見よ、これこそ新しい! 2022年3月13日(日曜 夕方の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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コヘレトの言葉 1章3節~11節
聖書の言葉
1:3 太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。
1:4 一代過ぎればまた一代が起こり/永遠に耐えるのは大地。
1:5 日は昇り、日は沈み/あえぎ戻り、また昇る。
1:6 風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き/風はただ巡りつつ、吹き続ける。
1:7 川はみな海に注ぐが海は満ちることなく/どの川も、繰り返しその道程を流れる。
1:8 何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず/目は見飽きることなく/耳は聞いても満たされない。
1:9 かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。
1:10 見よ、これこそ新しい、と言ってみても/それもまた、永遠の昔からあり/この時代の前にもあった。
1:11 昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも/その後の世にはだれも心に留めはしまい。コヘレトの言葉 1章3節~11節
メッセージ
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序.前回の振り返り
夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』から説教しています。今夕は、その二回目であります。最初に、前回の振り返りをしたいと思います。
「コヘレト」という言葉は、「集める者」という意味で、集会を司る者を意味しています。1節に、「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とあることから、コヘレトは、知恵の王ソロモンであると伝統的には考えられてきました。しかし、ヘブライ語の文体から、『コヘレトの言葉』は、バビロン捕囚後の時代、紀元前3世紀頃に、無名の教師によって記されたと考えられております。紀元前3世紀と言えば、神様の啓示が止みつつある時代です。イスラエルは、ギリシャ帝国によって支配されており、神様の王的な御支配が見えない時代でありました。そのような時代に、『コヘレトの言葉』は記されたのです。
2節に、「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい」とあります。ここで「空しさ」と訳されている言葉は、「ヘベル」というヘブライ語で、もともとは「息」とか「蒸気」を意味します。そこから、空しさ、空(くう)、束の間などと訳されます。聖書協会共同訳は、「コヘレトは言う。空の空、一切は空である」と翻訳しています。また、NHKのEテレの「宗教の時間」に出演された小友聡(おともさとし)先生は、「ほんの束の間、とコヘレトは言う。ほんの束の間、すべては束の間である」と翻訳しています。コヘレトは、すべてはヘベルである。すべては空しく、空であり、束の間であるというのです。これがこの書物の底流にある、コヘレトの人生観・世界観であるのです。そのことは、「なんという空しさ、すべては空しい」という言葉が、第12章8節に記されていることからも分かります。「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と」。このように、この書物は、「なんという空しさ、すべては空しい」という言葉で枠組みされているのです。では、コヘレトは、すべてはヘベルであるから、私たちに死を勧めるのかと言えば、そうではありません。むしろ、逆であります。「空しく、束の間の人生であるからこそ、神の賜物を喜び、生きよ」と言うのです。先程、ご紹介した小友先生が強調しておられることもそのことですね。コヘレトが言いたいことは、「それでも生きよ」ということであると小友先生は強調しておられます。それは、神を畏れて生きるということです。神の賜物を喜び、神を畏れて生きる。ここに、空しさを克服して生きる知恵があるのです。そして、その知恵を、私たちは、主イエス・キリストを通して、神様からいただいたのであります。
ここまでは、前回の振り返りであります。今朝は、3節から11節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.すべての労苦も何になろう
コヘレトは、2節で、「すべては空しい、ヘベルである」と記しました。3節から11節には、その根拠が記されています。
3節から7節までをお読みします。
太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり/永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み/あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き/風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく/どの川も、繰り返しその道程を流れる。
「太陽の下」とは、「地上」のことです。新共同訳は、「すべての労苦も何になろう」と意訳していますが、元の言葉を直訳すると「人が労するすべての労苦から何の益を得ることができるか」となります。聖書協会共同訳は、「太陽の下、なされるあらゆる労苦は/人に何の益をもたらすのか」と翻訳しています。コヘレトは、「太陽の下、人は労苦するけれども、あらゆる労苦から何の益も得ることはできない。だから、すべてはヘベルである」と言うのです。コヘレトは、人間の営みを世代という大きな纏まりで捉えます。「太陽の下、労苦しても、人は去って行かねばならない。また新しい世代が起こっても同じことで、その世代も去っていく。とこしえに変わらないのは大地だけである」と言うのです。大地という永遠の舞台で、人は世代交代を繰り返しているだけである。同じようなことが、太陽にも、風にも、川にも言えるとコヘレトは言うのです。太陽は東から昇って、西に沈みます。そして、次の日になると、また太陽は東から昇って、西に沈みます。その繰り返しです。風は巡って吹き続ける。川は海に注ぐが海は満ちることがない。満ちることがないのに、川は海に流れ続ける。