パウロの弁明 2008年3月09日(日曜 朝の礼拝)

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パウロの弁明

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 21章37節~22章21節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:37 パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、「ひと言お話ししてもよいでしょうか」と千人隊長に言った。すると、千人隊長が尋ねた。「ギリシア語が話せるのか。
21:38 それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」
21:39 パウロは言った。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」
21:40 千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制した。すっかり静かになったとき、パウロはヘブライ語で話し始めた。
22:1 「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」
22:2 パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。
22:3 「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。
22:4 わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。
22:5 このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」
22:6 「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。
22:7 わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。
22:8 『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。
22:9 一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。
22:10 『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。
22:11 わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。
22:12 ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。
22:13 この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。
22:14 アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。
22:15 あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。
22:16 今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」
22:17 「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、
22:18 主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』
22:19 わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。
22:20 また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』
22:21 すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」使徒言行録 21章37節~22章21節

原稿のアイコンメッセージ

 兵営の中に連れて行かれそうになったとき、パウロは「ひと言お話ししても良いでしょうか」とローマの千人隊長に言いました。あなたとお話ししたいのですが、とパウロは流暢なギリシア語で話しかけたのです。すると、千人隊長はこう尋ねました。「ギリシア語を話せるのか。それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」この言葉から、千人隊長は、パウロがギリシア語を話せないと思っていたことが分かります。千人隊長は、パウロを二本の鎖で縛り、この男が何者であるのか、また、何をしたのかと群衆に尋ねましたけども、それはパウロが、ギリシア語を理解できないと考えたからであったのです。しかし今、パウロがギリシア語を話せることが分かりましたので、千人隊長は、自分が尋ねて見たかったことを、パウロに直接聞いてみたわけです。「お前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」ここで、エジプト人とありますけど、これはエジプト出身のユダヤ人のことです。ですから、パウロは「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です。」と答えているわけです。ユダヤ人であるけれども、エジプト出身ではなくて、キリキア州の首都タルソスの市民であると言ったのです。当時、タルソスは、ギリシアのアテネ、エジプトのアレクサンドリアに並ぶ、文化の中心地でありました。パウロは、自分はそのタルソスの市民であると言ったのです。ここに、パウロが流暢なギリシア語を話せる背景があるわけです。パウロは、自分はユダヤ人であるが、キリキア州のタルソスの市民ですと言うことによって、千人隊長の質問に、そうではないと答えたわけです。そして、パウロは、千人隊長に「どうか、この人たちに話しをさせてください。」と頼むのです。千人隊長は、パウロがローマに反乱を企てる政治犯ではないことが分かり安心したのでしょう。パウロに話すことを許可しました。パウロは、神殿と兵営をつなぐ階段のうえに立ち、民衆を手で制して、ヘブライ語で話し始めるのです。「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」パウロは、ヘブライ語(正確にはアラム語)で話しかけることによって、また「兄弟であり父である皆さん」と呼びかけることによって、自分が同族の者であることを訴えます。これにより、人々はますます静かになりました。パウロは、「弁明を聞いてください」と言いましたけども、これはアジア州から来たユダヤ人たちの訴えに対する弁明であると思われます。アジア州から来たユダヤ人たちは、神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、こう叫んだのです。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」パウロが「弁明を聞いてください。」と語るとき、何より、このことについての弁明であると考えられるのです。パウロは、その弁明を自分のことを語り出すことによって始めます。

 「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。」

 パウロは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人でありました。けれども、パウロが育ったのは、この都、エルサレムであったのです。それも民衆全体から尊敬されている律法の教師のガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受けたのでありました(使徒5:34)。そして、「今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていた」と言うのです。「今日の皆さんと同じように」とは具体的にはどのようなことを言うのでしょうか。まず考えられることは、先祖の律法を守ることによって、ということです。先祖の律法を熱心に守ることによって、神に熱心に仕えることができる。このように、パウロの弁明を聞いているユダヤ人たちは考えていたし、かつてのパウロもそのように考えていたのです。また、続く4節との繋がりから考えると、「この道」を迫害することによって、と言うこともできます。「この道」とは「イエス・キリストを信じる者たち」「キリストの教会」のことですが、パウロの弁明を聞いているユダヤ人たちが、この道を宣べ伝えるパウロを迫害することによって、神に熱心に仕えていると考えているように、パウロもかつて「この道」を迫害することによって、神に熱心に仕えていると考えていたのです。

