聖書の言葉 1:1 エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。 1:2 コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。コヘレトの言葉 1章1節~2節 メッセージ 序. 長い間、夕べの礼拝を休会しておりましたが、今月から夕べの礼拝を再開いたします(2020年3月から休会したので、およそ2年ぶり)。夕べの礼拝は月に一度、原則として第二主日にささげています。夕べの礼拝では、旧約聖書の『コヘレトの言葉』から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。 1.コヘレトについて 今夕は、最初に、『コヘレトの言葉』そのものについて簡単にお話します。コヘレトとは、「集める者」という意味で、「集会を司る者」を意味します(新改訳では「伝道者の書」)。コヘレトは、人の名前ではなく、職務の名称で、「集会を司る者」を意味するのです。1節に、「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と記されています。コヘレトは、エルサレムの王であり、ダビデの子であるのです。また、第1章16節に、こう記されています。「わたしは心にこう言ってみた。『見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった』と」。コヘレトは知恵の教師でもあるのです(12:9も参照)。このような記述から、伝統的には、コヘレトはダビデの次に王となった、知恵で有名なソロモンであると考えられてきました(ただし『コヘレトの言葉』の中には「ソロモン」という言葉は出てこない)。しかし、現在、多くの研究者は、ソロモンがコヘレトではないと考えています。それは、『コヘレトの言葉』が、後期の新しいヘブライ語で記されており、ペルシャからの外来語を用いているからです(2:5の「庭園」、8:11の「条令」)。それで、多くの研究者は、『コヘレトの言葉』を、紀元前3世紀頃に、パレスチナで、比較的裕福な教師によって記されたと考えています。コヘレトは、ソロモンを装うことによって、この書物を権威ある書物として記したのです(ひとつの文学的技巧)。『コヘレトの言葉』は、紀元前3世紀頃に、ソロモンを装った知恵の教師によって記された書物である。そのような前提に立って、私はこの書物を読み進めていきたいと思います。 先程は、第1章1節から11節までをお読みしましたが、今夕は、1節と2節を中心にしてお話しいたします。 2.すべては空しい 2節をお読みします。 コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。 ここで「空しい」と訳されているヘブライ語は、「へベル」です。へベルの基本的な意味は、「息」や「蒸気」です。そこから転じて、時間的には「束の間」や「はかなさ」を意味するようになりました。また、実存的には「無意味」や「空しさ」を意味するようになりました。新しい翻訳聖書、聖書協会共同訳では、2節を次のように翻訳しています。「コヘレトは言う。空の空/空の空、一切は空である」。翻訳としては、口語訳に戻ったのですが、それは新共同訳の「なんという空しさ」が感傷的に理解されて、コヘレトが悲観主義者のように誤解されてきたことの反省であると言われています。コヘレトは、悲観的な感傷から「なんという空しさ、すべては空しい」と言っているのではありません。コヘレトは、さまざまな実験を経てたどり着いた世界の認識として、「空の空、一切は空である」と言うのです。小友聡(おともさとし)という牧師がおられます。小友先生は、東京神学大学の教授で、長年に渡って『コヘレトの言葉』を研究してこられました。2020年にNHKのEテレ『こころの時代』に出演された有名な方です。小友先生は、「コヘレト書」の注解の中で、2節を次のように翻訳しています。「ほんの束の間、とコヘレトは言う。ほんの束の間、すべては束の間である」。このように、「へベル」という言葉は、「空しい」とも、「空」とも、「束の間」とも訳すことができるのです。 「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい」。この2節の御言葉は、最後の第12章8節にも記されています。「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい」。第1章2節と第12章8節は、『コヘレトの言葉』の枠組みであります。『コヘレトの言葉』は「なんという空しさ、すべては空しい」という枠組みの中に記されているのです。そのことは、すべては空しい、すべては空である、すべては束の間である、という認識がいつもあるということです。「すべてはヘベルである」。