生きている者の神 2022年1月16日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 12章18節~27節
聖書の言葉
12:18 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
12:19 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
12:20 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。
12:21 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。
12:22 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。
12:23 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
12:24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
12:25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」マルコによる福音書 12章18節~27節
メッセージ
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序.
今朝は、『マルコによる福音書』第12章18節から27節より、御一緒に御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.サドカイ派の人々
今朝の御言葉には、「サドカイ派の人々」が出て来ます。「サドカイ」という名称は、ダビデ時代の祭司ツァドクに由来すると言われています。サドカイ派には、祭司や貴族階級の人たちが属していました。彼らは「復活はない」と言っていました。サドカイ派の人々は、死者の復活を否定していたのです。そのことは、彼らが、聖書のはじめの五つの書物(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)、モーセが書いたと信じられていたモーセ五書しか、聖書として認めていなかったことに由来します。旧約聖書で、死者の復活について教えているのは、預言書であります。例えば、『イザヤ書』の第26章には、次のように記されています。「あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます」(イザヤ26:19)。また、『ダニエル書』の第12章には、次のように記されています。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く」(ダニエル12:2、3)。このように、預言書は、死者の復活について教えています。しかし、サドカイ派の人々は、モーセ五書だけを聖書として認めていましたので、彼らによれば、聖書は復活について教えていないわけです。サドカイ派の人々がモーセ五書を読む限り、死者の復活については教えられていないわけです。彼らは、人は死んだら、それで終わりであると考えていたのです。彼らは、この地上の生活がすべてであると考えていたわけです。サドカイ派は、さまざまな点で、ファリサイ派と対照的であります。サドカイ派の人々は、モーセ五書だけを聖書と認めておりました。他方、ファリサイ派の人々は、律法だけではなく、預言者や諸書(詩編など)も聖書として認めていました。そればかりか、昔の人の言い伝えをも口伝律法として重んじていたのです(マルコ7:3参照)。サドカイ派の人々は、復活はないと言っていました。他方、ファリサイ派の人々は、復活を信じていました。『使徒言行録』の第23章8節によれば、「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めてい」たのです。では、イエス様は、どうだったのでしょうか。イエス様は、モーセの律法と預言者の書と諸書(詩編など)を、聖書として認めておりました(ルカ24:44、マタイ23:35参照)。しかし、昔の人の言い伝えを、神の言葉と同じように重んじることを拒否されました(マルコ7章参照)。イエス様は、私たちが持っている旧約39巻を聖書として重んじられたのです。また、イエス様は、復活も天使も霊も信じておりました。イエス様が復活を信じていたことは、御自分の復活について、弟子たちに三度語られたことからも明かであります。イエス様だけではなくて、当時の多くのユダヤ人は、死者の復活を信じていたのです(ヨハネ11:24参照)。
2.復活についての問答
サドカイ派の人々は、イエス様も復活を信じていると考えたようです。それで、彼らは、イエス様のところに来て、こう尋ねるのです。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄に跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」。ここで、サドカイ派の人々が言いたいことは、「モーセの掟によれば、復活はない」ということです(申命25:5、6参照)。「もし、復活があるならば、七人の兄弟が一人の女を妻として奪い合うことになる。だから、復活はないのだ」と彼らは言うのです。このようなサドカイ派の人々に対して、イエス様はこうお答えになります。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」。サドカイ派の人々は、復活はないと言っていました。そして、そのことをモーセの掟を引き合いに出すことによって、論証してみせたのです。しかし、イエス様は、その彼らに、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしている」と言われるのです。なぜ、死者の復活を信じることができないのか。それは、聖書も神の力も知らないからだと言われるのです。そして、イエス様は、復活する者がどのような者として復活するのかを教えられるのです。