神の羊の群れを牧しなさい 2022年2月13日(日曜 朝の礼拝)
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神の羊の群れを牧しなさい
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- 村田寿和 牧師
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ペトロの手紙一 5章1節~4節
聖書の言葉
5:1 さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。
5:2 あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。
5:3 ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。
5:4 そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。ペトロの手紙一 5章1節~4節
メッセージ
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今朝の御言葉には、長老たちへの勧めの言葉が記されています。ペトロは、長老たちへの勧めの言葉を、自分も長老の一人として記します。ペトロは、第1章1節で、自分のことを「イエス・キリストの使徒ペトロ」と記しましたが、ここでは、「長老の一人として」勧めるのです。上に立つ者として勧めるのではなくて、同等の立場の者として勧めるのです。
また、ペトロは、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として勧めの言葉を記します。「受難の証人」とは、イエス・キリストの十字架の目撃者という意味ではなくて、キリストのために苦しみを受ける者という意味です。ペトロは、キリストのために苦しみ、キリストの栄光にあずかる長老の一人として、キリストのために苦しみ、キリストの栄光にあずかる長老たちに、勧めの言葉を記すのです。
ペトロは、長老たちに、「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい」と記します。私たちの教会には三人の長老たちが立てられています。それは、私とY長老とO長老です。教師である私も長老であるのです。教師は御言葉に仕える長老という意味で宣教長老と言います(政治規準第1条参照)。また、教師以外の長老を、群れを治めるという意味で治会長老と言います。ペトロは、宣教長老である教師と治会長老たちに対して、「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい」と記しているのです。「神の羊の群れ」とは、イエス・キリストを信じる者たちの群れである教会のことです。教師と治会長老たちは、神の羊の群れである教会をゆだねられ、牧することを命じられています。「牧する」とは、「世話をする」ということです。神の羊の群れを、教師と長老たちは、どのように世話をするのでしょうか。それは「神の御言葉を語ることによって」であります。神の羊の群れは、神の御言葉によって養われ、成長(成熟)し、命を保つのです。教師には、御言葉の説教によって、群れを養う任務が与えられています。ですから、教師は「牧師」とも呼ばれるわけです。また、治会長老たちには、宣教長老である教師が御言葉を正しく語っているかどうか見守る任務が与えられています。もし、宣教長老である教師が、御言葉を正しく語っていないならば、それを指摘する責任が治会長老たちにはあるのです。そのような宣教長老である教師と治会長老たちの緊張関係によって、神の羊の群れは、豊かな霊的な養いを受けることができるのです(政治規準第46条(牧師の任務)2、御言葉の朗読・解説・説教によって、群れを養うこと。第55条(治会長老の任務)6、説教の結び実を、注意深く見守ること)。
「神の羊の群れ」のことを、使徒パウロは、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」と言い表しました(使徒20:28)。私たちは、神の御子イエス・キリストの命によって贖われ、神の民とされたのです。ですから、「神の羊の群れ」は「イエス・キリストの羊の群れ」でもあります(ヨハネ17:10「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」参照)。ペトロは、復活の主イエス・キリストから、「わたしの羊の世話をしなさい」と命じられました。ペトロは、イエス様から「わたしの羊の世話をしなさい」と命じられた者として、同じ長老たちに、「神の羊の群れを牧しなさい」と命じているのです。
そのことを、聖書を開いて確認したいと思います。新約の211ページ。『ヨハネによる福音書』の第21章15節から17節までをお読みします。
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして、言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」。イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい」。
ここで、イエス様は、ペトロに、三度、「わたしを愛しているか」と問われました。それは、ペトロが三度、イエス様との関係を否定したからです(ヨハネ18章参照)。イエス様は、御自分との関係を三度否定したペトロに、三度、「わたしを愛しているか」と問われたのです。そして、ペトロは、三度、「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよくご存じです」と答えたのでした。そのようにして、イエス様は、ペトロとの関係を回復してくださったのです。ここで、注目したいことは、イエス様が、御自分への愛を三度告白したペトロに、「わたしの羊の世話をしなさい」と三度言われたことです。このことは、ペトロのイエス様への愛が、イエス様の羊の世話をすることによって、具体的に表されることを教えています。イエス様の羊の世話をする長老たちには、何よりもイエス様を愛することが求められます。長老たちは、イエス様を愛する者として、イエス様の羊の群れを牧することが求められているのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の434ページです。
