復活という望み 2008年3月30日(日曜 朝の礼拝)
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復活という望み
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- 村田寿和 牧師
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使徒言行録 22章22節~23章11節
聖書の言葉
22:22 パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」
22:23 彼らがわめき立てて上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らすほどだったので、
22:24 千人隊長はパウロを兵営に入れるように命じ、人々がどうしてこれほどパウロに対してわめき立てるのかを知るため、鞭で打ちたたいて調べるようにと言った。
22:25 パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」
22:26 これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところへ行って報告した。「どうなさいますか。あの男はローマ帝国の市民です。」
22:27 千人隊長はパウロのところへ来て言った。「あなたはローマ帝国の市民なのか。わたしに言いなさい。」パウロは、「そうです」と言った。
22:28 千人隊長が、「わたしは、多額の金を出してこの市民権を得たのだ」と言うと、パウロは、「わたしは生まれながらローマ帝国の市民です」と言った。
22:29 そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、直ちに手を引き、千人隊長もパウロがローマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなった。
22:30 翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した。そして、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。
23:1 そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」
23:2 すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。
23:3 パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」
23:4 近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしる気か」と言った。
23:5 パウロは言った。「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」
23:6 パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」
23:7 パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。
23:8 サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。
23:9 そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。
23:10 こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。
23:11 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」使徒言行録 22章22節~23章11節
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受難週、イースターとしばらく使徒言行録から離れておりましたけども、今日からまた使徒言行録を読み進めていきます。
前回、私たちは、神殿の境内で逮捕されたパウロの弁明の言葉を学びました。パウロのユダヤ人に対する弁明の言葉が、22章1節から21節までに記されています。けれども、これはパウロが語り終えたというよりも、ユダヤ人の叫びによって、中断されたものでありました。22節、23節に、「パウロの話しをここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。『こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。』彼らがわめき立てて上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らすほどだった」と記されております。ヘブライ語で話し始めたパウロの弁明を静かに聞いていた人々が、ここで突然声を張り上げたのです。どうして、ユダヤ人たちはここで突然声を張り上げたのか。パウロによれば、神殿の主こそ、自分が迫害していたイエスであり、異邦人宣教は、その主のご命令であったのです。パウロは、ナザレのイエスこそ主であり、その主から異邦人に「この道」を広めるように命じられたのです。それで、人々はもはや聞いておれなくなり、声を張り上げ、石打の刑にしてやると言わんばかりに、上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らしたのです。投げつける大きな石が、神殿の境内にはなかったので、砂埃を空中にまき散らしたのであります。この様子を見て、千人隊長はパウロを兵営に入れるように命じ、人々がどうしてこれほどパウロに対して敵意を抱くのかを知るため、鞭で打ちたたいて調べるようにと命じました。千人隊長は、ヘブライ語が分かりませんので、パウロを拷問にかけて、直接パウロから聞き出そうとしたわけです。これは、ローマの官憲が、奴隷や非ローマ人から情報を聞き出すための普通のやり方でありました。この鞭には、重りや金属片がついておりまして、死んでしまうこともありました。死ななくとも、鞭打ちを受けた者は、体のどこかに障害を残すと言われます。