担い、背負い、救い出す神 2021年9月19日(日曜 朝の礼拝)

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担い、背負い、救い出す神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
イザヤ書 46章1節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

46:1 ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ/お前たちの担いでいたものは重荷となって/疲れた動物に負わされる。
46:2 彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず/彼ら自身も捕らわれて行く。
46:3 わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。
46:4 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
46:5 お前たちはわたしを誰に似せ/誰に等しくしようとするのか。誰にわたしをなぞらえ、似せようというのか。
46:6 袋の金を注ぎ出し、銀を秤で量る者は/鋳物師を雇って、神を造らせ/これにひれ伏して拝む。
46:7 彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き/据え付ければそれは立つが/そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず/悩みから救ってはくれない。
46:8 背く者よ、反省せよ/思い起こし、力を出せ。
46:9 思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。
46:10 わたしは初めから既に、先のことを告げ/まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り/わたしは望むことをすべて実行する。
46:11 東から猛禽を呼び出し/遠い国からわたしの計画に従う者を呼ぶ。わたしは語ったことを必ず実現させ/形づくったことを必ず完成させる。
46:12 わたしに聞け、心のかたくなな者よ/恵みの業から遠く離れている者よ。
46:13 わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くはない。わたしは遅れることなく救いをもたらす。わたしはシオンに救いを/イスラエルにわたしの輝きを与えることにした。イザヤ書 46章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

序.『イザヤ書』について

 今朝は、最初に、『イザヤ書』について簡単にお話しします。『イザヤ書』は66章からなる長い書物ですが、伝統的には、アモツの子イザヤによって記されたと考えられてきました。しかし、現在、多くの研究者は、『イザヤ書』を大きく三つに分けて、それぞれ別の著者によって、また、別の時代に記されたと考えております。第1章から第39章までは、アモツの子イザヤによって記されました。そこには、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことが記されています(1:1参照)。また、第40章から第55章までは、第二イザヤと呼ばれる無名の預言者によって記されました。そこにはバビロン捕囚とその解放のことが記されています。さらに、第56章から第66章までは、第三イザヤと呼ばれる無名の預言者によって記されました。そこには、バビロン捕囚から帰還した後のことが記されています。このように、多くの研究者は、アモツの子イザヤが第1章から第39章までを記し、第二イザヤが第40章から第55章までを記し、第三イザヤが第56章から第66章までを記したと考えているのです。私も、そのことを前提にしてお話ししたいと思います。すなわち、今朝の御言葉を、バビロン捕囚の中にあるイスラエルの民に対して語られた御言葉として、お話ししたいと思います。

1.担い、背負い、救い出す神

 1節から4節までをお読みします。

 ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ/お前たちの担いでいたものは重荷となって/疲れた動物に負わされる。彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず、彼ら自身も捕らわれて行く。わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

 「ベル」も「ネボ」もバビロンの神々であります(ベルはバビロンの主神マルドゥクの別名。ネボはベルの息子で、知恵の神)。「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す」。この御言葉は、バビロンの滅亡を預言する言葉であります。主は、既に、バビロンを滅ぼす者として、ペルシャ帝国の王キュロスについて語っておりました。第44章28節と第45章1節に、こう記されています。

 キュロスに向かって、わたしの牧者/わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い/神殿には基が置かれる、と言う。主が油を注がれた人キュロスについて/主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り/国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ/どの城門も閉ざされることはない。

 このように、主は、ペルシャ帝国の王キュロスを用いて、イスラエルの民をバビロン捕囚から解放されるのです。ペルシャ帝国の王キュロスによって、バビロンが滅ぼされるとき、バビロンの神々はどうなるのか。そのことが今朝の第46章に記されているのです。

 ベルやネボの像は、獣や家畜に負わされて運ばれます。彼らは自分では動けないので、動物に背負われて逃げるのです。しかし、動物は疲れ、バビロン人もかがみ込み、倒れ伏します。バビロン人は重荷となった神々の像を、ペルシャ人の手から救い出すことはできず、彼ら自身も捕らわれの身となるのです。ベルやネボというバビロンの神々は、家畜に担われて運ばれる、人間の重荷となるのです。しかし、イスラエルの神、主は違います。主は、家畜に担われるような御方ではなく、御自分の民を担ってくださる御方であるのです。今朝は、礼拝後に、敬老のお祝いをいたしますが、主は、私たちを生まれた時から老いる日まで、白髪になるまで背負ってくださる御方であるのです。なぜなら、主は私たちを造ってくださった御方であるからです。主は、私たちの造り主として、私たちを担い、背負い、救い出してくださるのです。主は、私たちを担い、背負い、救い出すことによって、造り主としての責任を果たされるのです。そして、ここに、神様が御子イエス・キリストを遣わしてくださった理由があるのです。また、神様が御子イエス・キリストを十字架の死に引き渡された理由があるのです。さらには、神の御子イエス・キリストが、十字架の死を死んでくださった理由があるのです。

この3節と4節は、主の力強い、決意表明であります。「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。「イスラエルの残りの者」とは、バビロンに連れて行かれたイスラエルの人々のことです。ですから、ここで、言われていることは、バビロン捕囚からの解放のことであります。バビロン捕囚は、どのように実現するのか。それは、イスラエルの人々を造った主が、イスラエルの人々を担い、背負い、救い出すことによってであるのです。

