最も重要な掟 2022年3月27日(日曜 朝の礼拝)
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最も重要な掟
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 12章28節~34節
聖書の言葉
12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。マルコによる福音書 12章28節~34節
メッセージ
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今朝は久しぶりに、『マルコによる福音書』から御言葉の恵みにあずかりたいと願います(前回、マルコ福音書から説教したのは1月16日)。
福音書記者マルコは、これまでにいくつもの問答を記してきました。権威についての問答、皇帝への税金についての問答、復活についての問答、こういくつもの問答を記してきたのです。その顔ぶれも多彩であります。権威について問うたのは、祭司長、律法学者、長老たち、最高法院の議員たちでありました。皇帝への税金について問うたのは、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々でありました。復活について問うたのは、サドカイ派の人々でありました。当時のあらゆる人々が、イエス様を言葉の罠にかけて陥れようとしたのです。しかし、今朝の御言葉に出て来る「一人の律法学者」は違います。彼は、イエス様を陥れようとして、質問したのではありません。イエス様とサドカイ派の人々の問答を聞いて、イエス様が立派にお答えになったのを見て、進み出て尋ねたのです。この律法学者は、純粋な思いから、イエス様にこう尋ねるのです。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。当時、このようなことを律法学者たちは議論していたと言われます。当時、神様の掟である律法は613あると考えられていました。その613の掟の中で、どれが一番大切な掟であるのか。そのようなことが律法学者たちの間で議論されていたのです。そのことを、律法学者は、イエス様に尋ねたのです。イエス様は、こうお答えになりました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」。ここで、イエス様は、『申命記』の第6章にある掟と、『レビ記』の第19章にある掟を引用しておられます。これはどちらも愛の掟です。唯一の神様を全身全霊で愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。この愛の掟を、イエス様は結び合わせて、一つの掟とされたのです。神様への愛の掟と隣人への愛の掟は、切り離すことのできない、一つの愛の掟であるのです。ただ、ここで一つ注意したいことは、神様を愛する愛と隣人を愛する愛では、求められている度合いに違いがあるということです。私たちが神様を愛するとき、全身全霊で、自分自身よりも愛することが求められています。けれども、私たちが隣人を愛するとき、自分のように愛することが求められているのです。私たちは、自分自身よりも、隣人を愛することを求められてはいないのです。神様が命じられる隣人愛は、正しい自己愛のうえに成り立つのです。
唯一の神を全身全霊で愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。この二つで一つの愛の掟は、どちらも、私たちの愛に先立って、私たちに対する神様の愛があります。そのことを、実際に聖書を開いて確認したいと思います。旧約の291ページです。『申命記』の第6章4節と5節をお読みします。
聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
この掟は、主がエジプトの奴隷状態から導き出して、シナイ山で契約を結び、御自分の民とされたイスラエルに与えられた掟であります。第7章6節から8節には、こう記されています。
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
このように、「全身全霊であなたの神、主を愛しなさい」という掟に先立って、イスラエルに対する主の愛があるのです。主は、イスラエルを愛して、エジプトから導き出し、御自分の民とされました。それゆえ、イスラエルは、主を全身全霊で愛することが求められているのです。
同じことが、「自分のように隣人を愛しなさい」という掟にも言えます。『レビ記』の第19章を開いてみたいと思います。旧約の192ページです。第19章18節をお読みします。
復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
ここに、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。これは言い換えれば、「自分が人にしてほしいことを、隣人にしてあげなさい」ということです(マタイ7:12参照)。自分自身を愛するように隣人を愛するとは、難しいことではありません。自分が人にして欲しいことを、隣人にしてあげればよいのです。この隣人愛の掟に続いて、「わたしは主である」と記されています。ここに、イスラエルの民が自分のように隣人を愛さねばならない根拠があります。「主である私が命じるのだから、あなたがたは、自分自身のように隣人を愛さなければならない」ということです。そして、その主とは、イスラエルの民を愛してくださっている主であるのです。ここでも、イスラエルは、神様に愛されている者たちとして、隣人を愛することが求められているのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の87ページです。