そのような世界に、コヘレトは、繰り返し、循環、未完成を見ています。ここで、コヘレトが足場としているのは、『創世記』の第8章の御言葉です。神様は、ノアが築いた祭壇から立ち上る宥めの香りをかいで、御心にこう言われました。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしはこの度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない」(創世8:21、22)。ここで、神様は、人間の悪にもかかわらず、この地上を滅ぼすことなく、保つと誓ってくださいました。「地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない」。このことは、神様の一方的な恵みであります(保持恩恵)。しかし、神様を遠くに感じているコヘレトにとって、この地上の繰り返しの営みは、ヘベルであるのです。このように感じることが、私たちにもあるかも知れません。私たちの毎日は、同じことの繰り返しであるとも言えるからです。昨日と同じような今日を過ごして、空しいと思うことがあるかも知れません。しかし、繰り返しのような日常生活の中にこそ、神の恵みは隠されているのです。
2.何もかも、もの憂い
コヘレトは、8節で、こう記しています。
何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず/目は見飽きることなく/耳は聞いても満たされない。
「何もかも」は、「すべて出来事」「すべて言葉」とも訳せます。ヘブライ語のダーバルは、言葉とも出来事とも訳せるのです。ちなみに、聖書協会共同訳は、「すべてのことが人を疲れさせる」と翻訳しています。小友先生は、後ろの「語り尽くすこともできず」との繋がりから、「すべての言葉は果てしなく」と翻訳しています。コヘレトは、太陽や風や川について語りましたが、すべての言葉は、人を疲れさせるだけであり、語り尽くすことはできないと言うのです。私たちの能力には限界があるのです。また、「目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされることはない」とコヘレトは語ります。私たちの欲求は満たされることがない。川が注いでも海が満たされないように、私たちの目と耳は満たされないと言うのです。
コヘレトは、9節と10節で、こう記します。「かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても/それもまた、永遠の昔からあり/この時代の前にもあった」。このように、コヘレトが言うのは、太陽の下に生きる人間と世界を、循環的に捉えているからです。「人間と世界の営みは、同じことの繰り返しであって、そこには、何ひとつ新しいものはない」とコヘレトは言い切るのです。このような言葉を読みますと、反論したくなるかも知れません。「科学技術は進歩しているではないか」と言いたくなります(例えば、インターネット、パソコン、スマホなど)。しかし、その反面、確かにコヘレトの言うとおりだなぁとも思うのです。人間の基本的な営みは、変わっていないからですね。人間は、昔も今も、食べて、飲んで、働いて、寝て、と言った営みを繰り返しているのです。それゆえ、私たちは、昔の人が記した書物を共感しながら読むことができるわけですね。
コヘレトは、11節で、こう記します。「昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも/その後の世にはだれも心に留めはしまい」。このコヘレトの言葉にも、反論したくなるかも知れません。現代は、写真や動画によって、昔のことを知ることができます。例えば、原子爆弾がどれほど恐ろしい兵器であるかについて、私たちは被爆した人の写真や爆心地のフィルムから間接的にではありますが、知ることができます。私たちが今、生きている時代の風景や出来事についても、写真や動画によって、後の世代に残すことができます。そのような記憶媒体があるという点では、コヘレトが生きた時代とは異なります。しかし、その反面、やはりコヘレトの言うとおりだなぁと思うのですね。後の世の人が、私たちの写真を見て、その私たちのことをどれほど心に留めるでしょうか。私たち自身のことを考えてみたらよいと思います。私たちが心に留めることができるのは、実際に会ったことのある、祖父、祖母あたりまではないでしょうか。ひいお爺さん、ひいひいお爺さんのことを、私たちは心に留めてはいないと思います。私たちが今、生きていることも、後の世には昔のこととなり、だれも心に留めはしないのです。しかし、それは太陽の下のことでありまして、天におられる神様は、そうではありません。天におられる父なる神様は、イエス・キリストを信じて生きている私たちを御心に留めてくださるのです(イザヤ49:15「たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない」、63:16「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です」参照)。
3.見よ、これこそ新しい!
今夕の説教題を「見よ、これこそ新しい!」と付けました。これは、9節の「太陽の下、新しいものは何ひとつない」から取ったものです。コヘレトの言うとおり、太陽の下、新しいものは何ひとつないかも知れません。しかし、実は、「見よ、これこそ新しい!」と言えるものがあるのです。かつて無かったこと、そしてこれからも起こることのない、前代未聞(ぜんだいみもん)の新しい出来事があるのです。それは、イエス・キリストが、死者の中から三日目に、栄光の体で復活されたという出来事です。天におられる神様は新しいことをしてくださいました(イザヤ43:19「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」参照)。神様は、イエス・キリストを、死者の中から栄光の体で復活させられたのです。そして、この新しいことが、イエス・キリストを信じる私たちにも起こったのです。使徒パウロは、第二コリント書の第5章17節で、こう記しています。「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(新改訳2017)。私たちは、キリストにあって、新しく造られた者であります。イエス・キリストを信じる私たちは、自分自身を指して、「見よ、これこそ新しい!」と言うことができるのです。私たちはキリストにあって、新しく造られた者として、太陽の下で、神様を親しく礼拝しているのです。