 「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて、獄に当時、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」

 このことは、8章から9章にかけて記されておりましたけども、ここでは、パウロの口から、自分の体験として語られています。パウロの迫害の手は、エルサレムに留まらず、エルサレムから遥か遠く離れたダマスコにまで及ぶのです。パウロは、大祭司と長老会全体、つまり最高法院から権威を与えられて、ダマスコにいる「この道」の者たちを処罰するために出かけて行ったのです。しかし、そのパウロに思ってもみない出来事が起こるのです。「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天からの強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』との答えがありました。一緒にいた人々は、その光を見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいのでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。」

 ダマスコに住む「この道」の者を縛り上げるために、パウロは旅を続けたわけでありますが、ダマスコに近づいたときの真昼ごろ、突然、天から強い光がパウロの周りを照らしました。パウロは地面に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いたのです。サウルは、パウロのヘブライ名であります。パウロが「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」との答えがあったのです。パウロは、主に仕えているつもりで、「この道」の者を迫害していたのでありますが、パウロがここで知らされたことは、自分が迫害していた「この道」の教えるところのナザレのイエスこそ、主であるということであったのです。「この道」と呼ばれているキリストの教会は、最高法院の裁きによって、十字架につけられたナザレのイエスが、復活し、メシアとなられたと教えていました(使徒2:36)。十字架は死は、木にかけられた、呪いの死でありまして、そのような者が、メシアであるはずはないとパウロは考えていたのです。そのような者が、イスラエルのメシアだと主張することは、神を冒涜することに他ならないとパウロは考えていたのです。けれども、そのパウロに、復活の主イエスは現れてくださり、直接、御声を聞かせてくださったのです。これは、信じる、信じないの次元ではないのですね。パウロは栄光の主イエスから直接、「あなたが迫害しているわたしこそ、主である」と知らされたのです。パウロが、「主よ、どうしたらよいでしょうか」と尋ねると、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる」と言われました。「わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなってい」たとありますけども、これは、復活の主イエスとの出会いが確かにあったことのしるしと言えます。パウロがなすべきこと、それはアナニアという人物を通して知らされることになるのです。

 「ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。『わたしの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」

 アナニアについても、9章に記されておりますが、そこで、アナニアは「弟子」と言われています。アナニアは、キリストの弟子として紹介されているわけです。けれども、パウロは、ここでは、アナニアを「律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるユダヤ人の中で評判の良い人」と紹介しています。パウロは、律法に熱心なユダヤ人に弁明しておりますから、その人々に受け入れてもらいやすいように、パウロは言葉を選んで語っているわけです。また、アナニアが「律法に従って生活する信仰深い人」と呼ばれているのには、「この道」のものが、律法に背く者ではないことが暗示されています。現に、エルサレムの弟子たちは、主イエスを信じながら、律法を熱心に守っていたのでありました。主イエスを信じるがゆえに、ますます熱心に律法を守っていたのです。すべてのユダヤ人の中で評判の良い人であったアナニアは、パウロにこう言いました。「兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。」すると、パウロは再び目が見えるようになったのです。このことは、アナニアが主イエスから遣わされた人物であることのしるしであります。そして、続けてこう言うのです。「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」「私たちの先祖の神」とは、イスラエルの神を言い表す伝統的な言い方です。私たちの先祖の神。アブラハム、イサク、ヤコブの神がわたしをお選びになった。それは御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためであるというのです。「正しい方」これはルカ文書において、メシア称号の一つであります(ルカ23:47、使徒3:14、7:52)。パウロは、復活されたメシア・イエスにお会いしたのです。それは、パウロが、見聞きしたことについて、すべての人に対してこの方の証人となる者であったからです。イエスを迫害していた自分が、実はイエスの復活の証人として定められていたというのであります。パウロは、自分がなすべきことは、「この道」を迫害すること、「この道」を滅ぼすことであると考えておりました。けれども、天からの光に照らされ、復活の主イエスとまみえ、その御声を聞いたとき、神さまの御心がそこにはないことをはっきりと悟ったのです。ナザレのイエスこそが、主メシアであり、自分は復活の証人として定められていたことをパウロは知らされるのです。それゆえ、アナニアは、「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱えて、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」と言うのです。「神さまの御心を悟り、自分についての神さまのご計画を知った今、何もためらうことはない。あなたもイエスを主と告白し、洗礼を受け罪を洗い清めなさい。」とアナニアは言うのです。そして、9章の記述によれば、パウロはアナニアから洗礼を受けたのです。「この道」を迫害するために、エルサレムからはるばるダマスコまでやって来たパウロが、自分の口でイエスを主と告白するのです。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪の赦しをいただくのであります。そして、ここに先祖の神、イスラエルの神の御心があるのですね。パウロは、その神さまの御心を告げ知らせる者として、まず自分がその神さまの御心に従ったのです。パウロは、3節で「今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」と言いましたけども、パウロは、依然として同じ神に、先祖の神に熱心に仕えているのです。ただ仕え方が違うのです。パウロは、律法遵守による自分の義を捨てて、イエス・キリストの正しさ、イエス・キリストの義に依り頼む者へと変えられたのです。イエス・キリストにあって、罪赦された者として喜びと感謝をもって仕える者と変えられたのであります。パウロがここで弁明していることは、「この道」は、先祖の神の御心に反するものではないということです。むしろ、「この道」は、先祖の神の御心の実現によるものなのであります。そうであれば、先祖の神に熱心に仕えるあなたたちこそ、正しい方イエスを信じて、この道に入るべきではないのか、そうパウロは言いたいわけです。先祖の神が、イエスを復活させメシアとされたことは、パウロが、神殿でイエスさまにお会いすることによっても表されています。「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ち叩いたりしたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」

