天は神の栄光を物語る 2022年3月13日(日曜 朝の礼拝)
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天は神の栄光を物語る
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- 村田寿和 牧師
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詩編 19章1節~15節
聖書の言葉
19:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】
19:2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
19:3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
19:4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
19:5 その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
19:6 太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように
19:7 天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。
19:8 主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
19:9 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。
19:10 主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
19:11 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
19:12 あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。
19:13 知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。
19:14 あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。
19:15 どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。
詩編 19章1節~15節
メッセージ
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序.ダビデの詩
先程は、『詩編』の第19編全体をお読みしましたが、今朝は、1節から7節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。8節から15節までは、次週に学びたいと思います。
1節に、「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩」とありますように、第19編は、ダビデが歌った詩編であります。ダビデは、紀元前1000年頃に活躍した人物で、イスラエルの王であり、竪琴を奏でる詩人でありました。そのことを念頭において読み進めて行きましょう。
1.天は神の栄光を物語る
2節をお読みします。
天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
この御言葉の前提には、神様が天地万物をお造りになったという信仰があります。聖書の最初の書物、『創世記』の第1章1節に、こう記されています。「初めに、神は天地を創造された」。そして、『創世記』は、神様が六つの日に渡って、天と地と海と、その中に満ちるすべてのものをお造りになったことを記すのです。優れた作品がその作者が優れていることを示すように、天と大空は神様のすばらしさを示しているのです。ここで、ダビデが記していることは、いわゆる自然啓示、一般啓示と呼ばれるものです。この自然啓示、一般啓示については、使徒パウロが『ローマの信徒への手紙』の第1章で記しています。そのところを開いて読みたいと思います。新約の274ページ。第1章18節から23節までをお読みします。
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
ここで、パウロは、神様が被造物を通して、御自分のことを示しておられること。それにも関わらず、人間は、神を神として崇めず、神でないものを神として崇めていることを記しています。神様は、天の大空や大地や海、その中に満ちている鳥や植物や動物や魚、そして、私たち人間を通して、御自分を示しておられます。しかし、アダムによって創造の状態から堕落した人間は、それを受け入れない。人間は滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えてしまったのです。神でないものを神とする偶像崇拝をするのです。それは、自分が神でいたいからですね。神ではないものを神としている内は、自分が神でいられるのです。それゆえ、人間は、天の物語る神の栄光を聞こうとせず、大空に示されている御手の業を見ようとしないのです。その仕組みを解き明かすことには熱心であっても、そのものを造られた神様へと心を向けようとはしないのです。その根本には、エデンの園でのアダムの罪、自分を神とする罪があるのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の850ページです。
ダビデが、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」と記すとき、ダビデは、被造物を通して示されている神様の啓示を正しく受けとめています。それは、ダビデが、律法を通して、神様を主(ヤハウェ)として知った者であるからです。12節にあるように、ダビデは、主の僕として、律法を熟慮し、守り、大きな報いを受けてきたのです。また、ダビデは、神の霊、聖霊を注がれた者でありました。ダビデは、預言者サムエルから油を注がれましたが、そのことは、ダビデが神様によって聖霊を注がれたことを意味しているのです(サムエル上16:13「サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」参照)。同じことが、私たちにも言えます。私たちは、聖書の御言葉によって、神様を知りました。さらに言えば、聖書が証しするイエス・キリストによって、神様を知りました。また、イエス・キリストを通して、神の霊、聖霊を注がれています。そのようにして、私たちも、被造物を通して、神の栄光を崇める者とされたのです。