この認識が『コヘレトの言葉』の底流として常にあるのです(通奏低音)。ちなみに、「へベル」は、『創世記』の第4章に出てくるアダムとエバの息子であるアベルと同じ言葉です。なぜ、アダムとエバが、産まれてきた息子に、へベルという名前を付けたのかは分かりませんが、結果的に、彼の人生は、兄カインに殺されてしまう束の間の、はかない人生でした。しかし、コヘレトによれば、それはアベルだけではなくて、すべての人の人生に当てはまるのです。 3.空しさを克服して生きる コヘレトは、「すべては空しい」「すべては空である」「すべては束の間である」と語ります。では、コヘレトは、生きることに絶望しているのかと言えば、そうではありません。第5章17節から19節には、次のように記されています。旧約の1040ページです。 見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。 すべては空しい、すべては束の間である。この認識から、コヘレトは、神の賜物としての人生を楽しむようにと勧めます。コヘレトは、「すべては空しい、すべては束の間である」という認識から出発して、「だからこそ、今を楽しめ」と語りかけているのです。神様から与えられている食事を楽しむ、自分に与えられている労苦の結果を楽しむ。そのようにして、神様は、私たちの心に喜びを与えてくださる。ここに、空しさを克服して生きる、一つの知恵があるのです。 また、コヘレトは、第12章1節で、次のように記しています。旧約の1047ページです。 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。 創造主である神に、心を留めること。ここにも、空しさを克服して生きる知恵があります。すべては空しい。すべては束の間である。だからこそ、創造主である神に心を留めて生きなくてはならないのです。 「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい」。このようなコヘレトの言葉を読むと、「この人は神様を信じているのかしら?」と疑問に思われるかも知れません。もちろん、コヘレトは神様を信じています。神様がおられ、この世界は神様によって造られたことを信じています。しかし、コヘレトにとって、神様は遠い存在であるのです。この説教の始めに、『コヘレトの言葉』は、紀元前3世紀頃に記されたと申しました。紀元前3世紀と言えば、旧約聖書の終わりの頃です。神様の啓示が途絶えようとしていたときです。また、イスラエルがギリシャ帝国によって支配されていた時代です。神様の王的な支配が見えないのです。第5章1節に、「神は天にいまし、あなたは地上にいる」とあるように、神様はおられても遠く離れているのです。それゆえ、コヘレトは、「主、ヤハウェ」という言葉を一度も用いずに、「神、エロヒーム」という言葉を用いるのです。コヘレトにとって、神は、いつも共にいてくださる主(ヤハウェ)ではなくて、遠く離れている神(エロヒーム)であるのです。 考えてみますと、神様はヘベル、空しさや束の間とは対極の御方ですね。神様は、シャロームな御方、満ち満ちている御方です。また、神様は永遠の御方でもあります。ですから、「すべては空しい」と語るコヘレトが、「あなたの創造主に心を留めよ」と勧めるのは、理に適ったことであるのです。 さて、私たちはどうでしょうか。私たちが信じている神様も世界と私たちを造られた神様であります。そして、私たちが信じている神様は、主イエス・キリストにあって、私たちと共にいてくださる神様であります。御言葉と聖霊によって、私たちの内に住み込んでくださっている近い神様です。使徒パウロは、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」と記しました(一コリント6:19)。それほどまで、神様と私たちは近いのです。そして、私たちは、神様が、独り子を与えられたほどに、私たちを愛しておられることを知っているのです。私たちは、主イエス・キリストにあって、死んでも生きる永遠の命に生かされていることを知っているのです。そのような上からの知恵によって、私たちは空しさを克服させていただいたのです(ヤコブ3:17参照)。 まことの神を信じない人生は空しい人生です。まことの神を信じていても、遠く離れている神様であれば、まだ空しいのです。しかし、イエス・キリストにおいて御自身を示してくださり、御言葉と聖霊において共にいてくださる神様に心を留めるならば、空しさを克服して生きることができるのです。 イエス・キリストを信じて歩んでいても、「すべては空しい」と感じてしまうこともあると思います。しかし、そのようなときこそ、私たちは、造り主であり、贖い主である主イエス・キリストがいつも共におられることを想い起こしたいと願います(マタイ1:23、28:20参照)。 関連する説教を探す 2022年の日曜 夕方の礼拝 『コヘレトの言葉』
序.