 この17節以下の主イエスとパウロのやりとりは、9章には記されていません。けれども、9章26節以下に、ダマスコで福音を告げ知らせたパウロが、夜の間に町を抜け出してエルサレムに行ったことが記されています。おそらく、17節以下は、9章26節以下のときのことだと考えられます。エルサレムに帰って来たパウロは神殿で祈っておりました。パウロにとって、神殿は変わらず祈りの場であったのです。ここで、パウロが神殿について言及しているのは、「パウロが神殿にそむくことを教えている」と中傷されていたからです。しかし、パウロは、主イエスを信じてからも、自分は神殿で祈っていたと語るのです。それどころか、神殿で祈っているとき、我を忘れた状態になり、主イエスにお会いしたというのです。パウロは、ここでナザレのイエスこそ、神殿の主であると言っているわけです。このことは、先祖の神が、イエスを主メシアとされたならば、当然の帰結であります。そして、ここに初代教会の信者たちが、神殿に詣でていた理由があるのです。2章46節、47節は、初代教会の姿を教えるものでありますけども、そこには、「毎日ひたすら神殿に参り」と記されています。また、3章に入りますと、「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。」とあります。足の不自由な男を癒したペトロが説教をしたのは神殿においてでありました。5章に入りますと、使徒たちが大祭司とその仲間によって捕らえられ、公の牢に入れられるというお話しが記されています。使徒たちは、夜中に主の天使によって解放されるわけですけども、そのとき、主の天使は、使徒たちにこう言うのです。「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい。」また、5章の終わりの41節、42節には、こう記されています。「それで、使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」

 このように初代教会の信者たちは、神殿で祈り、使徒たちは神殿で福音を告げ知らせたわけです。なぜ、初代教会の信者たちは神殿に詣でて祈っていたのでしょう。また、なぜ使徒たちは、神殿の境内で、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていたのでしょうか。その答えは、イエスこそ、神殿の主であられるからです。このことは、イエスさま御自身にまで遡ることができます。使徒言行録の前篇であるルカによる福音書は、2章41節以下に、12歳のイエスさまが、両親と共に、過越祭を祝うためにエルサレムに上ったことが記されていまが、そこでイエスさまは、母マリアにこう言うのです。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか。」イエスさまにとって、神殿は、自分が当然いるべき、父の家なのですね。このイエスさま独自の神の子意識を前提とするとき、ルカによる福音書19章45節以下に記されている「神殿から商人を追い出す」というお話しも正しく理解することができるわけです。ルカによる福音書の19章45節から48節をお読みします。