ローマの官憲は、奴隷や非ローマ人に対して、大変手荒な取り調べ方をしていたわけです。ローマ兵たちは、パウロを鞭で打つために、その両手を広げて縛るのでありますが、そのとき、パウロは、そばに立っていた百人隊長にこう言いました。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってよいのですか。」パウロは、自分がローマ帝国の市民権を持つ者であることを打ち明けます。そして、それによって、鞭打ちを逃れようとするわけです。以前学んだ16章に、パウロが、フィリピにおいて、鞭打たれ、投獄されるというお話しが記されておりました。このときは、パウロは、町を去るときになってようやく自分がローマ帝国の市民であることを打ち明けるのですね。けれども、今朝の御言葉では、鞭を打たれる前に、自分がローマ人であることを打ち明けて、鞭打ちを回避しようとするわけです。これは、鞭打ちのひどさの度合いが違っていたからだと言われます。先程も申しましたように、この鞭には、重りや金属片がついており、それはひどい場合には死をもたらすものでありました。また、死ななくとも何らかの身体障害を残すほどひどいものであったのです。そのような鞭打ちの危険を前にして、パウロは自分がローマの市民権を持つ者であり、裁判にもかけず鞭で打つことは、ローマ法において赦されていないと主張したのです。パウロは、ローマ市民としてローマの法律に訴えて、自分を正しく取り扱うようにと求めたのでありました。これを聞いた百人隊長は、千人隊長に、パウロがローマの帝国の市民であることを告げました。すると千人隊長は、パウロのところへ来て直接パウロがローマ帝国の市民か、どうかを尋ねます。パウロが「そうです」と答えると千人隊長は、「わたしは、多額の金を出してこの市民権を得たのだ」と言いました。なぜ、千人隊長は、こんなことをパウロに打ち明けたのか。それは、みすぼらしいパウロが、どのようにしてローマの市民権を得たのかを知りたいと思ったからでありましょう。お前のような者に、ローマの市民権を得るほどの金があるとは思えんがという気持ちもあったのかも知れません。この千人隊長の名前は、23章の26節によりますと「クラウディウス・リシア」であることが分かります。新たに市民権を得た者は、時の皇帝の名前を冠する習慣がありましたから、この千人隊長は、クラウディウス帝(AD41~54年)のときに、ローマの市民権を得たと考えられます。けれども、パウロは、「生まれながらローマ帝国の市民」であったのです。パウロは、21章39節で、自分が「キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民」であると言いましたが、タルソスは、アウグストゥス帝(BC31~AD14年)のとき、「ローマ市民都市」とされ、その住民に一括してローマの市民権が賦与されたのでありました。パウロは、このタルソスの出身でありましたから、「生まれながらのローマ市民」であったのです。パウロが、ローマ市民であることを知ると、パウロを取り調べようとしていた者たちは手を引き、千人隊長もパウロがローマ帝国の市民であることを、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなりました。このことは、ローマ市民が、どれほどローマの法律によって守られていたかを私たちに教えてくれます。ローマ法を破って虐待を加えるならば、千人隊長といえども厳しく処罰されたのです。
翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを彼らの前に立たせました。ここで、告訴や証言の言葉もなく、突然パウロの弁明の言葉から始まっておりますけども、これはルカが省略しているためと考えられます。ルカは、そのことをもう既に記しておりますので、ここで改めそのことを記すことはしませんでした。確認のために申し上げますと、パウロへの訴えは、21章28節の「この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところで誰にでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」ということでありました。この訴えを受けて、あるいは幾人かのユダヤ人の証言の後に、パウロは最高法院の議員たちを見つめてこう言うのです。「兄弟たち、わたしは今日にいたるまで、あくまで良心に従って神の前で生きてきました。」ここで、パウロは、最高法院の議員たちを「兄弟たち」と呼びかけ、自分が神さまの御前に何のやましいところがないことをはっきりと告げました。裏を返せば、パウロはここで、自分が告げ知らせている「この道」こそ神さまの御心に適うことだと言っているわけです。すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つようにと命じました。けれども、パウロは大祭司に向かってこう言うのです。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」「白く塗った壁」これは、旧約聖書のエゼキエル書13章に出てくる「漆喰で上塗りした壁」を背景とする言葉です。ひびが入って崩れてしまいそうな壁に漆喰を塗り重ねて取り繕うことから、内側は朽ちかけているのに、外側だけ美しく装う偽善を表す言葉となりました。主イエスも、律法学者とファリサイ派の人々を偽善者と呼び、「あなたたちは白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れて満ちている。」と言われたことがあります。パウロは、大祭司を「白く塗った壁」と呼び、さらには、「神があなたをお打ちになる」とまで言うのです。これは神が災いをくだされるとの大変強い言葉です。なぜ、パウロは、最高法院の議員たちを「兄弟たち」と呼びかけ、冒涜とも思える言葉を言ったのでしょうか。4章にペトロとヨハネが最高法院で取り調べを受けることが記されておりますが、そこでペトロは、「民の議員、長老の方々」と呼びかけております。また、7章に、ステファノが、最高法院で語った言葉が記されておりますけども、そこでステファノは、「兄弟であり、父である皆さん、聞いてください。」と呼びかけています。また、パウロ自身も22章のユダヤ人に対する弁明では「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください」と呼びかけているのですね。