フェリクスの前で 2008年4月13日(日曜 朝の礼拝)
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フェリクスの前で
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- 村田寿和 牧師
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使徒言行録 24章1節~27節
聖書の言葉
24:1 五日の後、大祭司アナニアは、長老数名と弁護士テルティロという者を連れて下って来て、総督にパウロを訴え出た。
24:2 -3パウロが呼び出されると、テルティロは告発を始めた。「フェリクス閣下、閣下のお陰で、私どもは十分に平和を享受しております。また、閣下の御配慮によって、いろいろな改革がこの国で進められています。私どもは、あらゆる面で、至るところで、このことを認めて称賛申し上げ、また心から感謝しているしだいです。
24:4 さて、これ以上御迷惑にならないよう手短に申し上げます。御寛容をもってお聞きください。
24:5 実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。
24:6 この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました。
24:6 (†底本に節が欠落 異本訳<24:6b-8a>)そして、私どもの律法によって裁こうとしたところ、千人隊長リシアがやって来て、この男を無理やり私どもの手から引き離し、告発人たちには、閣下のところに来るようにと命じました。
24:8 閣下御自身でこの者をお調べくだされば、私どもの告発したことがすべてお分かりになるかと存じます。」
24:9 他のユダヤ人たちもこの告発を支持し、そのとおりであると申し立てた。
24:10 総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。
24:11 確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。
24:12 神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。
24:13 そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。
24:14 しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。
24:15 更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。
24:16 こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。
24:17 さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。
24:18 私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。
24:19 ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。
24:20 さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。
24:21 彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」
24:22 フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので、「千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする」と言って裁判を延期した。
24:23 そして、パウロを監禁するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。
24:24 数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。
24:25 しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。
24:26 だが、パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合っていた。
24:27 さて、二年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。使徒言行録 24章1節~27節
メッセージ
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前回、私たちは千人隊長クラウディウス・リシアが、ローマ市民であるパウロをユダヤ人の陰謀から守るために、カイサリアのユダヤ総督フェリクスのもとに護送したことを学びました。その手紙に記されていたように、千人隊長は、ユダヤ人たちにパウロのことを総督に訴え出るようにと命じました。また、総督も「お前を告発する者たちが到着してから、尋問することにする」といって、ヘロデの官邸にパウロを留置していたのです。5日の後、大祭司アナニアは、長老数名と弁護士テルティロというものを連れて下って来て、総督にパウロを訴えでました。ここで「弁護士」と呼ばれているのは、ユダヤの律法とローマの法律に詳しい雄弁家のことであります。最高法院は、わざわざ弁護士を立てて、パウロを訴え出たのです。ここに、彼らのパウロを罪に定めたいとの意気込みが表れています。パウロが呼び出されると、テルティロは次のように告発しました。
「フェリクス閣下、閣下のお陰で、私どもは十分に平和を享受しております。また、閣下の御配慮によって、いろいろな改革がこの国で進められています。私どもは、あらゆる面で、至るところで、このことを認めて称賛申し上げ、心から感謝しているしだいです。さて、これ以上御迷惑にならないよう手短に申し上げます。御寛容をもってお聞きください。実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました。閣下御自身でこの者をお調べくだされば、私どもの告発したことがすべてお分かりになるかと存じます。」
ここで、弁護士テルティロは、パウロを次の3つのことで訴えています。一つは、「この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしていること」。2つ目は、「『ナザレ人の分派』の主謀者であること」。3つ目は、「神殿さえも汚そうとしたこと」であります。
この訴えに対して、パウロは次のように答弁しております。
「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。確かめていただければ分かることですが、私が礼拝のためにエルサレムに上ってから、まだ12日しかたっていません。神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。さて、私は、同胞に救援金を渡すために、また、供え物を献げるために、何年かぶりかで戻って来ました。私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきでだったのです。さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたのか、今言うべきです。彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」
1つ目の「ユダヤ人の間に騒動を引き起こしている」という訴えには、パウロは11節から13節で弁明しています。パウロは、自分がエルサレムに上ったのは礼拝のためであり、まだエルサレムに来てから12日しかたっていないこと。神殿でも会堂でも町の中でも自分が誰かと論争したり、群衆を扇動したりするのを見たもはなく、彼らが何の証拠もあげられないことを指摘しました。パウロがエルサレムで騒動を引き起こしたことは、彼らのでっちあげ、言いがかりであると退けたのです。