長い間、夕べの礼拝を休会しておりましたが、今月から夕べの礼拝を再開いたします(2020年3月から休会したので、およそ2年ぶり)。夕べの礼拝は月に一度、原則として第二主日にささげています。夕べの礼拝では、旧約聖書の『コヘレトの言葉』から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.コヘレトについて
今夕は、最初に、『コヘレトの言葉』そのものについて簡単にお話します。コヘレトとは、「集める者」という意味で、「集会を司る者」を意味します(新改訳では「伝道者の書」)。コヘレトは、人の名前ではなく、職務の名称で、「集会を司る者」を意味するのです。1節に、「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と記されています。コヘレトは、エルサレムの王であり、ダビデの子であるのです。また、第1章16節に、こう記されています。「わたしは心にこう言ってみた。『見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった』と」。コヘレトは知恵の教師でもあるのです(12:9も参照)。このような記述から、伝統的には、コヘレトはダビデの次に王となった、知恵で有名なソロモンであると考えられてきました(ただし『コヘレトの言葉』の中には「ソロモン」という言葉は出てこない)。しかし、現在、多くの研究者は、ソロモンがコヘレトではないと考えています。それは、『コヘレトの言葉』が、後期の新しいヘブライ語で記されており、ペルシャからの外来語を用いているからです(2:5の「庭園」、8:11の「条令」)。それで、多くの研究者は、『コヘレトの言葉』を、紀元前3世紀頃に、パレスチナで、比較的裕福な教師によって記されたと考えています。コヘレトは、ソロモンを装うことによって、この書物を権威ある書物として記したのです(ひとつの文学的技巧)。『コヘレトの言葉』は、紀元前3世紀頃に、ソロモンを装った知恵の教師によって記された書物である。そのような前提に立って、私はこの書物を読み進めていきたいと思います。
先程は、第1章1節から11節までをお読みしましたが、今夕は、1節と2節を中心にしてお話しいたします。
2.すべては空しい
2節をお読みします。
コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。
ここで「空しい」と訳されているヘブライ語は、「へベル」です。へベルの基本的な意味は、「息」や「蒸気」です。そこから転じて、時間的には「束の間」や「はかなさ」を意味するようになりました。また、実存的には「無意味」や「空しさ」を意味するようになりました。新しい翻訳聖書、聖書協会共同訳では、2節を次のように翻訳しています。「コヘレトは言う。空の空/空の空、一切は空である」。翻訳としては、口語訳に戻ったのですが、それは新共同訳の「なんという空しさ」が感傷的に理解されて、コヘレトが悲観主義者のように誤解されてきたことの反省であると言われています。コヘレトは、悲観的な感傷から「なんという空しさ、すべては空しい」と言っているのではありません。コヘレトは、さまざまな実験を経てたどり着いた世界の認識として、「空の空、一切は空である」と言うのです。小友聡(おともさとし)という牧師がおられます。小友先生は、東京神学大学の教授で、長年に渡って『コヘレトの言葉』を研究してこられました。2020年にNHKのEテレ『こころの時代』に出演された有名な方です。小友先生は、「コヘレト書」の注解の中で、2節を次のように翻訳しています。「ほんの束の間、とコヘレトは言う。ほんの束の間、すべては束の間である」。このように、「へベル」という言葉は、「空しい」とも、「空」とも、「束の間」とも訳すことができるのです。
「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい」。この2節の御言葉は、最後の第12章8節にも記されています。「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい」。第1章2節と第12章8節は、『コヘレトの言葉』の枠組みであります。『コヘレトの言葉』は「なんという空しさ、すべては空しい」という枠組みの中に記されているのです。そのことは、すべては空しい、すべては空である、すべては束の間である、という認識がいつもあるということです。「すべてはヘベルである」。この認識が『コヘレトの言葉』の底流として常にあるのです(通奏低音)。ちなみに、「へベル」は、『創世記』の第4章に出てくるアダムとエバの息子であるアベルと同じ言葉です。なぜ、アダムとエバが、産まれてきた息子に、へベルという名前を付けたのかは分かりませんが、結果的に、彼の人生は、兄カインに殺されてしまう束の間の、はかない人生でした。しかし、コヘレトによれば、それはアベルだけではなくて、すべての人の人生に当てはまるのです。
