パウロの願い 2008年5月04日(日曜 朝の礼拝)

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パウロの願い

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 26章19節~32節

聖句のアイコン聖書の言葉

26:19 「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、
26:20 ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。
26:21 そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。
26:22 ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。
26:23 つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」
26:24 パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」
26:25 パウロは言った。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。
26:26 王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。
26:27 アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」
26:28 アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」
26:29 パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」
26:30 そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。
26:31 彼らは退場してから、「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」と話し合った。
26:32 アグリッパ王はフェストゥスに、「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と言った。使徒言行録 26章19節~32節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は26章全体をお読みしましたが、前回、18節までお話ししましたので、今朝は19節からお話ししたいと思います。

 19節に、「天からの示し」とありますが、このところを口語訳聖書、新改訳聖書は、「天からの啓示」と訳しています。パウロは、栄光の主御自身から、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と告げられ、「起きあがれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これから示そうとすることについてあなたを奉仕者、また証人にするためである。」との使命を与えられました。そのことをパウロは、天からの示し、天からの啓示と呼んでいるのです。これはガラテヤの信徒への手紙で、パウロが述べていることと軌を一にします。ガラテヤの信徒への手紙の1章13節から17節にこう記されています。

 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。

 ガラテヤ書に記されている「わたしをを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を告げ知らせるようにされたとき」とは、今日の御言葉で言えば「天からの示しを受けたとき」、「ダマスコ途上において、栄光の主イエスとまみえたとき」と言えるのです。

 パウロは、その天からの示しに背かず、「ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました」と語ります。ここで「背かず」と否定的に言っていますが、これは肯定的に言えば「従って」ということです。つまり、パウロがダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするように伝えたのは、天からの示しに従ったまでのことであったのです。このことは、前回学んだ、栄光の主イエスのお言葉を読めばよく分かります。17節、18節で、主イエスはパウロにこう仰せになっています。「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」

 この「天からの示し」により、パウロはユダヤ人にも異邦人にも、福音を告げ知らせたのです。しかし、パウロは、「そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとした」と言うのであります。「そのため」とは、具体的にはどのようなことでしょうか。それは、「ユダヤ人と異邦人を同じように扱ったため」ということです。パウロが受け、告げ知らせた福音、それはユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、イエス・キリストへの信仰によって罪の赦しを得、神の恵みの分け前にあずかることができる、という良き知らせでありました。神の契約と関わりのなかった異邦人も、メシアであるイエスを信じることによって、神の恵みにあずかることができるのです。これが、選民意識を持つユダヤ人には我慢ならなかったのです。ユダヤ人たちには、神の選びの民としての誇りがありました。旧約聖書が証しするメシアは、何より自分たちのためのメシアであると彼らは考えていたのです。しかし、パウロは、ユダヤ人と異邦人との間に何の差別もしませんでした。それは、何より主なる神がユダヤ人と異邦人との間に何の差別もなさらなかったからです。ユダヤ人も異邦人も、ただ主イエス・キリストへの信仰によって罪赦され、神の恵みの分け前にあずかることができるのであります。それが、パウロが「天からの示し」によって受けたイエス・キリストの福音であったのです。パウロは、「私は天から示されたことに背かず」と語りましたけども、これによって、そのパウロを捕らえ殺そうとした者たちこそ、神に背く者たちであることが暗示されています。パウロを捕らえ、殺そうとしたユダヤ人こそ、パウロが証しする天からの示しに背いているのです。

 22節、23節には、パウロが今日まで証ししてきた内容について記されています。パウロは「預言者やモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。」と断言します。パウロが宣べ伝えていることは、新しい教えではなくて、預言者たちやモーセ、つまり聖書の約束の実現に他ならないのです。そして、その約束とは「メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる」ということなのです。これは、復活されたイエスさま御自身が弟子たちに教えられたことであります。ルカによる福音書の24章に、復活の主イエスが二人の弟子たちと一緒にエマオへと歩まれるお話しが記されています。不思議なことに、二人の目は遮られていて、その男がイエスさまだとは分からないのですね。そして、復活されたイエスさまを前にしてこう述べるのです。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻ってきました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

 このような二人の言葉を聞いてイエスさまはこう仰せになるのです。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、イエスさまは、モーセとすべての預言書から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されたのであります。パウロは、このイエスさまの聖書解釈に従って、メシアは苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。天へと上げられたイエス・キリストは、パウロに聖霊を与え、パウロを通して、ユダヤ人にも異邦人にも、光を語り告げておられるのです。パウロだけではありません。主イエスは今も、私たちを通して、光を語り告げておられるのです。

