メシアはダビデの子か 2022年4月03日(日曜 朝の礼拝)

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メシアはダビデの子か

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 12章35節~37節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:35 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
12:36 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
12:37 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。マルコによる福音書 12章35節~37節

原稿のアイコンメッセージ

 『マルコによる福音書』は、これまでにいくつもの問答を記してきました。権威についての問答、皇帝への税金についての問答、復活についての問答、最も重要な掟についての問答を記してきました。前回、私たちは、最も重要な掟についての問答を学んだのであります。全身全霊で神様を愛すること、自分のように隣人を愛すること。この二つで一つの愛の掟が律法の根源にある最も重要な掟であることを学んだのです。その終わり、34節の後半に、こう記されていました。「もはや、あえて質問する者はなかった」。このように記すことによって、福音書記者マルコは、問答シリーズが終わったことを示しています。ですから、今朝の御言葉は、問答ではありません。小見出しに、「ダビデの子についての問答」とありますが、ここでは、イエス様が問うているだけで、誰も答えていません。37節の後半に、「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」とありますように、イエス様の御言葉は、質問の形式をとった教えであるのです。私たちは、今朝、そのイエス様の教えを学びたいと願います。

 イエス様は、神殿で教えていたとき、こう言われました。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアはダビデの子なのか」。

 律法学者たちとは、律法の専門家であり、律法を教える教師であります。その律法学者たちが「メシアはダビデの子だ」と人々に教えていたのです。「メシア」とは、ヘブライ語で「油を注がれた者」という意味です。そのメシアのギリシャ語訳が「キリスト」であります。新約聖書はギリシャ語で記されていますので、「メシア」と訳されている元の言葉は「キリスト」(クリストス)であります。新改訳2017は「キリスト」と訳しています(「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか」参照)。新共同訳聖書は、ギリシャ語のキリストを、あえてヘブライ語のメシアと訳しました。それは、旧約聖書との連続性を表すためであると思います。旧約聖書が預言してきたメシア、油注がれた者が、どのような者であるのかがここで問われているわけです。「油を注がれた者」とは、王様のことです。イスラエルの王は、主なる神様であられます。主なる神様は、ある人に油を注ぐことによって、その人をイスラエルの王にしたのです。水曜日の祈祷会で、『サムエル記』を学んでいます。そこには、イスラエルの民が、王を立てることを主に求めたこと。そして、主は、その民の求めに応じて、王を立てることをよしとされたことが記されています。主は預言者サムエルを通して、サウルに油を注いでイスラエルの王としました。しかし、サウルは、主の御言葉に聞き従いませんでしたので、主はサウルを王位から退けられます。主は、サウルに代わる王として、ダビデに油を注ぎイスラエルの王とされたのです。ただし、ダビデは、サムエルから油を注がれてすぐに、イスラエルの王となったわけではありません。ダビデが王となったのは、サウルがギルボア山でペリシテ軍と戦って死んだ後のことです。サウルがペリシテ軍との戦いで戦死した後に、ダビデはユダの王に、さらには、イスラエルの王になるのです。そのダビデのことを念頭において、律法学者たちは、「メシアはダビデの子だ」と教えていました。律法学者たちは、聖書に基づいて、「メシアはダビデの子だ」と教えていたのです。では、律法学者たちは、どのような御言葉を根拠にして、そのように教えていたのでしょうか。その最たる根拠は、『サムエル記下』の第7章に記されている、いわゆるダビデ契約であります。旧約の490ページをお開きください。第7章11節後半から16節までをお読みします。預言者ナタンは、ダビデ王に、こう告げました。

 「主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしのために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」

 ここで、主は、ダビデの王朝がとこしえに続くと約束してくださいました。主は、ダビデから出る子孫たちを王とされるのです。このことは、ダビデの家に王としての世襲制が認められたということです。ダビデの跡を継いだのはソロモンでした。ソロモンの死後、レハブアムが王となります。このレハブアムのときに、イスラエルは北王国イスラエルと南王国ユダの二つに分裂します。北王国は、ダビデの子孫ではない、エフライムに属するヤロブアムを王として立てます。レハブアムは、南王国ユダだけの王となりました。そして、南王国ユダでは、ダビデ契約のとおり、ダビデの子孫が代々、王となり続けるのです。北王国イスラエルは、紀元前722年に、アッシリア帝国によって滅ぼされました。また、南王国ユダも、紀元前587年に、バビロン帝国によって滅ぼされました。北王国イスラエルは、失われた十部族といわれるように、歴史から姿を消してしまいました(アッシリア帝国の占領政策による)。他方、南王国ユダは、紀元前538年にバビロン捕囚から帰還して、再び、神殿を再建し、国を立て直しました。しかし、イスラエルは、なかなか自分たちの王を持つことができませんでした。イスラエルは、ペルシア帝国の支配のもとに置かれ、ギリシャ帝国の支配のもとに置かれ、ローマ帝国の支配のもとに置かれて来たのです。神様は、「ダビデの子孫の王座をとこしえに堅く据える」と約束してくださいましたが、現実は、イスラエルは異邦人の支配の下に置かれて、自分たちの王を持つことができなかったのです。そのような歴史を踏まえて、律法学者たちは、「メシアはダビデの子である」「メシアはダビデの子孫からお生まれになる」と教えていたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の87ページです。

