神の御心に従って生きる 2022年1月23日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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ペトロの手紙一 4章1節~6節
聖書の言葉
4:1 キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。
4:2 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。
4:3 かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。
4:4 あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。
4:5 彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
4:6 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。ペトロの手紙一 4章1節~6節
メッセージ
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序.
今朝は、『ペトロの手紙一』の第4章1節から6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.同じ心構えで武装せよ
1節の前半をお読みします。
キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。
ペトロが、「キリストは肉に苦しみをお受けになった」と記すとき、その苦しみは、第3章18節に記されていた苦しみのことであります。第3章17節と18節にこう記されていました。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者のために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」。キリストは、神様の御心によって、善を行って苦しまれました。しかも、私たちの罪のために苦しまれたのです。キリストが、十字架のうえで、私たちのために血を流し、神様から見捨てられるという地獄の苦しみを受けることによって、私たちは神様のもとへと導かれました。そして、そのようなキリストを、神様は、朽ちることのない栄光の体で復活させられたのです。私たちは、そのキリストを信じて、キリストの名による洗礼を受け、救われたのです。このことを前提にして、今朝の御言葉は記されているのです。
キリストは肉に苦しみをお受けになった。そうであれば、キリストを主と告白し、従う私たちも、キリストと同じ心構えで武装すべきであるのです。ペトロは、第5章8節で、こう記しています。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」。キリストを信じて洗礼を受けたことにより、キリストの敵である悪魔は、私たちにとっても敵となりました。悪魔は、私たちをキリストから引き離そうと誘惑し、戦いを挑んで来るのです。『ペトロの手紙』の宛先である小アジアのキリスト者たちは、周りの人々から悪口を言われていました。その悪口を言う人々の背後には悪魔の働きがあるのです。そのような悪魔との戦いをどのような心構えで戦えばよいのか。ペトロは、「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と言うのです。このことは、ペトロが既に記してきたことですね。第2章23節で、ペトロはキリストについてこう記しました。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」。そのキリストに従う者として、ペトロは、侮辱をもって侮辱に報いないように、かえって祝福を祈るようにと記したわけです(3:9参照)。そして、心の中で、キリストを主と崇めながら、善い生活に励むようにと記したのです。善を行って苦しみを受けても、気を落としてはいけない。神様はそのあなたに必ず報いてくださるとペトロは記してきたのです。
キリストは肉に苦しみをお受けになりました。そうであれば、キリストを信じて洗礼を受けた私たちも、肉に苦しみを受けることを覚悟しなければなりません。そして、そのとき、大切なことは、キリストと同じ心構えを持つことです。苦しみについて、正しい理解を持つということです。善を行って苦しみを受けることは本来おかしいことです。しかし、そのおかしいことが、神様の御心によって起こることがある。キリストはまさにそうでした。正しい方が正しくない者の罪を担って苦しまれたのです。そのとき、キリストはどうされたか。キリストは神様の御心に従われたのです。十字架の上で血を流し、神様から見捨てられる地獄の苦しみを味わわれたのです。それは、キリストが神様の正しい裁きを信じていたからです。そのキリストを、正しい審判者である神様は、復活させられ、御自分の右の座へとあげられたのです。そのキリストと同じ心構えで、私たちは、悪魔と戦い、信仰を守らねばならないのです。
2.罪とのかかわりを絶った者
1節後半からと5節までをお読みします。
肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
