終わりの時の復活 2013年3月31日(日曜 夕方の礼拝)
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終わりの時の復活
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- 村田寿和 牧師
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ダニエル書 12章1節~4節
聖書の言葉
12:1 その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。
12:2 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
12:3 目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。
12:4 ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」ダニエル書 12章1節~4節
メッセージ
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序.
イースター祝会では、旧約聖書のダニエル書の第12章1節から4節までの御言葉を読んでいただきました。このところは旧約聖書の中ではっきりと死者の復活について記している有名な御言葉であります。今日は、一節、一節を解説していくということはしませんで、どのような時代背景の中で、死者の復活を信じるいわゆる復活信仰が言い表されたのかをお話したいと思います。
1.ダニエル書が執筆、編集された時代背景
ダニエル書は、紀元前6世紀にバビロン帝国によってユダ王国が滅ぼされ、ユダヤ人がバビロンに奴隷として連れて行かれた、いわゆるバビロン捕囚の時代を背景として記されています。しかし、最終的に編集されたのは、紀元前2世紀のシリア帝国による大迫害のときであったと言われております。ダニエル書は第1章から第6章までと第7章から第12章までの大きく2つに分けることができます。第1章から第6章まではダニエルの物語であり、第7章から第12章まではダニエルが見た幻について記されています。特に第10章から第12章までは、「終わりの時についての幻」として一つの大きな纏まりをなしています。ここに記されていることは、これから起こる預言として記されておりますが、実は、第11章39節まではすでに起こったことを預言として記す、いわゆる事後預言であります。特に、第11章21節から39節までは、イスラエル人を大迫害したシリア帝国の王アンティオコス四世エピファネスについての記述となっています。ダニエル書は、紀元前2世紀のいわゆる中間時代に記されたわけですが、その時代の歴史書として、旧約聖書続編の中に「マカバイ記」という書物があります。そのマカバイ記一の第1章41節以下に、アンティオコス四世の迫害について記されていますが、そのことをダニエル書はこれから起こることとして、第11章21節から39節までに記しているのです。ここでは、お配りしたマカバイ記一の第1章41節から64節までを読みます。
王は領内の全域に、すべての人々が一つの民族となるために、おのおの自分の慣習を捨てるよう、勅令を発した。そこで異邦人たちは皆、王の命令に従った。また、イスラエルの多くの者たちが、進んで王の宗教を受け入れ、偶像にいけにえを献げ、安息日を汚した。更に、王は使者を立て、エルサレムならびに他のユダの町々に勅令を送った。その内容は、他国人の慣習に従い、聖所での焼き尽くす献げ物、いけにえ、ぶどう酒の献げ物を中止し、安息日や祝祭日を犯し、聖所と聖なる人々を汚し、異教の祭壇、神域、像を造り、豚や不浄な動物をいけにえとして献げ、息子たちは無割礼のままにしておき、あらゆる不浄で身を汚し、自ら忌むべきものとすること、要するに律法を忘れ、掟をすべて変えてしまうということであった。そして王のこの命令に従わない者は死刑に処せられることになった。
王は祭壇の上に「憎むべき破壊者」を建てた。人々は周囲のユダの町々に異教の祭壇を築き、家々の戸口や大路で香をたき、律法の巻物を見つけてはこれを引き裂いて火にくべた。契約の書を隠していることが発覚した者、律法に適った生活をしている者は、王の裁きにより処刑された。悪人たちは毎月、町々でイスラエル人を見つけては彼らに暴行を加えた。そして月の25日には主の祭壇上にしつらえた異教の祭壇でいけにえを献げた。また、子供に割礼を受けさせた母親を王の命令で殺し、その乳飲み子を母親の首につるし、母親の家の者たちや割礼を施した者たちをも殺した。だがイスラエル人の多くはそれに屈せず、断固として不浄のものを口にしなかった。彼らは、食物によって身を汚して聖なる契約に背くよりは、死を選んで死んでいった。こうしてイスラエルは神の大いなる激しい怒りの下に置かれたのである。
このマカバイ記一の言葉を背景として、ダニエル書の御言葉を読むとき、第11章21節から39節までがアンティオコス四世について記されている事後預言であることがお分かりいただけると思います。ダニエル書第12章1節から4節は、旧約聖書の中ではっきりと死者の復活について教えている御言葉ですが、それは民族としての存亡の危機の時代に記された御言葉であるのです。
2.七人の殉教物語に見る復活信仰
