キリストの苦しみにあずかる 2022年2月06日(日曜 朝の礼拝)
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キリストの苦しみにあずかる
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- 村田寿和 牧師
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ペトロの手紙一 4章12節~19節
聖書の言葉
4:12 愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。
4:14 あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
4:15 あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。
4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。
4:17 今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
4:18 「正しい人がやっと救われるのなら、/不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。
4:19 だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。
ペトロの手紙一 4章12節~19節
メッセージ
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序.
今朝は、『ペトロの手紙一』の第4章12節から19節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.キリストの苦しみにあずかる
12節から14節までをお読みします。
愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
イエス・キリストの使徒ペトロは、この手紙の受取人である小アジアのキリスト者たちに「愛する人たち」と呼びかけます。これはもう少し丁寧に翻訳すると「愛されている人たち」となります。主イエス・キリストにあって、神様から愛されている人たちに、ペトロは、「愛する人たち」と呼びかけているのです。同じことが私たちにも言えますね。私たちも主イエス・キリストにあって、神様から愛されている者たちであるのです。そのような者たちとして、ペトロの言葉に耳を傾けていきたいと思います。
小アジアのある人たちは、主イエス・キリストを信じて、洗礼を受け、教会の交わりに生きる者となりました。そして、そのことによって、イエス・キリストを信じていない多くの人たちから悪口を言われ、仲間外れにされるなどの苦しみを受けていたのです。小アジアのキリスト者たちの中には、苦しみを受けて、イエス・キリストを信じるのをやめてしまおうか、と考える人もいたと思います(「使徒教父文書」の『ポリュカルポスの殉教』では、キリスト者は「無神論者」と呼ばれている)。そのような人たちに対して、ペトロは、こう記すのです。「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」。主イエス・キリストを信じたならば、試みられるために、火のような試練を受けることは当然のことであると言うのです。なぜなら、私たちの主であるイエス・キリストは、試みられるために、火のような試練をお受けになった御方であるからです。私たちの主であり、師であるイエス様が、その生涯において、試みを受け、苦しみを受けられたならば、そのイエス様に従う、弟子である私たちも試みを受け、苦しみを受けることになるのです。
苦しみを受ける。それは、普通に考えれば悲しいことです。しかし、ペトロは、キリストの苦しみにあずかることは喜ぶべきことであると記します。なぜなら、キリストは、弟子たちにこう言われたからです。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(マタイ5:11、12)。よって、キリストの苦しみにあずかる者は、キリストの栄光が現れるときに、喜びに満ちあふれることができるのです。
非難されることも、普通に考えれば、不幸なことです。しかし、ペトロは、その非難がキリストの名のための非難であるならば、幸いであると記します。なぜなら、キリストの名のために非難を受けているあなたがたの上にこそ、栄光の霊、神の霊がとどまってくださるからです。
ここでペトロが教えていることは、私たちがキリストのために苦しみを受けるとき、その苦しみを通して、キリストに結ばれていることを実感できるということです。私たちが、「自分はキリスト者である」と実感できるのはどのようなときでしょうか。それはキリストのために苦しむとき、キリストの名のために非難を受けるときであるのです。そのとき、私たちは自分たちのうえに、神の霊がとどまっていることを実感できるのです。ペトロは、その神の霊を、栄光の霊と言いました。それは、私たちに与えられている聖霊が、苦しみを通して栄光へと入られたイエス・キリストの霊でもあるからです。苦難を通って栄光へと至る。この道筋は、イエス・キリストだけのものではなく、キリストの弟子である私たちが歩むべき道筋でもあるのです。
2.二種類の苦しみ
15節と16節をお読みします。
あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神を崇めなさい。
ここでペトロは、二種類の苦しみについて記しています。一つは、悪いことをして受ける苦しみです。そして、もう一つは、キリスト者として受ける苦しみです。キリスト者として受ける苦しみとは、言い換えれば、神様の御心である善を行うゆえの苦しみです。悪いことをして受ける苦しみについては、受けることがないようにしなさいと記します。ペトロは、すべての苦しみを肯定しているわけではありません。神様の掟に背く罪を犯して、苦しみを受けることがあってはならないのです。15節に「他人に干渉する者」とありますが、他人に干渉することも度を超えると悪いことになります。他人の家の問題に立ち入って、頼まれてもいないのに解決しようとするならば、それは人殺しや泥棒に連なる悪いことであるのです。
