パウロの逮捕 2008年3月02日(日曜 朝の礼拝)
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パウロの逮捕
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- 村田寿和 牧師
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使徒言行録 21章27節~36節
聖書の言葉
21:27 七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、
21:28 こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」
21:29 彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。
21:30 それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。
21:31 彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。
21:32 千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた。
21:33 千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。
21:34 しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てていた。千人隊長は、騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。
21:35 パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。
21:36 大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。使徒言行録 21章27節~36節
メッセージ
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パウロは、エルサレム教会の人々の言葉に従って、誓願を立てた四人の者の頭をそる費用を負担し、彼自身も清めの式を受けました。その清めの期間、七日の期間が終わろうとしていたとき、パウロは神殿の境内で全群衆によって捕らえられるのです。ここでの「全群衆」とは、主イエスを受け入れないユダヤ人たちのことであります。そして、そのユダヤ人たちを扇動したのは、アジア州から来たユダヤ人たちでありました。20章の16節に、「できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。」とありましたけども、どうやらパウロは五旬祭に間に合ったようであります。アジア州から来たユダヤ人は、五旬祭を祝うためにエルサレムに来ていたわけです。五旬祭は、ユダヤの三大祭りの一つでしすから、このときは、世界各地からユダヤ人たちが巡礼に訪れていたのです。このアジア州から来たユダヤ人たちは、29節を見ると、エフェソ出身のトロフィモを知っていますから、もう少し正確に言うと、アジア州の首都エフェソから来たユダヤ人たちです。エフェソにおいて、パウロの宣教に反対し、パウロに対して敵意をもっていたユダヤ人たちが、エルサレムのユダヤ人たちを扇動して、パウロを捕らえたのです。
彼らは、パウロと捕らえるなり、こう叫びました。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」
新共同訳聖書は、「無視することを」と訳していますが、これはもとの言葉から言うと、「そむくこと」「逆らうこと」と訳した方がよいと思います。口語訳聖書は、「民と律法とこの場所にそむくことを」と訳しています。また、新改訳聖書は、「この民と、律法と、この場所に逆らうことを」と訳しています。細かいことと思うかも知れませんが、「無視するように教える」と「そむくように教える」とでは、だいぶ意味合いが変わってくると思うのです。先程、ときは五旬祭であったと申し上げましたが、五旬祭は、もともとは麦の収穫をお祝いする収穫祭であったと言われます。しかし、後にユダヤ人は、五旬祭を、シナイ山において律法を与えられたことを感謝し、喜び祝う祭りと意味づけたのです。ですから、五旬祭は、律法が与えられたことを感謝する祭りなわけです。そのような祝いのただなかで、彼らは「この男は、民と律法とこの場所にそむくことを、至るところでだれにでも教えている。」と叫んだのです。これは、かなりインパクトがあったと思います。「この民は、民と律法とこの場所にそむくことを、至るところでだれにでも教えている。」この言葉は、前回学んだ、パウロについてのうわさと通じるものがあります。律法を熱心に守っていたエルサレム教会の兄弟姉妹たちは、パウロが「異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えている」と聞かされておりました。そのうわさの出所、それがアジア州から来たユダヤ人たちのような、パウロの教えに反対する、パウロに敵意を持っていたユダヤ人たちであったのです。彼らは、「この男は神殿にそむくことを至るところで教えている。その証拠として、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」と叫びました。エルサレム神殿には、いくつかの区分がありました。神さまが御臨在される至聖所を中心にして、イスラエルの庭、婦人の庭、異邦人の庭という区分が設けられていたのです。それによって、神さまとの距離、神さまとの関係の親密さが表されていたわけです。そして、その区別、隔ての壁を越えることは堅く禁じられておりました。