復活信仰が迫害を通して明確に言い表されたことを、マカバイ記二に記されている「七人の殉教の物語」から再度確認したいと思います。時間の制約上、マカバイ記二の第7章1節から9節までを読みます。
また次のようなこともあった。七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。彼らの一人が皆に代わって言った。「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」王は激怒した。そして大鍋や大釜を火にかけるように命じた。直ちに火がつけられた。王は命じて、他の兄弟や母の面前で、代表して口を開いた者の舌を切り、スキタイ人がするように頭の皮をはぎ、その上、体のあちらこちらをそぎ落とした。こうして見るも無残になった彼を、息のあるうちにかまどの所へ連れて行き、焼き殺すように命じた。鍋から湯気が辺り一面に広がると、兄弟たちは母ともども、毅然として、くじけることなく死ねるよう互いに励まし合い、そして言った。「主なる神がわたしたちを見守り、真実をもって憐れんでくださる。モーセが不信仰を告発する言葉の中で、『主はその僕を力づけられる』と明らかに宣言しているように。」
こうして最初の者の命を奪うと、次に二番目の者を引き出し、これを辱めた。頭の皮を、髪の毛もろともはぎ取ってから、「肉を食え。それとも体をばらばらにされたいか」と言った。しかしそれに対して彼は、父祖のたちの言葉で、「食うものか」と答えた。そこで彼は最初の者と同じように拷問にかけられた。息を引き取る間際に、彼は言った。「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」
まだまだ物語は続くのですが、9節に、「世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ」とありますように、復活信仰は迫害に耐える力であり、希望であったのです。このような迫害に耐える人々に対して、ダニエル書の第12章の御言葉は語られているのです。それゆえ、そこでは、「ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」と記されているのであります。すなわち、アンティオコス四世をはじめとする迫害者は、神の正しい裁きによって、永久に続く恥と憎悪を被る者となるのです(二マカバイ7:14参照)。迫害の時代に記されたダニエル書だからこそ、終わりの時の神様の裁きを語り、さらにはある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となるとはっきりと記しているのです。
3.人の子であるイエス
「多くの者が塵の中から目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」。このような御言葉を読みますと、ではその基準は何でろうかと問いたくなると思います。マカバイ記に記されている人々にとって、それは神の律法に対する忠実でありました。しかし、後にイエス・キリストは、「律法は御自分について証しするものである」と言われました(ヨハネ5:39参照)。そればかりか、御自分こそが神様から裁きの権能をゆだねられた「人の子」であると言われたのです。ダニエル書の第7章13節に、「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた」とありますが、神の御子であるイエス様こそ、すべての人を裁く「人の子」であるのです。新約聖書のヨハネによる福音書第5章27節から30節までをお読みします。新約聖書の172ページです。
「また、裁きを行う権能を子に与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
ここでイエス様はダニエル書の教えと同じことを語っておられます。ただ一つ大きく違うことは、御自分が神様から裁きをゆだねられた審判者であると言われていることです。そして、その審判者は御自分の民のために十字架につけられ、三日目に復活されたお方であるのです。イエス様は御自分を信じる者たち、聖霊の結ぶ実としての善を行った者たちに永遠の命を与えてくださいます。イエス様は御自分の民の罪のために十字架の死を死なれ、三日目に神様から復活させられたお方として、終わりの日に私たちを正しい者と公に宣言し、私たちを御自分と御父との交わりである永遠の命に入れてくださるのです。イエス・キリストが私たちのために既に裁かれてくださいましたから、イエス・キリストを信じる者は、裁かれることなく死から命へと移っているのです。
結.神は独り子をお与えになったほどに
聖書が、永遠の命と永遠の滅びについて語りますとき、そこにはイエス・キリストのために迫害されている人々を励ますという意図があることを私たちは学びました。しかし、聖書が教える神様の意図、神様の御意志は、すべての人がイエス・キリストを信じて永遠の命を得ることであります。そのことを確認して、終わりたいと思います。ヨハネによる福音書第3章16節と17節をお読みします。新約聖書の167ページです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
終わりの時の復活が、この地上の苦しみを耐える力となるように、また死を越えた希望となるように、どうぞ、今、復活の主であるイエス・キリストを信じていただきたいと願います。