パウロとヤコブ 2008年2月24日(日曜 朝の礼拝)
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パウロとヤコブ
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- 村田寿和 牧師
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使徒言行録 21章15節~26節
聖書の言葉
21:15 数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。
21:16 カイサリアの弟子たちも数人同行して、わたしたちがムナソンという人の家に泊まれるように案内してくれた。ムナソンは、キプロス島の出身で、ずっと以前から弟子であった。
21:17 わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。
21:18 翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。
21:19 パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。
21:20 これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。
21:21 この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。
21:22 いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。
21:23 だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。
21:24 この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。
21:25 また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」
21:26 そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。使徒言行録 21章15節~26節
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今日は、15節から読んでいただきましたが、15節、16節にこう記されています。「数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。カイサリアの弟子たちも数人同行して、わたしたちがムナソンという人の家に泊まれるように案内してくれた。ムナソンは、キプロス島の出身で、ずっと以前から弟子であった。」パウロ一行は、カイサリアの兄弟たちのはからいにより、エルサレムでムナソンという人の家に泊まることとなりました。おそらく、パウロたちは、エルサレム滞在中、ムナソンの家を宿としたのだと思います。ムナソンは、「キプロス島の出身」とありますように、ギリシア語を話すユダヤ人キリスト者でありました。また、「ずっと以前から弟子であった」とありますから、エルサレム教会の初期のメンバーであったようです。なぜ、カイサリアの弟子たちはパウロ一行をムナソンの家に案内したのか。それは、ムナソンが、ギリシア語を話すユダヤ人キリスト者であり、パウロの同伴者である異邦人たちをも、受け入れてくれる弟子であったからです。前にもお話ししましたけども、エルサレムの教会には、ユダヤの地で生まれ育ったヘブライ語を話すユダヤ人キリスト者と外地で生まれ育ったギリシア語を話すユダヤ人キリスト者の二つのグループがありました。同じ日本人であっても、アメリカで生まれ育ち英語を話す日本人と、日本で生まれ育ち日本語を話す日本人とが、生活様式や考え方において大きく異なっているように、ユダヤの地で生まれ育ったヘブライ語を話すユダヤ人キリスト者と、外地で生まれ育ったギリシア語を話すユダヤ人キリスト者とでは様々な面で異なっていたのです。大ざっぱに言いますと、ヘブライ語を話すユダヤ人キリスト者は、律法について保守的であり、ギリシア語を話すユダヤ人キリスト者は、律法について革新的でありました。ですから、17節に「わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。」とありますけども、これはエルサレムに住むギリシア語を話すユダヤ人キリスト者であったと考えられるのです。翌日、パウロと異邦人教会の代表者たちは、ヤコブを訪ねるわけですが、その時の空気はいささか違っていたようです。「そこには長老が皆集まっていた」とありますから、エルサレム教会の最高会議がこのとき執り行われていたのでしょう。パウロ一行がエルサレムに到着したとの報告を受けて、緊急に会議が開かれていたと考えられるのです。