2節と3節には、神の羊の群れを牧する心構えが、「何々ではなく、何々しなさい」という言い方で、三度語られています。第一に、ペトロは、「強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい」と記します。強いられて、いやいやするのではなく、神様に従って、自ら進んで世話をすることが命じられているのです。「神に従って」という言葉は、神の羊の群れの世話をしてくださるのが、究極的には、神様であることを教えています。「神に従って」と言われても、ピンとこなければ、「イエス様に従って」と言い換えてもよいと思います。なぜなら、神様は、イエス様によって、御自分がどのような御方であるかを示されたからです(ヨハネ1:18、ヘブライ1:2参照)。イエス様は、『ヨハネによる福音書』の第10章で、「わたしは良い羊飼いである」とお語りになりました。このところも開いて、読んでみたいと思います。新約の186ページです。第10章10節の後半から16節までをお読みします。
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。-狼は羊を奪い、また追い散らす。-彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っておられるのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
良い羊飼いであるイエス様は、羊が命を受けるために、御自分の命を捨ててくださいます。これは、十字架の死の予告とも言えます。イエス様は、御自分の羊である私たちが永遠の命を受けるために、強いられてではなく、自ら進んで、命を捨ててくださるのです。そのイエス様に従って、長老たちは、イエス様の羊の群れの世話をすることが命じられているのです。このことは、私たち人間の生まれながらの愛では不可能ですね。イエス様から愛されている者として、イエス様の愛をいただいて、そのイエス様の愛をもって、はじめて出来ることです。私たちは、先程、『ヨハネによる福音書』の第21章に記されている、復活のイエス様が、ペトロに、三度、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われたお話しを読みました。しかし、それは、ペトロの生まれながらの愛で、イエス様の羊の世話をするということではありません。その直前の第20章には、復活のイエス様が弟子たちに現れて、息を吹きかけられたことが記されています。イエス様は、弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われたのです。イエス様は、聖霊を受けたペトロに対して、「わたしの羊の世話をしなさい」と三度言われたのです。先程、私は、長老たちが、イエス様の羊の世話をするのは、イエス様への愛の具体的な表れであると申しました。長老たちは、イエス様を愛する者として、イエス様の羊の世話をするのです。では、そのイエス様を愛する愛は、どこから来るのでしょうか。それは、神の霊、聖霊を源としているのです。聖霊は、父なる神の霊であり、御子イエス・キリストの霊でもあります。私たちは、父なる神の愛で、御子イエス・キリストを愛し、御子イエス・キリストの愛で父なる神を愛しているのです。その父なる神と御子イエス・キリストの愛で、羊の群れを愛し、自ら進んで世話をすることが長老たちには求められているのです。
今朝の御言葉に戻りましょう。新約の434ページです。
長老たちは、どのような心構えで、神の羊の群れの世話をすべきであるのか。その第二として、ペトロは、「卑しい利得のためではなく献身的にしなさい」と記します。『テモテへの手紙二』の第5章17節に、次のような御言葉があります。「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです」。私たちは、ここから、長老たちの中に、御言葉と教えのために労苦している長老たちがいたこと。その長老たちが報酬を受けていたことを知ることができます。このことは、宣教長老である牧師に当てはまります。私も御言葉と教えのために労苦する長老として、教会から報酬をいただいています。生活するのに十分な報酬をいただいているからこそ、すべての時間を教会のために用いることができるのです。このことは、神様からいただいている大きな恵みであります。その恵みに感謝して、献身的に神の羊の群れを牧していきたいと願います。
第三に、ペトロは、「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」と記します。長老たちは、神の羊の世話をするために、神様によって立てられた者たちであります。ですから、彼らの務めには権威があるわけです。しかし、ペトロは、「権威を振り回してはならない。むしろ、群れの模範になりなさい」と言うのです。このようにペトロが記すのは、イエス・キリストから与えられた権威が仕える権威であるからです(マルコ10:43、44「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」参照)。ですから、群れの模範になるとは、自分を低くして、仕えるという点において模範になるということです。
長老たちが、ゆだねられている神の羊の群れを、自ら進んで、献身的に、自分を低くして世話するならば、彼らはやがて現れる栄光にあずかることができます。長老たちは、大牧者がお見えになるとき、しぼむことのない栄冠を受けることになるのです。ここで「大牧者」と訳されている言葉は、「牧者の長」とも訳すことができます。この地上には沢山の教師たちと長老たちがいます。その教師たちと長老たちが、神の羊の群れをゆだねられて、それぞれの教会を形成しています(各個教会)。その教師たちと長老たちの長が、主イエス・キリストであるのです。その主イエス・キリストから、教師たちと長老たちは、しぼむことのない栄冠を受けることになるのです。「しぼむことのない栄冠を受ける」とは、「苦しみと死に勝利した者として永遠の命を受ける」ということです。このことは、教師たちと長老たちに限られたことではありません。そのような教師たちと長老たちによって養われ、導かれている神の羊たちも、しぼむことのない栄冠を受けることになるのです(二テモテ4:8参照)。