2つ目の「『ナザレ人の分派』の主謀者」という訴えには、パウロは14節から16節で弁明しています。ここで、パウロは自分が主謀者であるかどうかは触れませんが、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従う者であることを認めています。当時、ユダヤ教はローマ帝国の公認の宗教でありましたが、テルティロは、パウロが信じるのは正統信仰と違う、分派、異端であると訴えました。けれども、パウロは、この道に従って礼拝しているのは、先祖の神であり、また自分は律法の書に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じていると言うのです。つまり、自分たちは異端ではなく、ユダヤの正統信仰に連なること、ローマ帝国において公認されるべき教えであることをパウロはここで主張しているのです。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望については、自分たちだけではなく、最高法院の議員たちも抱いており、その希望がこの道に独自のものではないことを指摘します。
3つ目の「神殿さえも汚そうとした」という訴えには、パウロは17節から21節で弁明しています。パウロが神殿に上ったのは、清めの儀式にあずかって供え物をささげるためであり、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人がおり、この者たちがパウロを「神殿を汚してしまった」と訴えただけなのです。ですから、パウロは、「もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。」と言ったのです。最高法院の議員たちは、その場におらず、パウロが神殿を汚そうとしたと訴えるには不適当な者たちでありました。彼らにできることと言えば、最高法院においてパウロがどのような不正を見つけたかを上げることだけなのです。そして、パウロは、ただ「死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ」と叫んだだけであったのです。そしてこのことは、最高法院の議員も信じていることであり、ローマの法廷では裁きの対象とならないきわめて宗教的な問題でありました。弁護士テルティロは、パウロを政治犯として訴えたのでありますけども、パウロは、それを弁明によって退け、「死者の復活の問題」という宗教的な問題としたわけです。
「フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので」とありますが、これは、この道の教えや活動が社会を騒がせるようにものではないことを知っていたということでしょう。それならば、パウロはすぐに釈放されそうなものですが、フェリクスは、「千人隊長リシアが下ってくるのを待って、あなたたちの申し立てに対する判決を下すことにする」と言って裁判を延期しました。フェリクスは、千人隊長リシアの手紙にあったように「パウロが告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました」けども、パウロを未決囚として、監禁しておくことの方が自分にとって都合がよいと判断したのです。そのことによって、パウロから賄賂をもらえるかもしれませんし、何よりパウロを無罪と宣言し釈放するよりも、監禁しておいた方が、ユダヤ人からの支持を得られると判断したからでありました。
パウロは、再び、監禁されたのでありますけども、数日の後、フェリクスはユダヤ人であるドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話しを聞きました。ドルシラは、神に栄光を帰さずに、蛆に食われてしまったヘロデ・アグリッパの娘であり、フェリクスの三人目の妻でした。フェリクスが、ドルシラを妻に迎えたいきさつについてユダヤの歴史家ヨセフスは、次のように伝えています。
ドルシラはフェリクスと結婚する前に、アズィゾスと結婚していたのですが、「フェリクスがユダヤ総督をつとめていたとき、彼はドルシラを一目見て、その美しさが他のすべての女性よりもすぐれているのを知り、この人妻に情熱を燃やした。そして彼は、自分の友人の一人で、魔術師を自称するキュプロス生まれのユダヤ人アトモスを彼女のもとへやり、彼女に、夫を捨てて自分と結婚するように説かせるとともに、もし彼女が自分を軽蔑しなければ、最高の幸せを与えてやると約束した。いっぽう、そのときのドルシラは必ずしも幸福とはいえず、意地の悪い姉のベレニケの手から逃れようとしており、ついに、先祖伝来の律法の教えに背いてフェリクスとの結婚を承諾した。」(ユダヤ古代史ⅩⅩ142)
このようないきさつで一緒になった二人でありましたから、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すのを聞いて恐ろしくなったのはよく分かります。フェリクスは、恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言って話しを中断してしまいました。そして、自分の任期が終わるまでの2年もの間、パウロを監禁したままにしておいたのです。
私たちはこのところから、ローマ総督の裁きがいかにいいかげんであるのかを知ります。ローマだけではありません。ユダヤの最高法院たちも、弁護士まで立てて、言葉巧みにパウロを偽証によって罪に定めようとしたのです。しかし、パウロは、このいいかげんに見える裁判にも、神の裁きを見ているのです。パウロは、16節で、「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」と語りました。これは、人を裁く者にこそ、求められる心構えであります。なぜ、パウロは、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めていたのか。それはパウロが、「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を神に対して抱いていたからです。」正しい者も正しくない者もやがて復活して、神によって裁かれる。パウロはそのことを希望としていたのです。
以前、町の中に、「死後に裁きがある」と書かれた看板を見たことがあります。「死後に裁きがある」と聞くと、なんだか怖いように思えます。それは私たちが自分の罪をよく知っているからですね。神が裁かれるのであれば、誰が正しい者としていただけるだろうかと思うからです。そして、私たちは「来るべき裁き」について考えなくなるのです。しかし、そのとき、私たちの心はどうなるのかと言えば、正義よりも自分の都合を優先するフェリクスのようになるのです。また、正しい者も正しくない者も復活するという希望を抱いていても、そこに確証が与えられないのなら、その希望は不確かなものとなり、罪と知りながら罪を犯し続けるという最高法院のようになるのです。パウロは、「この希望は、この人たち自身も同じように抱いています。」と言いました。しかし、パウロと最高法院が決定的に違うところは、パウロが復活の保証である主イエスにまみえ、この道を信じていたことであります。パウロは、17章に記されているアレオパゴスの説教で、こう語っていました。「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証を与えになったのです。」ここで、パウロは、神さまがイエスさまを死者の中から復活させられたのは、神の裁きがあることをすべての人に確証するためであったと語っています。そして、この確証は、イエス・キリストの復活を信じるすべての人に与えられているわけですね。イエス・キリストを信じる私たちは、やがて来る神の裁きの確証を与えられているのです。それは、イエス・キリストの死が他でもない、神の裁きとしての死、呪いの死であったからです。神が復活させられたイエス・キリストは、十字架の呪いの死を死んだものである。この事実が、すべての人が神の裁きを受けねばならないこと、すべての人が有罪であることを物語っているのです。けれども、神はこのイエス・キリストを死から三日目に復活させられました。そして、神はイエス・キリストを信じる者たちを、正しい者と宣言し、永遠の命を与えることをよしとされたのです。復活することが本当の希望となるのは、このイエス・キリストの復活を信じたときだけであります。なぜなら、神さまは、復活し、天へと上げられ、御自分の右の座につかれたイエス・キリストに、来るべき裁きを委ねられたからです。世を裁かれるお方が、私たちを愛し、私たちのために身を献げられたお方であるからこそ、私たちは来るべき裁きと真正面から向き合うことができるのです。復活を信じること、それはいつでも主の裁きの前に立つことができる備えを、今この地上で始めることであります。私たちは、十字架につけられたイエス・キリストのもとに日々立ち帰り、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めたいと願います。