『創世記』の第1章を読みますと、神様は、人を御自分のかたちに似せて造られたと記されています。神様は、すべての人間を御自分のかたちに似せて、御自分との交わりに生きる者として造られました。しかし、初めの人アダムが罪を犯すことによって、その神のかたちは歪んでしまった。人間の神のかたちは歪んでしまい、神でないものを神とするようになってしまったのです。人間の神のかたちが歪んでしまったことにより、被造物を通して、まことの神を知ることができなくなってしまったのです。それゆえ、神様は、いわゆる超自然啓示、特別啓示を与えられました。その超自然啓示、特別啓示が、律法であり、聖書であります。私たちは、特別啓示の書である聖書によって、まことの神様を知ったのです。聖書の「はじめに神は天地を創造された」という御言葉によって、この世界は神様によって造られたものであることを知ったのです(ヘブライ11:3参照)。また、神様は、主イエス・キリストの御名によって、私たちに聖霊を遣わしてくださいました。私たちは、聖霊によって、神のかたちを回復され、被造物を通しても神様の栄光を仰ぐことができるようにされたのです(エフェソ4:24参照)。
2.その言葉は世界の果てに向かう
3節から5節の前半までをお読みします。
昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても/その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。
ここで、ダビデは、昼と夜を人に譬えています(擬人法)。ダビデが記しているのは、詩の言葉ですから、科学の教科書のように読んではなりません。昼と夜が絶え間なく訪れる。まさに、明けない夜はないのです。その昼と夜の絶え間ない営みに、ダビデは、私たち人間には聞こえない声を聞き取ります。「その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう」。この全地に響き渡る声は、どのような声なのでしょうか。それは、創造主である神様をほめたたえる声であります(詩148編参照)。私たちは、神様に造られた被造物に囲まれて生きているだけではなく、神様を賛美する被造物の声に囲まれて生きているのです。
5節の「その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう」という御言葉を、使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第10章で、引用しています。このところも実際に開いて読みたいと思います。新約の288ページ。第10章14節から18節までをお読みします。
ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。
ダビデは、昼が昼に、夜が夜に語り伝える、聞くことのできない声について記しました。しかし、パウロは、その声を、キリストの言葉を語る福音宣教者の声に当てはめます。創造主である神様を賛美する被造物の声は、今や、聞くことができる声として、キリストの教会によって全地に響いているのです。私たちは、キリストの教会として集まり、創造主である父なる神をほめたたえています。その賛美の声は、聞くことのできない被造物の賛美と共鳴しており、聞くことのできる言葉として、世界の果てにまで及んでいるのです。世界のいたるところにキリストの教会が立てられているのは、そのためであるのです(地方に、小さな教会があることは神様の御心である)。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の850ページです。
3.その熱から隠れうるものはない
5節の後半から7節までをお読みします。
そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように/天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。
ここで、ダビデは太陽について記しています。古代の社会において、太陽は神として崇められていました。エジプトでは太陽神ラーが崇められていました。日本の神話に出て来る天照大神(あまてらすおおみかみ)も太陽を司る女神と言われています。しかし、聖書において、太陽は神ではなく、神様が造られた被造物です(創世1:16「神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた」参照)。神様は、世界の果てに、太陽の幕屋を設けられました。その幕屋で、太陽は夜の間休むのですね。そして、神様から「昇れ」と命じられれば、花婿が祝いの部屋から出るように、勇士が喜び勇んで道を走るように、天の果てを目指して行くのです。
「その熱から隠れうるものはない」とありますように、太陽は、すべての人を照らし出します。神様は、悪人にも善人にも分け隔てなく、太陽を昇らせ、暖かな光で照らしてくださるのです。太陽の光は、すべての命の源であり、神様の大きな恵みです。そのような大きな恵みである太陽の光を、神様はすべての人に注いでくださるのです(使徒14:17参照)。そのようにして、神様は、すべての人に対する愛を示しておられるのです。このことを教えてくださったのは、主イエス・キリストであります。イエス様こそ、一般啓示を正しく認識することができるお方であるのです。今朝は、そのイエス様の教えを読んで終わりたいと思います。『マタイによる福音書』の第5章43節から45節までをお読みします。新約の8ページです。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
ここには、すべての人に与えられている神様の恵み、いわゆる一般恩恵(共通恩恵)が記されています。一般啓示と一般恩恵は重なっているのですね。神様がすべての人に太陽を昇らせ、雨を降らせてくださることは、神様がすべての人を愛しておられることを示しているのです。すべての人に太陽を昇らせてくださる恵み深い父なる神様にならって、私たちは、すべての人を愛したいと願います。