「肉に苦しみを受けた者」とは、イエス・キリストを信じて洗礼を受け、キリストのために苦しんでいる者たちのことです。また、「罪とのかかわりを絶った者」とは、イエス・キリストによって、罪の奴隷状態から解放されて、神の奴隷とされた者のことです。このことは、使徒パウロが、『ローマの信徒への手紙』の第6章で詳しく記しています。「キリストに結ばれる洗礼を受けたあなたがたは、キリストと共に死んで、キリストと共に復活させられた。それゆえ、あなたがたは、もはや罪の奴隷ではなく、神の奴隷である」とパウロは記しています。ここでペトロが記していることも同じことです。キリストのために肉の苦しみを受けているあなたたちは、罪とのかかわりを絶った者である。あなたたちは、罪という主人から解放されて自由にされたのだとペトロは記すのです。2節に、「それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」とあります。これは、私たちがイエス・キリストを信じて洗礼を受けた目的でありますね。主イエス・キリストを信じて洗礼を受けることは、聖霊によって、上から、新しく生まれること、神の子として生まれることであります。そのとき、私たちは、「あなたは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聴いたのです(マルコ1:11参照)。それゆえ、私たちは、「天の父なる神様」と呼び、祈ることができるのです。それは、私たちの人生を、二分してしまうほどの決定的な出来事であるのです(西暦がキリストの誕生を境にして紀元前と紀元後に二分されるように)。
主イエス・キリストを信じて洗礼を受ける前、私たちはどのような生活を送っていたのでしょうか。それは人間の欲望に従う生活でした。自分の欲望に従って歩んでいたのです。そのかつての歩みが、3節に具体的に記されています。「かつてあなたがたは、異邦人が好むようにことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像崇拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です」。イエス・キリストを信じて洗礼を受ける前の私たちの生活原理は、自分の欲望を満たすことでした。その欲望を満たすために、女(異性)、酒、偶像崇拝にふけっていたのです。偶像崇拝とは、神でないものを神とすることですが、それは結局、自分を神とすることであるのです。人は自分が神でいるために、神でないものを神とする偶像崇拝にふけるのです。しかし、キリストを信じて洗礼を受けた後は、そうではありません。生活原理そのものが変わったのです。自分の欲望に従ってではなく、神様の御心に従って生きるようになったのです。そして、神様の御心に従って生きるようになって、初めて、「自分の欲望に従う生活は、もう十分だ」と言えるようになるのです。
このように、主イエス・キリストを信じて洗礼を受けると、人間の欲望にではなく神の御心に従って生きるようになります。生活原理が変わったわけですから、生活そのものが変わります。神様が忌み嫌われる、ひどい乱行に加わらなくなるのです。すると、周りの人たちは、不審に思って、そしるようになるのです。これは人間としてはよく分かることです。自分たちの楽しみである酒宴に来なくなる。また、自分たちが拝んでいる神々の像を拝まないようになる。そのような者は、おもしろくない。だから、悪口を言う。仲間はずれにするのです。神様の御心に従って生きるとき、人間の欲望に従って生きている人たちとの間に、いろいろな摩擦が生じてくるわけです。ですから、周りの人たちとうまくやっていくならば、人間の欲望に従って生きればよいのです。しかし、それでは、神様との関係はどうなってしまうのでしょうか。もし、この世界に神様がいなければ、人間は自分の欲望に従って生きればよいのかも知れません。しかし、この世界には神様がおられます。私たちキリスト者は、そのことを知っているわけです。天地万物を造られた神様が、世の終わりに、生きている者と死んだ者とを裁かれることを知っているのです。そして、私たちは、神様が、その裁きを、主イエス・キリストに委ねられたことを知っているのです(ヨハネ5:22、使徒10:42参照)。私たちの罪のために苦しまれた主イエス・キリストが、私たちの裁き主であられる。そのことは、私たちが罪に定められることはないことを教えています。また、同時に、私たちが主イエス・キリストを信じて洗礼を受けた者として、どのように生きたかが裁かれることを教えているのです。
3節に、「異邦人」という言葉があります。ここでの異邦人は、ユダヤ人以外の民族という意味ではなく、まことの神を知らない人という意味です。まことの神を知らない人は、自分を神として、自分の欲望に従って生きています。そして、神の御心に従って生きる私たちキリスト者をそしるのです。しかし、彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる神様に、申し開きをしなければなりません。彼らは、自分たちがそしっている主イエス・キリストの前で申し開きをしなければならないのです(なぜイエス・キリストを信じなかったのか、なぜキリスト者をそしったのか、を)。
3.霊において生きるようになるため
今朝は、最後に6節を学んで終わります。
死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。
ここでの「死んだ者」とは、イエス・キリストを信じて、洗礼を受けて死んだ者のことです。『テサロニケの信徒への手紙一』の第4章に、「既に眠りについた人たち」のことが記されています。主イエスが再び来られる前に、死んでしまった信者たちがいたわけです。その者たちは、どうなってしまったのか。滅んでしまったのだろうか。そのような問題意識が、この6節の背後にあるのです。イエス・キリストを信じて、洗礼を受けた者も肉体の死を経験します。人間の見方からすれば、裁かれて死んだように見えるわけです。イエス・キリストを信じれば、永遠の命が与えられると言うけれども、イエス・キリストを信じる者たちも、信じていない人と同じように死ぬわけです。しかし、神様の目にはそうではありません。神様との関係においては、霊において生きているのです。このことの実例が、『ルカによる福音書』の第23章に記されている、イエス様と一緒に十字架につけられて、イエス様を信じた強盗ですね。彼は、人の目には裁かれて死んだように見えます。しかし、その魂は、今日、イエス様と一緒に楽園にいるのです。私たちキリスト者にとって、死は罪の刑罰ではなく、天国の入り口であるのです(ハイデルベルク問42参照)。私たちの教会にも、肉体の死を経験して、天国に入られた兄弟姉妹がおられます(会員名簿の6頁参照)。その兄弟姉妹たちは、天上において、神様を礼拝しているのです(黙示4章参照)。その兄弟姉妹との再会を楽しみにしつつ、私たちはこの地上で礼拝をささげていきたいと願います。