 さて、パウロが弁明していると、それを遮るように、フェストゥスは大声でこう言いました。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」ユダヤ人の慣習も論争点も知らないローマの総督フェストゥスには、パウロの話は聞くに堪えない、非常識なものと思えたようです。フェストゥスは、パウロが学識のある人物であることは認めますけども、しかし、そのことがパウロをおかしくしてしまったと言うのです。しかし、パウロは冷静にこう述べるのです。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者を信じておられますか。信じておられることと思います。」

 パウロは、自分が頭がおかしいわけではなく、真実で理にかなったことを話していると告げます。そして、そのことの証人として、大胆にもパウロはアグリッパ王を持ち出すのです。自分が真実で理に適ったことを話していることは、ユダヤ人の慣習も論争点もよく知っているアグリッパ王が証言してくれると言うのです。パウロは、アグリッパ王に、「このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。」と語りました。「このこと」とは、23節の「つまり、私はメシアは苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げる」ことを指しています。メシアであるイエスさまの苦しみの極みである十字架の死は、エルサレムで、しかも過越の祭りの中での出来事でありました。先程引用したルカによる福音書24章の二人の弟子によれば、エルサレムに滞在していたすべての者が知っていたことであったのです。イエスさまが十字架につけられたときの罪状書きは「ユダヤ人の王」というものでありました。王とは、油注がれた者、メシアでありますから、イエスさまはまさしくメシアとして苦しみを受け、罪の贖いとしての死を死んでくださったのです。また、弟子たちに約束の聖霊が降り、イエスは復活し、すべての人のメシアとなられたと宣べ伝え始めたのは、やはりエルサレムであり、しかも五旬祭のときであったのです。アグリッパは、ユダヤ北部のカルキスの王でありましたが、その国民の中にも、多くのキリスト者たちがいたはずであります。そのキリスト者たち、キリストの教会が何より、十字架につけられたイエスが復活し、メシアとなられたことを証ししていたのです。ユダヤ人と異邦人からなるキリストの教会が、何よりイエスこそ、ユダヤ人にとっても、異邦人にとっても光であることを証ししていたのであります。私たちの教会にも、いろいろな国の方が出席しておられますけども、それは、どの国の人にとってもイエス・キリストが救い主であることを、身をもって証ししているわけです。外国から派遣されている宣教師や、外国ミッションとの宣教協力関係においても同じことが言えます。十字架につけられたイエスさまが復活し、天へと上げられ、全ての人のメシア、主となられたゆえに、主にある交わりはあらゆる国籍、民族の違いを越えてゆくのです。

 パウロは27節で、アグリッパ王に決断を迫る言葉を語ります。「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」パウロは、先程、自分が宣べ伝えているイエスこそ、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったことの実現であると述べておりました。「そうであれば、アグリッパ王よ、預言者たちを信じているあなたが、イエス・キリストを信じないのは理に適わないのではないでしょうか」とパウロは問うのです。ここにおいて、パウロがこれまで語ったきたことが、パウロの弁明というよりも、説教であったことが明らかとなります。預言者を信じているアグリッパ王が、パウロの証しするイエス・キリストを受け入れないのなら、アグリッパ王も天からの示しに背く者となるのです。アグリッパ王ばかりではありません。私たちも、パウロの証しを受け入れないのなら、天からの示しに背くものとなるのです。

 それに対して、アグリッパ王は、「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」と言いました。ここで、アグリッパ王は何の決断もしておりません。お茶を濁しただけのことであります。けれども、パウロはこう言うのです。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話しを聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」

 私のようになってくださること。これは18節の言葉を用いれば、「闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰り、イエス・キリストへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかる」ようになるということであります。パウロは、イエス・キリストの救いを宣べ伝えるための奉仕者、証人とされましたけども、まず彼自身が、イエス・キリストの救いにあずかる者とされたのです。彼自身が、復活の主イエスにまみえることによって、サタンの支配から神に立ち帰らされ、イエス・キリストへの信仰によって、罪の赦しを得、神の恵みにあずかる者とされたのであります。そして、この点において、「今日この話しを聞いてくださるすべての方が、わたしのようになってくださることを神に祈ります。」と語るのです。私の目を開いてくださった神が、どうか、あなたがたの目を開いてくださり、闇から光に立ち帰らせてくださるように、そのようにパウロは祈ってやまないのであります。この「神に祈ります」という言葉は、パウロの願望を表す婉曲的な言い方とも理解できますが、むしろ福音宣教の真の主体が、聖霊なる神であることをパウロが深く自覚していたことを教えています。そして、パウロは、自分を通して、聖霊が働いてくださることを信じるがゆえに、今日まで固く立ち、小さな者にも大きなものにも大胆に証しすることができたのです。

