務めであるのです。なぜ、つらい務めなのでしょうか。その答えが、15節の格言にあります。「ゆがみは直らず/欠けていれば、数えられない」。このところを新改訳2017は次のように翻訳しています。「曲げられたものを、まっすぐにはできない。欠けているものを、数えることはできない」。この格言によって、コヘレトは何を言いたいのでしょうか。それは、世の中には人間の力の及ばないことがある。世の中には人間の知ることのできないことがある、ということです。それが、太陽の下に起こることをすべて見極めたコヘレトの結論でありました。それゆえ、コヘレトは、どれもみな空しく、風を追うようなことであったというのです。「風を追うようなこと」とは、「目的を達することができない空しい努力」という意味です。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究しても、世の中には人間の力の及ばないことがある。知ることのできないことがあるのです。それゆえ、そのような営みは、空しく、風を追うようなことであるのです。
確かに、私たち人間の学問の営みは、暫定的であり、究め尽くすということはありません。人間には、神様が造られ、神様が営まれている、天の下に起こることをすべて知り尽くすことはできないのです。では、私たちの学問の営みは意味がないのかと言えば、そうではありません。なぜなら、私たちは学問を通しても、神様と人々に仕え、神様の栄光をあらわすことができるからです。また、私たち人間が営む学問、もっと広く言えば文化や文明は、イエス・キリストの再臨によって到来する新しい天と新しい地へと引き継がれるからです。『ヨハネの黙示録』の第21章に、「新しいエルサレム」の幻が記されています。その26節にこう記されています。「人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る」。新しいエルサレムに来る諸国の民は、それぞれの文化と文明を携えて来るのです。地上の文化や文明が、新しい天と新しい地において用いられるのです。そのことは、エデンの園というガーデンが、新しいエルサレムというシティになっていることからも分かります。人間の学問の営みには、力の及ばないことや知ることのできないことがあります。しかし、その人間の学問の営みも、神様によって清められ、新しい天と新しい地において用いられるのです。そうであれば、私たち人間の学問の営みは、永遠の意味を持っていると言えるのです。
3.深い悩みの中で
16節から18節までをお読みします。
わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す。
コヘレトは、知恵で有名なソロモンを装って、知恵について記しています。知恵のない者が知恵について語っているのではなくて、誰にもまさって知恵を深め、大いなる者となったソロモンの言葉として、「知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎない」と語るのです。これは、知恵についての伝統的な教えに反する言葉です。例えば、『箴言』では、知恵と愚かさは対極のこととして記されています。そして、知恵を獲得するように勧めるのです(箴3:13〜18「いかに幸いなことか/知恵に到達した人、英知を獲得した人は。知恵によって得るものは/銀によって得るものにまさり/彼女によって収穫するものは金にまさる。真珠よりも尊く/どのような財宝も比べることはできない。右の手には長寿を/左の手には富と名誉を持っている。彼女の道は喜ばしく/平和のうちにたどって行くことができる。彼女をとらえる人には、命の木となり/保つ人は幸いを得る」参照)。しかし、コヘレトは、「知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎない」と記すのです。なぜ、コヘレトはこのように語るのでしょうか。その答えが、18節の格言にあります。「知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す」。「知恵は悩みから解放してくれない。また、知識は痛みから解放してくれない。いや、むしろ、知恵が深まれば悩みも深まる。知識が増せば痛みも増す」と言うのです。では、コヘレトは、知恵を深めることは無意味であると言うのでしょうか。そうではありません。と言いますのも、第2章13節でこう記しているからです。「わたしの見たところでは/光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる」。知恵は愚かさにまさる。しかし、知恵は、私たちを悩みや痛みから解放することはない、いや、むしろ、悩みを深め、痛みを増すのです。私たちは、ここで、聖書において「知恵は神を畏れることを初めとする」ことを思い起こしたいと思います。(箴言1:7「主を畏れることは知恵の初め」参照)。私たちは、神様がすべてのものを造り、すべてのものを統べ治めておられることを知っています。また、神様が、その独り子をお与えになったほどに、私たちを愛してくださっていることを知っています。それが、主イエス・キリストによって、私たちに与えられている神の知恵です(一コリント1:30参照)。その神の知恵のゆえに、私たちの悩みは深まり、痛みは増すということがあるのですね。そして、その悩みや痛みの中で父なる神様に祈り、主イエス・キリストへと思いを馳せるのです。それは、決して無駄なことではありません。知恵が深まれば悩みも深まる。確かにそうです。しかし、その深まった悩みの中で、私たちは父なる神に出会うのです。私たちのために悩み、痛みを負ってくださった主イエス・キリストに出会うのです(イザヤ66:2「わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人」参照)。