異邦人が内庭、婦人の庭に入るならば、その者は自らに死を招くと警告されていたのです。もちろん、そのようなことをパウロは知っておりましたから、ギリシア人であるトロフィモを境内に連れ込むことは考えられません。パウロが、トロフィモをそのような危険にあわすとは考えられないことです。そもそも、パウロは神殿に、清めの期間を終えるために詣でたのですね。パウロは、神殿を汚さないために清めの期間を終えようと詣でたのです。そのパウロをアジア州から来たユダヤ人たちは、神殿を汚す者として訴えるのです。これはなんとも言えない、皮肉なことであります。パウロが、ギリシア人を境内に連れ込んではいないということは、29節でちゃんと説明されています。「彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。」なぜ、アジア州のユダヤ人たちが、パウロがギリシア人を境内に連れ込んだと思ったのか。それは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいるのを見たからだと言うのです。ただそれだけなのですね。彼らは、都、エルサレムの町中で、パウロとトロフィモが一緒にいるのを見ただけなのです。ちなみに、トロフィモという名前は、20章4節に出てきました。20章4節、5節は、パウロに同行した異邦人教会の代表者のリストが記されているところでありますけども、その中に、アジア州出身のトロフィモの名前が記されているのです。トロフィモは、エフェソ教会の代表者として、パウロと一緒にエルサレムに来ていたわけです。しかし、トロフィモを初めとする、異邦人教会の代表者たちが、エルサレム神殿に詣でたということは考えられません。そのようなことをエルサレム教会の人々もゆるさなかったでしょうし、パウロもそれを望まなかったでしょう。それに、主イエスを信じる彼らにとって、もはや神殿に詣でる必要もなかったのです。このことについては、後で詳しくお話ししますが、ともかく、アジア州から来たユダヤ人たちは、思い込みだけで、「この男は、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」と叫んだのでありました。しかし、このような彼らの叫びは、都全体を大騒ぎにするのに十分でありました。「民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。」とあります。神殿の境内とは、内庭、婦人の庭までを指すのでしょう。民衆は、パウロを婦人の庭の外、つまり異邦人の庭に引きずり出してパウロを殺そうとしたのです。それゆえ、ここで閉ざされた門は、内庭と外庭との間の門のことであります。神殿守衛長をはじめとする祭司たちは、血が流されることによって神殿が汚されることを恐れて門を閉ざしたのです。
彼らが、パウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとへ届きました。この守備大隊は、エルサレムの治安を守るために配備されているローマの軍隊で、神殿の北西に隣接しているアントニア要塞に待機しておりました。ですから、彼らはすぐにその場に駆けつけることができたわけです。ある人は、32節の百人隊長が複数形で記されていることから、このとき少なくとも200人以上のローマ兵が駆けつけたのではないかと推測しています。群衆は、千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめました。もし、このとき、ローマ兵が駆けつけなければ、パウロは殺されていたことでありましょう。パウロは、千人隊長によって、二本の鎖で縛られるのでありますけども、これによって、パウロは命拾いしたわけです。パウロが、異邦人であるローマ兵によって捕らえられ、二本の鎖で縛られるということは、11節に記されていたアガボの預言の成就と言えます。けれども、それは予想に反して、ユダヤ人の手からパウロの命を救うことになったわけです。千人隊長は、この男が何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねました。しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てており、騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営、つまりアントニア要塞へと連れて行くように命じたのです。アントニア要塞と異邦人の庭は、二つの階段で結ばれていたといいますが、パウロはその階段まで自分の足で歩いて行ったようですね。しかし、そこからは群衆の暴行を避けるために、兵士たちはパウロを担いで行かなければなりませんでした。なぜなら、大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからです。ここで「殺してしまえ」と訳されているもとの言葉は、イエスさまに対して人々が叫んだ言葉と同じ言葉であります。ローマの総督ポンテオ・ピラトが、「この男は死刑にあたるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」と言いますと、人々は一斉に「その男を殺せ、バラバを釈放しろ。」と叫ぶのです。かつて人々が、イエスさまを「殺してしまえ」と叫んだように、彼らは、イエスさまの使徒パウロに対して、「その男を殺してしまえ」と叫ぶのです。これは、自分に置きかけて考えてみますと、大変厳しいことであったと思います。私たちは、たとえ一人であっても、自分の死を願っている者がいることが分かれば、落ち着かなくなると思いますね。それも、大勢の人々が、自分の死を願っているならばどうでしょうか。パウロは、そのようなところに身を置いているわけです。そして、それを承知で、パウロは、エルサレムへと帰ってきたのです。パウロに対する、ユダヤ人の敵意、殺意というものは、まことに強いものでありました。なぜ、それほどまでに、パウロを憎むのか。それはこのユダヤ人たちも、パウロが、異邦人の間にいる全ユダヤ人に、モーセから離れるように教えているといううわさを耳にしていたでしょう。少し先の24章の5節で、ユダヤ人の弁護士テルティロは、総督フェリクスにパウロのことを次のように訴えています。