けれども、最高法院の議員たちを前にしては、一貫して「兄弟たち」と呼びかけているのです(23:1、5、6)。これはもはやパウロが最高法院の議員たちに神さまからの権威を認めていないことを教えています。パウロが語った主イエスについての証しを受け入れない最高法院に、パウロはもはや神さまからの権威を認めることができなかったのです。それゆえ、パウロはこのような論争的な態度で最高法院の取り調べに臨んだのであります。パウロの言葉を聞いて、近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしる気か」と咎めましたけども、パウロはそれに対して「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」と答えました。このパウロの言葉は解釈の難しいところであります。本当に、パウロはその人が大祭司だとは知らなかったと解釈する人もいれば、パウロは皮肉を込めて、このようなことを命じる人が大祭司とは知らなかったととぼけていると解釈する人もいるのです。わたしとしては、文脈から言って、後者ではないかと思います。パウロは、皮肉を込めて、その人が大祭司だとは知りませんでしたととぼけ、しかし、わたしも「あなたの民の指導者を悪く言うな」と律法に書いてあることは知っていると自己弁護しているわけです。パウロは、ここでも自分が律法を重んじるユダヤ人であることをアピールしているわけです。
パウロは、孤軍奮闘しているわけでありますけども、パウロが最高法院において、罪に定められるのも時間の問題であったと思いますね。最高法院の判決は、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」というものでありましたから、あとは、それにふさわしい罪をパウロにかぶせればよかったわけです。けれども、パウロにとりまして、最高法院で裁かれ、ユダヤ人の手によって処刑されるということはどうしても避けねばならないことでありました。そのためにパウロは、議員の一部がサドカイ派であり、一部がファリサイ派であることに目をつけるのです。パウロは、議場で声を高めてこう言います。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」パウロは、先程、千人隊長に、自分は生まれながらのローマ市民であると言いましたが、ここでは、自分は生まれながらのファリサイ派であると言っています。この「生まれながらのファリサイ派です」という言葉を、新改訳聖書は、「わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子です。」と訳しています。こちらの方が原文に近い翻訳であります。つまり、パウロの父もファリサイ人であり、パウロは生まれた時から、この父によってファリサイ派の教育を受けてきたということです。まさにパウロは生まれながらのファリサイ派であったのです。8節に、「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれも認めているからである。」と記されていますが、もちろんパウロはこのことを知った上で「死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」と叫んだのでありました。パウロにとって、イエスの復活は、もろもろの死者たちの復活の初穂であり、その保証であったからです(一コリント15:20)。これによって、サドカイ派とファリサイ派との間に論争が生じ、最高法院は二つに割れたのです。パウロは、このように叫ぶことによって、ファリサイ派を自分の側へと引き寄せることに成功したのでありました。サドカイ派とファリサイ派が、キリスト教会に対する見方に温度差があることは、復活を認めるか、認めないかに由来すると言えます。4章1節以下を見ますと、こう記されおりました。「ペトロとヨハネが民衆に話しをしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。」死者の復活を認めない祭司たち、サドカイ派にとりまして、イエスが復活したということは、惑わしごと以外の何ものでもなかったわけです。続く5章にも、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々が皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえ公の牢に入れたことが記されておりますが、この使徒たちを死の危険から救ったのは、「民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエル」でありました。この人は、パウロの師、先生にあたる人でありますが(22:3)、ガマリエルは、そこでこう発言しています。「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかも知れないのだ。」分かりやすくいいますと、ガマリエルは様子をみようと言ったわけです。それは、ガマリエルの属するファリサイ派が、死者の復活を信じる者たちであったからです。なぜ、祭司を中心とするサドカイ派は、死者の復活を信じなかったのか。それは彼らが、旧約聖書のはじめの5つの書物、いわゆるモーセ五書だけを正典としていたことによります。聖書が、死者の復活についてはっきり記しているのは、後期に書かれた預言書でありまして、サドカイ派は、モーセ五書の中に、死者の復活は教えられていないと考えていたのです。ルカによる福音書の20章を見ますと、イエスさまが、サドカイ派の人々に、モーセ五書から死者の復活を教えられたことが記されています。イエスさまは、「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである。」と仰せになりました。そして、それを聞いていた律法学者の中には、「先生、立派なお答えです。」と言う者もいたと記されています。律法学者の多くはファリサイ派に属しておりましたから、死者が復活するということについて、律法学者もイエスさまと同じ意見であったのです。ただし、ファリサイ派の人々が、この地上の生活の延長線上から復活を考えていたのに対して、イエスさまは、復活した者が、天使に等しい者であり、神の子となることを教えられたのであります。この点で、イエスさまの教えは、ファリサイ派の人々とは異なる新しい教え、新しい啓示でありました。死者が復活するということが、多くのユダヤ人の間に広まっていたことは、ヨハネによる福音書11章に記されているマルタの言葉からも分かります。イエスさまが、「あなたの兄弟は復活する」と言われますと、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じています。」と言うのです。「終わりの日の復活の時に復活する」それは、旧約聖書の後期に書かれたダニエル書が明確に教えていることでもあります。ダニエル書の12章1節、2節にこう記されています。