サドカイ派の人々は、復活があるならば、七人の兄弟が一人の妻を奪い合うことになりはしないかと尋ねました。しかし、イエス様は、復活するときには、めとることも嫁ぐこともないと言われるのです。つまり、この世の生活が復活してからも同じように営まれるのではないことを教えられたのです。サドカイ派の人々は、復活はないと言っていましたが、そこで彼らが思い描いていたのは、この世の生活と同じような生活でした。しかし、イエス様は、復活するときには、めとることも、とつぐこともない、天における御使いのようになるのだと言われるのです。「天使のようになる」「天における御使いのようになる」とは、この地上のあり方とは違うものして復活することを教えています。『詩編』第103編にあるように、御使いたちは、主の御旨を果たす者たちであります。ですから、「復活するときには、天における御使いのようになる」とは、神様の御心を完全に行うことができる者として復活することを教えているのです。そして、その神様の御心の中には、もはや、めとることも嫁ぐこともないのですね。なぜなら、復活する人たちは、神様を父とし、イエス様を長兄とする兄弟姉妹として、神の家族として復活するからです。死者の復活については、使徒パウロが『コリントの信徒への手紙一』の第15章で詳しく記しています。また、復活した者たちが住む、新しい天と新しい地については、『ヨハネの黙示録』の第21章と第22章に詳しく記されています。今日は、読むことはしませんが、そこには、イエス・キリストを信じる者たちが、イエス・キリストが再び来られる日に、イエス・キリストと同じ栄光の体で復活することが教えられています。また、新しい天と新しい地には、もはや悲しみも嘆きも労苦もなく、父なる神様とイエス・キリストとの親しい交わりが実現することが教えられているのです。
3.生きている者の神
イエス様は、復活を信じておりました。それは、イエス様が、聖書も神の力もよくご存じであったからです。聖書と神の力をよく知っているイエス様にとって、神様が御自分の民を死者の中から復活させられることは自明の理であったのです。そのことを、イエス様は、サドカイ派の人々が聖書と認めているモーセの書から論証されます。「死者が復活することについては、モーセが『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」。「『柴』の個所」とは、『出エジプト記』の第3章のことです。モーセは柴が燃えているのに燃え尽きない、不思議な光景を目にします。モーセが燃える柴に近づいて行くと、神様は、柴の間からモーセに声をかけられました。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われたのです(出エジプト3:6)。この御言葉から、イエス様は、死者が復活することを論証するのですね。神様は、「わたしはあなたの父の神であった。アブラハムの神であった。イサクの神であった。ヤコブの神であった」と言われたのではありません。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われたのです。そのことは、アブラハムとイサクとヤコブが、神様との関係において生きていることを教えています。アブラハムとイサクとヤコブは、死んで葬られました。しかし、彼らは神様の御前に、霊において生きているのです。
私は、先程、『使徒言行録』の第23章の御言葉を引用して、サドカイ派の人々は復活も天使も霊も信じていなかったが、ファリサイ派の人々は、そのいずれをも信じていたと申しました。この復活も天使も霊も信じることは、どれも外すことはできない、一体的なものであることが、今朝の御言葉から分かりますね。イエス様は、復活するとき、天における御使いのようになると言われました。また、アブラハムとイサクとヤコブは、神様の御前に、霊において生きていると言われたわけです。
イエス様は、復活はないというサドカイ派の人々に、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな間違いをしている」と言われました。聖書には何が書いてあるのか。それは、神様がアブラハム、イサク、ヤコブと契約を結ばれたことです(創世15、17、22、26、28章参照)。神様は、アブラハム、イサク、ヤコブに、「あなたの子孫を夜空の星のように増やす」と約束されました。また、「カナンの土地を、あなたとあなたの子孫に与える」と約束されました。その聖書に記されている神様の約束は、アブラハム、イサク、ヤコブが死んだことによって破棄されてしまったのでしょうか。そうではありません。なぜなら、神様は力ある御方、死者に命を与えることのできる、命の主であるからです。神様は、終わりの日に、霊において生きているアブラハム、イサク、ヤコブを復活させて、約束の地が指し示すところの、新しい天と新しい地を受け継がせてくださるのです(ヘブライ11章参照)。
私たち人間同士の関係は、死によって引き裂かれてしまいます。しかし、神様と私たちの関係は、死によって引き裂かれることはありません。神様は、死を越えて、私たちを導かれる御方であるのです(詩48:15参照)。その確かな証しとして、神様は、イエス・キリストを、十字架の死から三日目に栄光の体で復活させられたのです。それは、イエス・キリストを信じる私たちが、死者の復活を信じて、希望を持って生きるためであります。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、イエス・キリストの神であります。そして、イエス・キリストの神は、私たち一人一人の神であるのです。ですから、私たちは、使徒パウロと声を合わせて次のように言うことができるのです。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38、39)。イエス・キリストを与えられたほどに、私たちを愛してくださった神様との関係は、死によって引き裂かれることはありません。イエス・キリストにあって、私たちは、復活の命、永遠の命に、既に生かされているのです。