2.神を造ることの愚かさ

 5節から7節までをお読みします。

 お前たちはわたしを誰に似せ/誰に等しくしようとするのか。誰にわたしをなぞらえ、似せようというのか。袋の金を注ぎだし、銀を秤で量る者は/鋳物師を雇って、神を造らせ/これにひれ伏して拝む。彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き/据え付ければそれは立つが/そこから動くことはできない。それに助けを求めても答えず、悩みから救ってはくれない。

 ここでの「お前たち」は「イスラエルの残りの者」を指しています。バビロンに住むようになったイスラエルの人々の中に、神の像を造る者たちがいたようです。古代オリエントの世界において、像を用いて神を礼拝することは、一般的なことでありました。しかし、イスラエルをエジプトの奴隷状態から導き出された主は、こう言われました。「あなたはいかなる像も造ってはならない。・・・あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(出エジプト20:4、5)。このように、主は像を用いて御自分を礼拝することを禁じられたのです。それは、すべてのものを造られた神様を人間の手によって造られた像によって表すことは不可能であるからです。5節の御言葉、「お前たちはわたしを誰に似せ/誰に等しくしようとするのか。誰にわたしをなぞらえ、似せようというのか」という御言葉は、像によって神様を表すことは不可能であることを教えているのです。たとえ、貴重な金や銀を大量に用いて、鋳物師に像を造らせても、それは神ではありません。なぜなら、その像は人間によって、担がれ、背負われていくからです。据え付けられれば立ちますが動くことはできません。その像に助けを求めて叫んでも答えはなく、悩みから救ってはくれないのです。しかし、まことの神様は、私たちを造られた御方であり、私たちを担い、背負い、救い出してくださる御方であるのです。偽りの神々は、人間の手によって造られ、人間によって担われ、人間を救うことはできません。しかし、まことの神様は、人間を造られ、人間を担い、救い出してくださる御方であるのです。

3.初めからのことを思い起こせ

 8節から13節までをお読みします。

 背く者よ、反省せよ/思い起こし、力を出せ。思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。わたしは初めから既に、先のことを告げ/まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り/わたしの望むことをすべて実行する。東から猛禽を呼び出し/遠い国からわたしの計画に従う者を呼ぶ。わたしは語ったことを必ず実現させ/形づくったことを必ず完成させる。わたしに聞け、心のかたくなな者よ/恵みの業から遠く離れている者よ。わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くはない。わたしは遅れることなく救いをもたらす。わたしはシオンに救いを/イスラエルにわたしの輝きを与えることにした。

 9節に、「思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない」とあります。ここでの「初めからのこと」には、神様の天地創造の御業、アダムに与えられた救いの約束、アブラハムの召し出しと契約の締結、さらには、モーセによるエジプトからの脱出、荒野の40年の歩み、ヨシュアによるカナンの土地の征服などが含まれています。その初めからのことを思い起こすならば、イスラエルの神、主の他に神はいないことが分かるというのです。10節に、「わたしは初めから既に、先のことを告げ/まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた」とありますが、これはバビロン捕囚からの解放のことを指しています。かつてエジプトの奴隷状態からイスラエルを導き出された主は、バビロンの奴隷状態からイスラエルを導き出してくださるのです。そして、それは、11節で、「猛禽」(性質が荒い肉食の鳥)と呼ばれる、ペルシャ帝国の王キュロスの手によるのです。王たちの王である主は、ペルシャ帝国の王キュロスを御自分の計画に従わせて、語ったことを必ず実現されるのです。それは、12節で言われているように、イスラエルの民が救われるのにふさわしいからではありません。彼らは心のかたくなな者であり、神様の正義から遠く離れている者たちであるのです(聖書協会共同訳参照)。ここで「恵みの業」と訳されている言葉(ツェダカー)は、「義」と訳される言葉であります。イスラエルの民は神様の義、正しさから遠く離れているのです。しかし、神様は、御自分の民を担い、背負い、救い出す造り主であるゆえに、御自分の救いを近く成し遂げられるのです。「わたしは遅れることなく救いをもたらす。わたしはシオンに救いを/イスラエルにわたしの輝きを与えることにした」とあるように、主はイスラエルの民を、再び、約束の地カナンへと連れ戻してくださるのです。そのようにして、神様は、イスラエルの民に、神の民としての栄誉をお与えになるのです。

 

結.語ったことを必ず実現させる神

 主は、11節の後半で、「わたしは語ったことを必ず実現させ/形づくったことを必ず完成させる」と言われます。このように言われた主が、第53章で、「主の僕の苦難と死」についてお語りになることを、私たちは心に留めたいと思います。また、ここでの主が、父と子と聖霊なる三位一体の神様であることを心に留めたいと思います。つまり、「わたしは語ったことを必ず実現させ/形づくったことを必ず完成させる」と言われたのは、父なる神様であり、子なる神様(人となる前のキリスト)であるのです。少し前に、『マルコによる福音書』から説教したとき、イエス様は、旧約聖書から、エルサレムで苦難の死を遂げることが神様の御計画であると読み解かれたこと。また、旧約聖書から御自分の死が多くの人の贖いの代価であることを読み解かれたことをお話ししました。そして、そのことが分かったとしても、イエス様が大きな愛をお持ちでないならば、先頭に立ってエルサレムへ上っていくことはできなかったと申しました。そのことを思い起こす時に、イエス様が、語ったことを必ず実現させ、形づくったことを必ず完成させる神その方として、先頭に立ちエルサレムへ上られたことが分かるのです。主イエス・キリストこそ、私たちを造られた神であり、私たちを担い、背負い、救い出す神であられるのです(コロサイ1:16「万物は御子によって、御子のために造られました」参照)。    

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