 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」

 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

 イエスさまが、神殿の境内から商売をしていた人々を追い出してしまう。それは、御自分が神殿の主であると考えていたからです。さらに申し上げるならば、メシアであるイエスさまが来られた以上、このような動物犠牲はもはや必要なくなるからであります。神殿でいけにえの動物を売っていた商人を追い出すというイエスさまの行為は、預言者としての象徴的行為であったとも解釈できるのです。イエスさまは、神殿を「祈りの家でなければならない」と言われ、そして毎日、神殿の境内で教えられました。イエスさまにとって、神殿は何より「祈りの家」であり、「教えの場」であったのです。それゆえ、初代教会の信者たちは神殿で祈り、12使徒たちは神殿の境内でイエス・キリストの福音を告げ知らせたのです。そして、今日の御言葉では、使徒パウロが、神殿において、イエス・キリストの福音を告げ知らせているのであります。パウロは自分のことを語りながら、実はイエス・キリストの福音を語っているのです(使徒23:11)。

 パウロに現れた主イエスは、こう言われました。「急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。」これを聞いてパウロはこう反論します。「主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ち叩いたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。」パウロは、かつて「この道」を迫害していた自分が、イエス・キリストを告げ知らせれば、その変わりように驚いて多くの人が自分の証しを受け入れるはずだと考えておりました。しかし、このパウロの考えが楽観的であったことは、22節のユダヤ人の反応を読むとよく分かります。パウロの話を聞いていたユダヤ人たちは、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」と声を張り上げるのです。ヨハネによる福音書の11章に、イエスさまがラザロをよみがえらせるというお話しが記されています。そのラザロの姿を見て、イエスさまを信じる者たちも多く起こされるのですが、他方、祭司長たちは、ラザロを殺してしまおうとたくらむわけですね。それほどに、人の心はかたくなであるということです。事実、9章29節には、ギリシア語を話すユダヤ人がパウロを殺そうとねらっていたことが記されています。このままでは、パウロはステファノと同じ道をたどる恐れがあったのです。けれども、主イエスが、パウロにエルサレムから出て行くように言われるのは、パウロの証しを人々が受け入れないからという消極的な理由だけではありません。主イエスが、パウロにエルサレムから出て行くように命じられたのは、パウロを遠く異邦人のために遣わすという積極的な理由があったのです。15節に、「あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。」とありましたけども、ここでの「すべての人」はユダヤ人と異邦人からなるすべての人なのです。パウロは、異邦人宣教の使命を、神殿において、先祖の神によって立てられた主イエスから受けたのでありました。

 パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない」と叫び、わめき立てて上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らすのでありますけども、彼らは、これ以上パウロの話を聞いていられなかったのだと思います。パウロの証しによれば、イエスは神殿の主であり、そのイエスを主と受け入れず、「この道」を迫害している自分たちこそ、神殿にそむく者となってしまうからです。また、さらにパウロの話しが続けば、先祖の神は、主イエスにおいて、異邦人とユダヤ人の隔ての壁を取り除いたという結論になりかねないからです(エフェソ2:11-22)。それゆえ、彼らは、イエスさまを、地上から除いてしまったように、またステファノをこの地上から除いてしまったように、パウロをもこの地上から除いてしまえと叫ぶのです。

 先程、ルカによる福音書の19章45節以下の「神殿から商人を追い出す」という箇所を読みましたけども、その直前に、次のような御言葉が記されています。

 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・・・・。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」

 「神の訪れてくださる時」それは、イエスさまがエルサレムに入城されたときだけではありません。イエスさまの使徒であるパウロが神殿において、イエス・キリストの福音を告げ知らせたとき、神はその言葉に耳を傾ける一人一人の心に訪れてくださったのです。けれども、エルサレムのユダヤ人は主イエスによって遣わされたパウロを拒むことによって、イエスさまを拒み続けるのです。ユダヤ人だけではありません。すべての者が、神の訪れの時をわきまえないのなら、自らに滅びを招いてしまうのです。そして、その神の訪れ、イエス・キリストの福音を告げ知らせることが、私たちにも定められているのです。私たちも、復活の証人として、それぞれの生活へと遣わされて行くのです。

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