3.空しさを克服して生きる
コヘレトは、「すべては空しい」「すべては空である」「すべては束の間である」と語ります。では、コヘレトは、生きることに絶望しているのかと言えば、そうではありません。第5章17節から19節には、次のように記されています。旧約の1040ページです。
見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。
すべては空しい、すべては束の間である。この認識から、コヘレトは、神の賜物としての人生を楽しむようにと勧めます。コヘレトは、「すべては空しい、すべては束の間である」という認識から出発して、「だからこそ、今を楽しめ」と語りかけているのです。神様から与えられている食事を楽しむ、自分に与えられている労苦の結果を楽しむ。そのようにして、神様は、私たちの心に喜びを与えてくださる。ここに、空しさを克服して生きる、一つの知恵があるのです。
また、コヘレトは、第12章1節で、次のように記しています。旧約の1047ページです。
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。
創造主である神に、心を留めること。ここにも、空しさを克服して生きる知恵があります。すべては空しい。すべては束の間である。だからこそ、創造主である神に心を留めて生きなくてはならないのです。
「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい」。このようなコヘレトの言葉を読むと、「この人は神様を信じているのかしら?」と疑問に思われるかも知れません。もちろん、コヘレトは神様を信じています。神様がおられ、この世界は神様によって造られたことを信じています。しかし、コヘレトにとって、神様は遠い存在であるのです。この説教の始めに、『コヘレトの言葉』は、紀元前3世紀頃に記されたと申しました。紀元前3世紀と言えば、旧約聖書の終わりの頃です。神様の啓示が途絶えようとしていたときです。また、イスラエルがギリシャ帝国によって支配されていた時代です。神様の王的な支配が見えないのです。第5章1節に、「神は天にいまし、あなたは地上にいる」とあるように、神様はおられても遠く離れているのです。それゆえ、コヘレトは、「主、ヤハウェ」という言葉を一度も用いずに、「神、エロヒーム」という言葉を用いるのです。コヘレトにとって、神は、いつも共にいてくださる主(ヤハウェ)ではなくて、遠く離れている神(エロヒーム)であるのです。
考えてみますと、神様はヘベル、空しさや束の間とは対極の御方ですね。神様は、シャロームな御方、満ち満ちている御方です。また、神様は永遠の御方でもあります。ですから、「すべては空しい」と語るコヘレトが、「あなたの創造主に心を留めよ」と勧めるのは、理に適ったことであるのです。
さて、私たちはどうでしょうか。私たちが信じている神様も世界と私たちを造られた神様であります。そして、私たちが信じている神様は、主イエス・キリストにあって、私たちと共にいてくださる神様であります。御言葉と聖霊によって、私たちの内に住み込んでくださっている近い神様です。使徒パウロは、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」と記しました(一コリント6:19)。それほどまで、神様と私たちは近いのです。そして、私たちは、神様が、独り子を与えられたほどに、私たちを愛しておられることを知っているのです。私たちは、主イエス・キリストにあって、死んでも生きる永遠の命に生かされていることを知っているのです。そのような上からの知恵によって、私たちは空しさを克服させていただいたのです(ヤコブ3:17参照)。
まことの神を信じない人生は空しい人生です。まことの神を信じていても、遠く離れている神様であれば、まだ空しいのです。しかし、イエス・キリストにおいて御自身を示してくださり、御言葉と聖霊において共にいてくださる神様に心を留めるならば、空しさを克服して生きることができるのです。
イエス・キリストを信じて歩んでいても、「すべては空しい」と感じてしまうこともあると思います。しかし、そのようなときこそ、私たちは、造り主であり、贖い主である主イエス・キリストがいつも共におられることを想い起こしたいと願います(マタイ1:23、28:20参照)。