私たちキリスト者は、悪いことをして苦しむようなことがあってはなりません。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはならないのです。「イエス・キリストなんか信じているの」と馬鹿にされたとしても、決して恥じてはならないのです。むしろ、私たちは、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめるべきであるのです。この「キリスト者」という名称については、『使徒言行録』の第11章26節にこう記されています。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」。キリスト者(クリスティアノス)とは、キリストの者(もの)という意味で、周り人々からつけられたあだ名でした。それほど、キリストを信じた人たちは、周りの人たちにキリストのことを語っていたのでしょう。周りの人たちは、軽蔑の意味を込めて、キリスト者と呼んでいたのだと思います。しかし、キリストを信じる者たちは、それを光栄ある名としたのです(日本ではヤソ)。
「キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」。私たちは、このように記したペトロが、かつてキリスト者としての苦しみを恥じたことを知っています。『ルカによる福音書』の第22章に、イエス様が最高法院によって逮捕されたこと。そして、ペトロがイエス様との関係を三度否定したことが記されています。ペトロは、「お前も、イエスの仲間だ」と言われて、イエス様との関係を三度も否定したのです。それは、ペトロが、イエス様のことを恥じたからです。イエス様の弟子として苦しみを受けることを恥じたのです。しかし、そのペトロが、後に、キリスト者の名で呼ばれることで、神を崇めるようになります。『使徒言行録』の第5章に、使徒たちが最高法院に捕らえられ、鞭打たれ、イエスの名によって話してはならないと命じられたことが記されています。その後、使徒たちはどうしたでしょうか。聖書はこう記しています。「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせた」。「お前もイエスの仲間だ」と言われて、びくびくしていたペトロが、イエスの名のために辱めを受けたことを喜び、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者とされたのです。この変わりようを私たちは、どう理解したらよいのでしょうか。それは、聖書が記しているとおり、十字架の死から復活されたイエス・キリストがペトロに現れてくださったからです。そして、天に昇り、父なる神の右の座に着いて、ペトロに聖霊を与えてくださったからです。今朝の御言葉で言えば、「栄光の霊」がペトロのうえにとどまっていたからです。そして、栄光の霊は、イエス・キリストを信じて、その苦しみにあずかる私たちのうえにもとどまっているのです。
3.神の家から裁きが始まる
17節から19節までをお読みします。
今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。
ここで、ペトロは、キリスト者として受ける苦しみを、世の終わりのしるしであると見ています。イエス様は、世の終わりのしるしとして、弟子たちにこう言われました。「わたしの名のために、あなたがたはすべての人から憎まれる」(ルカ21:17)。キリストの名のために苦しみを受けている私たちは、この世の終わりのしるしであるのです。それゆえ、ペトロは、「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」と記すのです。ペトロは、キリストの名のために苦しみを受けている教会に、世の裁きの始まりを見ているのです。
ここで、ペトロが、神様の裁きについて記すのは、神様が御自分の民を苦しめる者たちに報復してくださることを思い起こさせるためです。キリストのために苦しみを受ける。キリストの名のゆえに非難される。そのとき、私たちは、自分たちを苦しめ、非難する者たちに復讐したくなります。そのような私たちに、ペトロは、主の裁きの近さ、確かさを語るのです。「わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。『正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか』」。このように記すことによって、ペトロは、イエス・キリストを信じ続けるようにと、私たちを励ましているのです(箴11:31「神に従う人がこの地上で報われるというなら/神に逆らう者、罪を犯す者が/報いを受けるのは当然だ」参照)。
19節は、今朝の御言葉の結論でありますね。苦しみには、悪いことをして受ける苦しみと、善いことをして受ける苦しみがある。善いことをして受ける苦しみとは、神の御心によって受ける苦しみのことです。そして、神の御心によって受ける苦しみの最たるものが、キリストのための苦しみであるのです。神の御心によって苦しみを受ける人は、どうしたらよいのか。ペトロは、「善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」と記します。このことは、私たちの主イエス・キリストがなされたことです。イエス様の苦しみ、それは、神の御心によって受けた苦しみでした。神に背く罪の世にあって、神の御心に従う人は苦しみを受けます。しかし、イエス様は、善い行いをし続けてくださいました。イエス様は、父なる神の御心に従って、十字架の苦しみを味わわれたのです。そして、十字架のうえで、父なる神の御手に、御自分の魂をゆだねられたのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って、イエス様は息を引き取られました(ルカ23:46)。日本語では「息を引き取られた」と翻訳していますが、もとの言葉を直訳すると「霊をはき出した」となります。イエス様は、文字通り、御自分の霊を父なる神の御手にゆだねられたのです。このイエス・キリストに倣うことが、キリスト者である私たちに求められているのです(4:1「キリストと同じ心構え」参照)。