19節に、「パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。これを聞いて、人々は皆神を賛美し」とあります。これは15章に記されていたエルサレム会議を踏まえるならば、当然の反応と言えます。エルサレム会議において確認されたこと。それはユダヤ人も異邦人も、主イエスの恵みによって救われるということでありました。神さまは、異邦人にも聖霊を与えて、彼らの心を信仰によって清め、ユダヤ人との間に何の差別もなさらなかったのです。ヤコブと長老たちは、パウロの奉仕のうちに神さまのお働きを見、神さまをほめたたえました。パウロの異邦人宣教は、エルサレム教会の指導者たちに受け入れられたのです。けれども、これでパウロ一行の目的が果たされたわけではありません。なぜなら、パウロの異邦人宣教は、指導者ばかりでなく、エルサレム教会に連なるユダヤ人キリスト者に受け入れてもらう必要があったからです。そのとき、本当の意味で、エルサレム教会と異邦人教会との主にある一致が確立されるのです。ここで、エルサレム教会への献金については触れられておりません。ある人は、この時に、献金を手渡したのではないかと考えます。けれども、パウロとしては、大勢のユダヤ人キリスト者がいる前で、エルサレム教会と異邦人教会の一致のしるしとして、異邦人キリスト者の代表者たちからエルサレム教会の指導者たちに直接手渡そうと考えていたのではないかと思います。
パウロは、エルサレム教会と異邦人教会の一致を、献金というかたちで表そうとしたのでありますけども、ヤコブと長老たちがまず問題としたことは、パウロ本人のことでありました。20節で、ヤコブはこう言っています。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。いったいどうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。」
ここで、ヤコブの口からエルサレム教会の様子が語られています。エルサレムでは、幾万人ものユダヤ人が信者になっていて、皆熱心に律法を守っていたのです。信者になるとは、十字架に死に、三日目に復活したイエスを、モーセと預言者が証しするメシアであると信じることです。イエスを旧約聖書の証しするメシアと信じたユダヤ人たちは、律法を捨てて異邦人のようになったのかと言いますと、そうではありません。むしろ彼らは皆熱心に律法を守っていたのです。律法は、依然として神の民の徴でありました。ユダヤ人キリスト者たちは、律法を熱心に守ることによって、自分たちが真のイスラエルであることを証ししたのです。そして、そのことがユダヤにおいて伝道の大きな力となっていたのであります。主イエスを信じ、聖霊を受けた者は、熱心に律法を守るようになる。このことは、7章に記されているステファノの説教の結論を読むと良く分かります。ステファノは、最高法院の議員たちに向かってこう言い放ちました。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたはいつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖がさからったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」
ステファノは、最高法院の議員たちに向かって、あなたたちは律法を守っていないと言いました。それは、彼らが心と耳に割礼を受けていない、聖霊を受けていないからです。けれども、主イエスを信じ、罪赦され、聖霊を受けたユダヤ人キリスト者たちは熱心に律法を守ったのです。その彼らの耳に、ある噂が聞こえてきました。それは、パウロが異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」と言ってモーセから離れるように教えているという噂であったのです。「子供に割礼を施すな。慣習に従うな。」これは、何を意味しているのかと申しますと、ユダヤ人であることをやめて、異邦人のようになれということですね。ユダヤの歴史におきまして、紀元前6世紀に、エルサレムがバビロン帝国によって陥落し、多くのユダヤ人がバビロンに奴隷として連れて行かれるということが起こりました。彼らは、土地を失って、バビロンに連れて行かれたのです。けれども、そこでユダヤ人たちはユダヤ人であり続けることができました。それはなぜかと言えば、彼らには神の掟、律法があったからです。特に、そのとき大切にされました規定が、割礼と安息日であります。割礼を授け、安息日を厳守することによって、国土を失っても、彼らは自分たちと他の民族とを区別し続けることができたのです。そして、パウロの時代、紀元1世紀においても、異邦人の間でユダヤ人が、ユダヤ人としてのアイデンティティーを保つことができたのは、割礼とモーセの慣習に従うことによったわけです。ですから、もしパウロが本当に「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」とモーセから離れるように教えていたならば、これは大問題であったわけですね。先程も言いましたように、エルサレムに住むユダヤ人キリスト者にとって、主イエスを信じることと、律法を守ることは衝突することではありませんでした。エルサレムに住むユダヤ人キリスト者にとって、主イエスを信じればこそ、いよいよ熱心に律法を守るようになるのです。ですから、彼らは、異邦人の間に住むユダヤ人が信者となったとしても、当然、割礼を施し、モーセの慣習に従うべきである。つまり、ユダヤ人であることを止める必要はないと考えていたのです。そして、それはパウロがコリントの信徒への手紙一7章17節以下で記していることでもあるのです。
おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。割礼を受けている者が召されたなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。
ここでパウロは、召されたときの身分のままで歩みなさいと教えています。実際、コリントの教会には、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者がいたわけですね。そのような教会に対して、パウロは、ユダヤ人はユダヤ人のままで、異邦人は異邦人のままで歩みなさいと教えているのです。そして、この「ユダヤ人のままの歩み」には、当然、子供に割礼を授けること、モーセの慣習に従うことが含まれているわけです。ですから、私たちはパウロの手紙から、パウロはユダヤ人たちにモーセから離れるように教えてはいなかったことが分かるのです。
さて、それでは、このような噂はどこから生じたのでしょうか。それは、異邦人の間にあって、パウロが宣べ伝えるメシア・イエスを受け入れなかったユダヤ人たちからでありました。事実、27節以下を見ますと、アジア州からきたユダヤ人たちは、パウロを捕らえ、「この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている」と叫んだと記されています。離散のユダヤ人たちはパウロの教えを曲解しまして、あるいはわざと悪意をもって歪めまして、そのようなうわさをエルサレムへと流していたのです。わたしは今、「曲解して」と申しましたけども、パウロが異邦人たちに告げていた言葉は、ユダヤ人たちからすれば、「子供に割礼を施すな。慣習に従うな。」とモーセから離れるように教えているようにも受け取られかねないものであったと言えます。火のないところに煙は立たないわけでありまして、パウロにも曲解されるような言動があったわけです。例えば、13章には、ピシディア州のアンティオキアでのユダヤ人会堂におけるパウロの説教が記されておりました。そこでパウロはこう告げています。「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたはモーセの律法では義とされなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」このパウロの説教を聞いたユダヤ人たちは、また、次の安息日も同じ話しをしてほしいと願いました。そして、次の安息日には、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうと集まってきたのです。この人たちは異邦人でありました。その異邦人たちを迎えて、また同じ話しをユダヤ人たちは聞いた。けれども、今度はそれを喜んで聞くことができませんでした。それどころか、パウロを口汚くののしり、反対したのです。なぜでしょうか。それは、異邦人も主イエスを信じれば救われるというパウロの教えに我慢できなかったからです。それでは、私たちが重んじてきたモーセの律法はどうなるのか。意味がないということになるのか。そう彼らは考え、パウロの話すことに反対し、ついには町から追い出してしまうのです。
ヤコブはその噂が真実でないことを前提としつつ、パウロにこう勧めます。「だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。」
ヤコブは、ユダヤ人キリスト者たちの疑いを晴らすために、誓願を立てた四人の頭をそる費用をパウロが負担するように求めました。これは、民数記6章に記されているナジルびと人の誓願であると言われます。当時のユダヤにおいて、ナジルびと人の誓願の費用を出すことは、敬虔な行いと考えられていました。また、ここでパウロ自身も、身を清めるようにと言われています。外国から帰ってきたユダヤ人は、異邦人との接触によって祭儀的に汚れており、神殿の境内に入るために身を清めねばならなかったのです。パウロは、生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人でありますから、彼自身が律法に従って行動することは何の問題もないと言えます。現に、パウロは、16章で、テモテに割礼を授けていますし、18章ではケンクレアイで、ナジルびと人の誓願に準じて髪をそったのです。そうは言いつつも、やはり私たちは、パウロがこのヤコブの言葉に従ったことに、戸惑いを覚えると思います。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無はもはや問題ではない」と語っていたパウロが、異邦人の汚れから身を清める儀式を受けたことは、私たちにとりまして衝撃であると思うのです。けれども、考えてみて欲しいのですけども、ここはユダヤの都エルサレムであり、そこにいる多くはユダヤ人です。そして、ここでパウロにつまずいてしまいそうなのは、そのユダヤ人の中でイエス・キリストを信じた兄弟姉妹であったのです。パウロは、ユダヤ人の兄弟姉妹が、自分によって躓かないために、ヤコブの言葉に従ったのであります。ここで思い起こされるのは、コリントの信徒への手紙一9章19節から23節のパウロの言葉です。
わたしは、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