イエス様は、全身全霊で神を愛することと自分のように隣人を愛することを結びつけて、最も重要な掟であると言われました。このことは、十戒のことを考えるとよくお分かりいただけると思います。十戒は、序文から始まります。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」。この序文には、神様のイスラエルに対する愛が宣言されています。そして、神様の愛が、これから与えられる掟の前提となっているのです。第一戒から第四戒までは神様に対する掟であります。また、第五戒から第十戒までは隣人に対する掟であります。十戒は二枚の石の板に記されました。一枚目の石の板には神様に対する掟が記され、二枚目の石の板には隣人に対する掟が記されたのです。そして、その十戒を要約すると、全身全霊で神様を愛することと、自分のように隣人を愛することの二つの掟になるのです。当時は、613の掟があったと言われていますが、その源にあるのは、全身全霊で神様を愛することと、自分のように隣人を愛するという掟であるのです。そして、これこそ、イエス様の律法理解であり、イエス様の言葉や振る舞いの根底にあるものなのです。イエス様は、全身全霊で神を愛し、自分のように隣人を愛する者として歩んで来られたのです。
このイエス様の答えを聞いて、律法学者はこう言います。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。この「おっしゃるとおりです」と訳されている言葉は、「立派です」とも訳せます。サドカイ派の人々に対して立派にお答えになったイエス様が、自分の問いにも立派に答えてくださった。そのような満足感を、ここに見ることができます。この人は、律法の専門家ですから、イエス様の答えを繰り返すだけではなく、自分の言葉で言い表しています。二重カッコで、『神は唯一である。ほかに神はない』と記されています。これは『申命記』の第4章35節の御言葉、「あなたは、主こそ神であり、ほかに神はいないということを示され、知るに至った」という御言葉の引用であります。律法学者は、『申命記』の第4章の御言葉を引用することによって、神は唯一であることを強調しているのです。また、律法学者は、全身全霊で神様を愛することと、自分のように隣人を愛することが、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れていると語ります。このことは、旧約の預言者たちが語ってきたことでもあります。『サムエル記上』の第15章で、預言者サムエルは、サウル王に、こう言いました。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」。サウル王は、イスラエルの宿敵であるアマレクを滅ぼし尽くせと、主から命じられていました。しかし、民を恐れて、最上の羊と牛を取って置いたのです。サウルは、主の献げ物として、最上の羊と牛を取って置いたと言うのですが、サムエルは、主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえではなく、主の御声に聞き従うことであると言ったのです。なぜなら、主の御声に聞き従うとは、主を愛するということであるからです(ヨハネ14:15参照)。
また、預言者ホセアもこう言っています。「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6:6)。このような、旧約の預言者たちの教えに立って、律法学者は発言しているわけです。
イエス様は、律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。ここで注意したいことは、「あなたは、神の国に入っている」とは言われなかったことです。律法学者の答えは、イエス様から見ても、適切な、賢い答えでした。しかし、その答えのとおりに生きているかどうかは別の問題であります。全身全霊で神を愛することと、自分のように隣人を愛することが、神様に喜ばれると知っていても、そのとおりに生きているかどうかは別であるのです。ですから、イエス様は、律法学者の適切な答えを聞きながらも、「あなたは、神の国から遠くない」「あなたは、神の国に、まだ入っていない」と言われたのです。神の国に入るには、全身全霊で神を愛することと、自分のように隣人を愛することが最も重要な掟であると知っているだけではなくて、実際に、その愛の掟に生きることが求められるのです。では、アダムの子孫である私たちは、全身全霊で神様を愛し、自分のように隣人を愛して、神の国に入ることができるのでしょうか。できないのです。なぜなら、アダムの子孫である私たちには、生まれながらの罪、原罪があるからです。私たちは、全身全霊で神様を愛すること、自分のように隣人を愛すること。この愛の掟が最も重要である。すべての掟は、愛の掟を源としている。そう分かっていたとしても、それを行うことができないのです。新しいアダムであり、神の御子であるイエス・キリストだけが、全身全霊で神を愛し、自分のように隣人を愛することによって、神の国に入られたのです。全身全霊で神を愛する。自分のように隣人を愛する。この愛に駆り立てられて、イエス様は、十字架の死を死んでくださるのです。なぜ、イエス様は、十字架の死を死なれたのか。それは、イエス様が、神様を愛して、神様の御言葉に聞き従われたからです。また、私たちを愛して、私たちを罪と死の支配から救い出すためであったのです。イエス様は、十字架のうえで、御自分の命をささげることによって、「全身全霊で神を愛しなさい」という掟と「自分のように隣人を愛しなさい」という掟を完全に守られ、神の義を満たされたのです。それゆえ、神様は、イエス様を栄光の体で復活させられたのです。天の神の国にふさわしい体で復活させられたのです。私たちは、十字架のうえで命をささげ、栄光の体で復活されたイエス・キリストにあって、神の国に入ることができるのです。自分で神の掟を守って、神の国に入るのではありません。私たちは、私たちに代わって、神の掟を守ってくださった、イエス・キリストへの信仰によって、神の国に入るのです。
全身全霊で神を愛する。自分のように隣人を愛する。この愛の掟の前提には、私たちに対する神の愛があると申しました。そして、その神の愛は、神の独り子であるイエス・キリストの十字架によって示されたのです。神様は、独り子を与えられたほどに、私たちを愛してくださいました。また、イエス様は、御自分の命を捨てられたほどに、私たちを愛してくださいました。その神様とイエス様の愛が、神の霊である聖霊によって、私たちの心に注がれています(ローマ5:5参照)。その神様とイエス様の愛を源として、私たちは、全身全霊で神様を愛し、自分のように隣人を愛したいと願います。神の国に入るためではなく、イエス・キリストに結ばれて、神の国に生かされている者として、愛の掟に生きる者でありたいと願います。