「メシアはダビデの子である」という言葉には、「メシアはダビデに似た者である」という意味が含まれています。このことも、聖書が教えていることであります。例えば、『エレミヤ書』の第30章8節と9節にはこう記されています。「その日にはこうなる、と万軍の主は言われる。お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない。彼らは、神である主と、わたしが立てる王ダビデとに仕えるようになる」。また、『エゼキエル書』の第34章23節と24節にはこう記されています。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる」。エレミヤもエゼキエルも、紀元前6世紀の預言者ですから、ダビデは、既に死んでいます。しかし、主は、「ダビデを王として立てる」と言われるのです。それは、「ダビデのような人を王として立てる」ということです。ダビデは、メシア、王を考えるうえで、一つのモデルであり、模範であったのです。

 「メシアはダビデのような王である」と聞くと、人々は、ダビデがペリシテ人を初めとする異邦人を打ち破ったことを、思い浮かべたと思います。イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国の属州となっていました。そのようなローマ帝国の支配から、イスラエルを解放してくれる政治的メシア、軍事的メシアを人々は待ち望んでいたのです(11:10「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」参照)。そして、イエス様が問題とされたのは、そのようなメシア像についてであったのです。イスラエルの人々がメシアに期待していたのは、ダビデが異邦人の国を打ち破ったように、ローマ帝国を打ち破ることであったのです。イスラエルの人々は、メシアがもたらす救いを、この地上のこととして考えていたのです。

 イエス様が、「どうしてメシアがダビデの子なのか」と言われるとき、そこには、「メシアはダビデよりも大いなる者である」という主張が含まれています。古代オリエントの社会において、子供は父親よりも劣る者であるという考え方がありました。そのことを踏まえて、イエス様は「どうしてメシアがダビデの子なのか」「メシアはダビデよりも大いなる者である」と言われたのです。そして、このことは、ダビデ自身が聖霊を受けて言っていることであるのです(詩110:1)。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで』」。「主は、わたしの主にお告げになった」の「主」は、ギリシャ語では、どちらも「キュリオス」と記されています。しかし、旧約聖書のヘブライ語を見ると、最初の「主」は、神様の御名前、ヤハウェと記されています。そして、二番目の「わたしの主」は、神様にも人間にも用いられる「主人」、アドナイという言葉が用いられているのです。「ヤハウェは、わたしの主人(アドナイ)にお告げになった」と記されているのです。この「わたしの主(アドナイ)」がダビデの子孫から出るメシアのことを指していると理解されていたのです。ダビデは、自分の子孫から出るメシアを待ち望む者として、メシアについて預言しているのです(サムエル下23:5参照)。イエス様は、ダビデがメシアを「わたしの主」と呼んでいるのだから、メシアがダビデと同じような者ではなく、ましてや、ダビデより劣った者ではない。ダビデより大いなる者であると言われるのです。では、ダビデより大いなる者とは、どのような者でしょうか。ここには、答えが記されていません。しかし、イエス様の三人の弟子たちは、そのことを既に示されていました。第8章において、ペトロは弟子たちを代表して、イエス様に「あなたはメシアです」と告白しました。そして、イエス様は、弟子たちに、御自分が苦難の死を死んで、復活するメシアであることを教えられたのです。その後に、イエス様は、ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れて高い山に登られました。そこで、三人の弟子は、イエス様の服が真っ白に輝き、モーセとエリヤが現れて、イエス様と語り合う光景を目撃します。そして、雲の中から、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声を聞いたのです。ここに、イエス様がダビデより大いなる者、神の独り子であることが示されたわけです。イエス様は、『詩編』の第110編を引用されることにより、メシアである御自分がダビデより大いなる者、神の独り子であることをほのめかされたのです(そのことをはっきり言われるのが、最高法院での裁判、14:62参照)。

 「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで』と」。このダビデの預言は、イエス・キリストにおいて実現しました。イエス・キリストは、十字架の死によって、私たちの救いを成し遂げてくださいました。そして、栄光の体で復活させられ、天へと上げられ、文字通り、父なる神の右の座に着いておられます。古代オリエントの世界において、王の右の座は、王と一緒に国を支配する皇太子や大臣がすわる座でした。イエス様が、天の父なる神の右の座についておられるとは、イエス様が、神様と共に、全世界とそのあらゆる領域を支配しておられることを教えています。しかし、神様とイエス様の支配に敵対するものがいるわけです。それが、悪魔であり、罪であり、死であるのです。その神様とイエス様との敵どもが屈服させられるときこそ、世の終わりであるのです。そのことを聖書から御一緒に確認したいと思います。『コリントの信徒への手紙一』の第15章20節から28節までをお読みします。新約の321ページです。

 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に屈服させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。

 ここで、使徒パウロは、『詩編』第110編の「わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるとき」が、キリストが来られる、世の終わりのときであることを教えています。再び来られる栄光のイエス・キリストは、神と御自分に敵対するすべての支配や勢力を滅ぼされます。神様によって、イエス・キリストは、敵である悪魔や死を滅ぼされるのです。そのようにして、「神がすべてにおいてすべてとなられる」という神の国が完成されるのです。

これは、『ヨハネの黙示録』が描くところの最後の審判ですね。『ヨハネの黙示録』の第19章をお開きください。新約の475ページです。

第19章11節以下に、「白馬の騎手」と小見出しがついていますが、この「白馬の騎手」は再臨されたイエス・キリストのことです。再臨されたイエス・キリストは、獣(自らを神とするローマ帝国)と偽預言者を生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれました(黙19:20参照)。また、人間を惑わした悪魔を、火と硫黄の池に投げ込まれました(黙20:10参照)。さらには、死も陰府も火の池に投げ込まれたのです(黙20:14参照)。それゆえ、新しい天と新しい地においては、「神が自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」のです(黙示21:3、4)。

 「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで』と」。このダビデの預言は、ダビデと私たちの思いを遙かに越えて、イエス・キリストにおいて、神様が実現してくださる預言であるのです。

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