パウロがヤコブの言葉に従ったのは、「何とかして何人かでも救うために、すべての人に対してすべてのものになる」というパウロの伝道方針によるものでありました。このパウロの行為から、パウロが今もなお、神殿の祭儀が必要であると考えていたとか。パウロが異邦人との接触によって汚れを受けると考えていたと理解することはできません。パウロがこのように振る舞ったのは、何よりパウロに躓きかねないユダヤ人キリスト者のためであったのです。そして、エルサレムの兄弟姉妹が、パウロにつまずくということは、パウロが念願であるエルサレム教会と異邦人教会の一致を破壊しかねないことであったのです。パウロは、エルサレム教会と異邦人教会の一致のためにも、エルサレムのユダヤ人キリスト者に対しては、エルサレムのユダヤ人キリスト者のようになったのです。
25節で、ヤコブは、異邦人で信者になった人たちについてこう言及しています。「また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げられた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」
これは、エルサレム会議ですでに決定された事柄であります。なぜ、エルサレム会議での取り決めが、もう一度ここで語られているのか。ある人は、ヤコブは、パウロに律法に従うことを求めるが、異邦人には、そのようなことは求めないことを保証するためであると解釈します。ヤコブは、エルサレム会議の決定を持ち出すことによって、異邦人は律法から自由であることを確認したと言うのです。けれども、ここでヤコブが語りたいことは、むしろ逆なのではないでしょうか。このエルサレム会議の決定は、もともとはモーセに遡るものでありました。エルサレム会議の議場において、ヤコブはこう発言しております。15章の13節以下です。
「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれている異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる。』それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」
このヤコブの発言からも分かりますように、この異邦人たちに対する決定は、モーセの律法に由来するものであります。具体的に言えば、レビ記17章、18章に記されていることの要約であります。そして、これらのことは、イスラエルに寄留している者に求められていた掟であったのです。イスラエルに寄留している者に求められたのが、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにということであったのです。ヤコブは、ここで異邦人に律法からの自由を確認しているのではありません。ことの真相は逆であります。ヤコブは、異邦人にも、モーセ律法に由来する最小限度の規定を守るようにと手紙を書いたのです。ヤコブは、異邦人に律法のくびきを負わせることはしませんでしたけども、モーセに由来する最小限度の規則を守ることを求めたのです。ヤコブにとって、律法はイエス・キリスト以降も有効であり続けたのです(ルカ16:17)。熱心に律法を守っていたユダヤ人キリスト者は、異邦人キリスト者が、イスラエルに寄留している者に求められた規定を守ることで、彼らを受け入れたのです。そのことは、エルサレムで、幾万人ものユダヤ人が信者になっていたこととも深い関係があります。ここで、ヤコブが思い描いている主の民の姿は、大多数がユダヤ人キリスト者であり、そこに異邦人キリスト者が加えられるという姿なのです。
異邦人もモーセに由来する最小限度の規定を守るべきであるというヤコブの考えは、異邦人の使徒パウロの考えとはいささか違うものでありました。そのことは、パウロが手紙の中で、この決定に一言も言及しないことからも分かります。コリントの信徒への手紙一は、コリント教会で起こった様々な問題を扱っておりますが、そこで、エルサレム会議の決定が取り上げられることは一度もありませんでした。コリント教会では、偶像に供えられた肉の問題、不品行の問題など、この決定にそのまま当てはまる問題が起こっていたにも関わらず、パウロは一度も、このエルサレム会議の決定に言及することはありませんでした。なぜでしょうか。それは、やはりパウロは、ヤコブのようには考えていなかったからだと思います。パウロは、その手紙において、掟に訴えるのではなく、キリストにあって救われている恵みの事実に目を向けさせようとしています。それによって、その人が自ら考え、判断するようにと促すのです。このように、ヤコブとパウロの考え方はいささか違っておりました。けれども、ここで二人に一致していることは、ユダヤ人と異邦人からなる一つのキリストの教会を目指したということです。ガラテヤの信徒への手紙の2章にパウロの筆によって、エルサレム会議の様子が記されておりますけども、そこで、ヤコブがパウロに右の手を差し出したとあるようにる、ヤコブとパウロは、イエス・キリストの福音において一致していたのです。ユダヤ人も異邦人もただ主イエスの恵みによって救われる。このことにおいては一致していたのです。その一致があって、なおそのうえに、ヤコブとパウロといったそれぞれの個性が用いられ、輝きを放つのです。そしてそのことは、私たちの教会においても同じことであります。主はキリストの福音の一致のもとに、考え方や意見の違う様々な人々を豊かに用いて、御栄光をあらわしてくださるのです。