その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国がはじまって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
また、ダニエル書の最後の言葉、12章13節にはこう記されています。
終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるだろう
この「お前は立ち上がるだろう」と訳されている言葉は、「お前は復活するだろう」とも訳せる言葉です。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と申しましたけども、そのことがここに明確に記されているわけです。そして、ファリサイ派の人々も、このダニエル書の言葉を聖書として、神の言葉として重んじ、信じていたのです。それゆえ、ファリサイ派の数人の律法学者たちは、激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」とさえ言ったのです。このことは、神殿の外庭でパウロが語ったダマスコ途上の出来事を背景にしています。数人のファリサイ派の律法学者たちは、パウロに復活した主イエスが現れたとは言いませんでしたけども、霊や天使が話しかけるという超自然的な体験をしたのではないかとパウロを擁護したのであります。ここでパウロが主張していることは、死者の復活というファリサイ派の望みこそ、イエス・キリストにおいて実現したということです。復活を信じるファリサイ派の議員たちは、イエスの復活を信じる素地をもっていたのです。神さまは、モーセ五書だけではなくて、39巻からなる旧約聖書を通して、イスラエルの民が、メシア・イエスの復活を信じ、受け入れられるよう道備えをなされたのでありました。そして今、パウロの「死者が復活するというの望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」との叫びによって、ファリサイ派の議員たちは、改めて復活という望みを真剣に考えるようになったのです。こうして、論争が激しくなり、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに命じて、パウロを力づくで助け出し、兵営に連れて行ったのでありました。千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知ろうと最高法院を召集したのでありますけども、その目的は果たせずじまいであったわけです。大祭司アナニアにしてみれば、パウロをユダヤの法廷で裁くことのできる機会を失ってしまったことになります。また、パウロにしてみれば、何とかユダヤ人の悪意の手から逃れることができたのでありました。パウロは、まだエルサレムに上る前、「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」と語りましたけども、パウロを今取り巻いている状態は、まさに死の一歩手前でありました。もし、パウロが自分は生まれついてのローマ市民であると主張しなければ、パウロは鞭打ちにより殺されていたかも知れないのです。また、もしパウロが、自分は生まれながらのファリサイ派ですと叫ばなければ、ユダヤ人の手によって裁かれ、石打の刑に処せられていたかも知れないのです。私たちはここに、何とか生きながらえようとするパウロの姿を見ることができます。パウロは、「主イエスの名のためなら、死んでもかまわない」と言いましたけども、今日の御言葉でパウロは、主イエスの名のために何とかして生き延びようとしているのです。そのパウロに、その夜、主イエスはそばに立ってこう言われたのです。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」この主イエスの言葉は、意気消沈するパウロを励ますための言葉であります。「パウロよ、あなたはエルサレムでよくわたしのことを証しした」という主イエスのおほめの言葉であります。パウロは、エルサレムに上る前に、ローマの信徒への手紙を記しましたけども(20:3)、その9章で、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」とユダヤ人に対する思いを記しました。けれども、そのユダヤ人から、パウロは、「こんな男は地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」と言われたのです。パウロは、自分の愛する者たちから、このような呪いの言葉をあびせられたのです。そのパウロの傍らに主は現れてくださり、「勇気を出しなさい」と励まされるのです。ここで、「勇気を出せ」と訳されている言葉は、ヨハネによる福音書16章33節のイエスさまのお言葉と同じ言葉であります。イエスさまは、弟子たちにこう言われました。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」十字架と復活によって、すでに世に勝っておられるイエスさまが、「勇気を出しなさい」と言われるのです。パウロだけではありません。主イエスは、今朝私たちに「勇気を出せ。あなたたちはこれからも力強くわたしのことを証ししなければならない」と言われるのです。たとえ、特別伝道礼拝に一人も新しい方が見えなくても「勇気を出して、わたしを証しし続けよ」と主イエスは私たちを励まされるのです。多くの人々が死者の復活を認めないこの日本で、私たちは主イエス・キリストのことを力強く証しするようにと定められているのであります。主イエスは、その光栄ある務めを他でもない私たちに託しておられるのです。