この男は、疫病なような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の首謀者であります。この男は神殿さけも汚そうとしましたので逮捕しました。
この言葉によると、パウロはまずユダヤ人の手で逮捕されているのですね。そして、その罪状は、神殿を汚そうとした神殿を冒涜する罪であったのです。アジア州の人々が叫んだ言葉の中にも「この男は、この場所、神殿にそむくことを教えている」とありました。パウロは神殿にそむくことを教え、その上、神殿を汚してしまった。そのような男は、生かしてはおけないと多くのユダヤ人は考えたのです。このような神殿冒涜の罪は、死刑にされて当然の罪でありました(エレミヤ26:8)。そして、これは、パウロに始まったことではなくて、ステファノ、さらには主イエスへと遡ることができるわけです。マルコによる福音書の14章に、イエスさまが最高法院で裁判を受ける場面が記されています。その57節から59節にこう記されているのです。
すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。
ここで、偽証人たちは、イエスさまに神殿を冒涜した罪を負わせて、死刑にしようといたしました。確かに、イエスさまは、13章1節以下で、エルサレム神殿の崩壊を予告しましたけども、しかし、自分が壊すとは一言も言っていません。イエスさまが、神殿の崩壊について預言しましたけども、「わたしがこの神殿を壊してやる」と言ったことはありませんでした。そして、ここに彼らの証言の偽りがあるわけです。そのことは、ヨハネによる福音書の2章を見るとよく分かります。ヨハネによる福音書は、はやばやとイエスさまが神殿から商人を追い出したことを記すわけでありますが、その中で、先程の証言とよく似た言葉がイエスさまの口から語られています。ヨハネによる福音書の2章19節から22節をお読みします。
イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
このヨハネによる福音書の言葉を、先程のマルコによる福音書の言葉と比べるならば、どこが偽りで、悪意によって変えられていたかが分かります。ここでイエスさまは、「あなたたちが、この神殿を壊してみよ」と言っているのであって、決して、「わたしが壊してやる」とは言っていないのですね。これが第一点です。第二点は、イエスさまが、ここで言われる神殿とは、手で造った神殿のことではなくて、手で造らない神殿、御自分の体のことでありました。けれども、マルコによる福音書の言葉では、わたしが打ち壊すと宣言した神殿が、手で造った神殿、エルサレム神殿と規定されているわけです。このように、イエスさまが、神殿の崩壊について語った言葉が、彼らを通して変わってしまっているわけです。こういうことは、私たちの生活においても、良く経験することであります。ある人から、「あなたこう言ったじゃない。」と言われて聞いてみると、自分が言った言葉と違っていて、面食らってしまうということが、私たちにもあると思います。 「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』というのを、わたしたちは聞きました。」という偽証の言葉は、実は、イエスさまが十字架につけられる場面でまた語られます。マルコによる福音書15章の27節から30節をお読みします。
また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」
私は今、マルコによる福音書を開いて、イエスさまのことをお話ししましたけども、使徒言行録の前篇であるルカによる福音書には、実は、このイエスさまが神殿を冒涜したという偽証は出てきません。ルカは、それを使徒言行録6章の、ステファノに対する訴えの中に記しているのです。使徒言行録の6章12節から14節をお読みします。
また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」
このステファノへの訴えは偽証でありますけども、イエスさまの弟子たちが、先生であり師であるイエスさまと同じく、神殿の関わり方に疑問を持たれていたことを教えています。そして、ステファノは、最高法院において、まことに堂々と、自分の神殿に対する立場、神殿についての神学を語ったわけであります。結論を申し上げると、メシアであるイエスが来られた以上、神殿はその目的を果たし、もはや意味を持たないとステファノは語ったのでありました。ステファノの説教は、イエスをメシアと認めない者たちには、神殿をけなすことのように聞こえたかも知れませんけども、イエスをメシアと信じる者たちには、そのようには聞こえなかったはずです。ステファノは、その説教の中で、エジプトから導き出された先祖たちが、モーセの帰りを待ちきれず、金の雄牛の像を造ったと語りました(使徒7:41)。これは、自分たちをエジプトから導き出した神と金の雄牛の像と完全に同一視したということではありません。そうではなくて、この金の子牛は、目に見えない神さまがご臨在される台座のようなものと考えられていたのです。そして、このような礼拝様式は、古代近東諸国において見られるものであったのです。ですから、ここで問題とされているのは、神さまをどのように礼拝するのかということなのです。先祖たちは、自分たちをエジプトの地から導き出した主なる神を、近東諸国の神々と同じ仕方で拝もうとしたわけです。ステファノは、金の雄牛の像を、「自分たちの手で造ったもの」と呼んでおりますけども、これと同じ言葉を、ソロモンによって建てられた神殿にも用いています(使徒7:48)。