 今日の説教題を「パウロの願い」としました。ここに示されているパウロの願い、それは「すべての人が、私のようになってほしい」ということでありました。この言葉は、ずいぶん大胆な言葉のように思えます。ある歌の歌詞に、「『おまえは俺のようにはなるな』というのがオヤジの口癖だった」という歌詞がありましたけども、ここで、パウロが述べているのは、それとはまったく逆のことであります。私たちも、自分の子供に、あるいは自分の家族や友人に、「わたしのようになってほしい」と語ることができるだろうか。むしろ、「わたしのようにだけはなるな」としか言えないのではないかと思わされるのです。しかし、私たちキリスト者は、まだイエス・キリストを信じていない全ての人に対して、「わたしのようになってくださることを神に祈ります」と大胆に言うことができるのです。先月、4月20日に、私たちは半日修養会を行い、福音宣教について話し合いました。日本において、福音宣教がなかなか進展しないと言われて久しいのでありますが、その一つの理由は、私たちキリスト者が「あなたもわたしのようになって欲しい」と大胆に語ることができなくなっていることにあるのではないかと思います。生き方は人それぞれに違いますから、自分の生き方を他人に押し付けるのは傲慢と言えます。しかし、イエス・キリストを信じ、罪の赦しを得、神の恵みにあずかるという、この点においては、私たちは「どうかわたしのようになってほしい」と言うことができるし、また言うべきなのです。なぜなら、それは私たち自身の願いというよりも、天から示された神の願いに基づくものであるからです。パウロは、テモテへの手紙一の2章4節から7節でこう述べております。

 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。

 神さまは、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでられます。それゆえ、先に救われた私たちが祈り心をもって、「どうか、あなたもわたしと同じようにイエス・キリストを信じていただきたい」と語ることができるのです。イエス・キリストを信じ、救われた喜びに溢れて、「わたしのようになってほしい」と語ることができるのです。

 しかし、パウロはその最後に「このように鎖につながれることは別ですが。」と述べています。ある人は、パウロがイエス・キリストの名のゆえに鎖につながれていることから、ここでパウロは、イエス・キリストの名のゆえの苦しみを別にして、わたしのようになってほしいと祈り願っていると解釈いたします。けれども、これは「キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と語ったパウロとしては考えにくいことであります。むしろ、パウロは、自分を鎖につないでいるローマの権力に対して、静かな抵抗の言葉を述べているのではないかと思います。それは、「キリスト信者であるというだけで、誰も鎖につないでならない」という抵抗の言葉であります。

 パウロは、主イエスから「エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われておりました(23:11)。また、これから学ぶことになる27章24節では、パウロが天使から「あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。」とお告げを受けたことが記されています。パウロはローマ皇帝の前に立って何をしようとしていていたのでしょうか。もちろん、主イエスについて証しすることですが、より具体的に言えば、パウロは、ローマ皇帝に、キリスト教をローマ帝国の公認の宗教の一つとして認めてもらうための判例を残そうとしていたのではないでしょうか。はじめキリスト教は、ローマの公認の宗教であったユダヤの宗教の一派と考えられていました。けれども、次第に別物であるとローマ人にも認識されるようになります。そのきっかけとなったのが、他でもないユダヤ人からの告発でありました。25章の8節に、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません。」とのパウロの弁明の言葉が記されていますが、これはパウロ個人に留まらず、当時のキリスト教会への非難として読むことができます。そのような非難に対して弁明し、キリスト教こそ、聖書を実現するものであり、ユダヤ教に勝って公認されるべき教えであるとローマ皇帝を説得したいとパウロは願っていたと考えられるのです。使徒言行録は、パウロがローマ皇帝の前に立ったことを記さずに終わっておりますけども、しかし、私たちは、このアグリッパ王の前での弁明から、パウロがローマ皇帝の前で、何を語ろうとしていたのかを想い巡らすことができるのです。キリストを信じているだけで、鎖につなぐ者は、主イエスを迫害する者であり、自ら傷を負うだけであると、パウロは警告しているのです。これはいつの時代にあっても、キリストの教会を迫害する者が、肝に銘じておくべき言葉であります。

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