「神のために家を建てたのはソロモンでした。けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。」そして、イザヤ書の預言を引用し、正しい方、メシアが来られたが、あなたたちはその方を裏切る者、殺す者となった。それはあなたたちが律法を守らなかったからだと断罪したのです。このイザヤの言葉は、新しい天と新しい地の預言の一節であります。メシアが来られたとき、新しい天と新しい地の祝福、神さまとの親しい交わりが実現すると、当時のユダヤ人たちは信じておりました。そして、ステファノは、そのお方は既に来たのだ、と語るのです。そればかりか、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」とさえ言うのです(使徒7:56)。預言者たちの証しする正しい方が来られ、すでに父なる神の右に君臨しているならば、それはおのずと礼拝のあり方も変わってくるはずであります。メシアが来られたにもかかわらず、神殿祭儀にしがみつくあなたたちは、エジプトから導き出されたにもかかわらず、金の子牛で神を拝もうとする先祖たちと同じ過ちを犯しているとステファノは言いたいわけです。
今日の御言葉から随分離れてしまったように思えますけども、わたしが今、主イエスとステファノについて語ったのは、パウロがその連続線上に立っているからであります。かつてイエスが、「神殿を打ち壊す者」と偽証されたように、ステファノが、「神殿を汚す者」と偽証されたように、パウロも「神殿にそむくように教える者」「神殿を汚す者」と偽証されているわけです。
アジア州から来たユダヤ人たちは、「パウロが、神殿にそむくことを教えている」と叫びました。これは、偽りの言葉でありますけども、しかし、パウロが神殿について積極的に教えなかったことも事実であります。先程も申しましたように、もし神殿に行っても、異邦人は境内に入ることはできませんでした。また、ユダヤ人であっても、女性は婦人の庭まで、男性ならイスラエルの庭までしか入ることはできなかったのです。つまり聖所に入ることはできなかったわけですね。聖所に入ることができるのは当番の祭司たちだけであり、さらにその奥の神さまが御臨在されると信じられていた至聖所には、年に一度、大祭司しか入ることはできなかったのです。けれども、メシア・イエスが来られたとき、そのような隔ての壁はどうなったか。これはルカによる福音書も記していることですが、イエスさま十字架において息を引き取られたき、至聖所と聖所を隔てる垂れ幕が、真っ二つに裂けたのです。それは、何を意味するのかと言いますと、もう神さまと私たちを隔てる壁は何もないということです。イエスさまは、御自分の体のことを神殿だと仰せになりましたけども、復活して、今も生きておられるイエス・キリストにおいて誰でも神さまと親しく交われる、礼拝することができるようになったわけです。このことは、イエスさまがヨハネによる福音書の4章で、サマリアの女に語ったことでもありました。ヨハネによる福音書の4章19節から26節までをお読みします。
女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝するものを求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理とをもって礼拝しなければならない。
女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話しをしているこのわたしである。」
ここで、イエスさまが言われていることは、先程のステファノの言葉と重ねて考えるならば、よく分かります。イエスさまは、御自分によって、新しい礼拝のときが到来したと言われているのです。それは、ゲリジム山かエルサレムかと言った場所にとらわれない礼拝、霊と真理をもって成立する礼拝であります。イエス様は、「神を礼拝するものは、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と仰せになりました。ここでの「霊」とは聖霊のことです。「真理」とはイエス・キリストとその教えのことであります。ですから、霊と真理をもって礼拝するとは、「聖霊において、イエス・キリストを通して、神を父として礼拝する」ということであります。イエス・キリストが父なる神の右に座し、聖霊を遣わしてくださったことによって、場所にとらわれない、神さまとの親しい交わりが実現したのです。ですから、パウロもコリントの信徒への手紙一の3章16節、17節でこう語っているのです。
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
ここでの「あなたがた」は、主イエスを信じて集まるコリント教会の人々のことです。パウロは、あなたがたが神殿だと言っているのです。パウロは、ここで建物のことを言っているのではありません。主にあるあなたがたの交わり、それが神殿であると言っているのです。そもそも、神殿が神殿たる所以は、建物が立派だということにあるのではありません。神殿が神殿たる所以は、そこに神の霊が住んでくださることにあるのです。わたしは、先程、異邦人キリスト者たちは、神殿に行く必要はなかったと申しました。それは、主の名によって集まる彼ら自身が神殿であるからです。神さまは、この会堂に住んでおられるわけではありません。けれども、主イエスの名によって集り、献げるこの礼拝の中に、私たちの交わりの中に、御臨在してくださるのです。このパウロの教えは、神殿にそむくものなのでしょうか。神殿に逆らうものなのでしょうか。いや、むしろ、神殿が指し示そうとしたところを豊かに教えているのではないでしょうか。主イエスを信じ、聖霊の時代に生きる私たちにとって、私たちこそ、神の霊が住んでくださる神殿なのであります。その神殿を壊す者は、神によって滅ぼされる。そうパウロは言うのです。