聖霊に促されて 2008年1月20日(日曜 朝の礼拝)

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聖霊に促されて

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 20章22節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:22 そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。
20:23 ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。
20:24 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。使徒言行録 20章22節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 使徒言行録20章には、パウロの告別説教が記されております。パウロは、ミレトスにエフェソの長老たちを呼び寄せ、別れの言葉を告げたのです。前回申し上げましたが、パウロの告別説教は、「そして今」という言葉に着目して、4つに区分することができます。22節、25節、32節の「そして今」という言葉に着目して4つに区分することができるのです。そして、この4つに表題をつけるとすれば、「過去」「現在」「将来」「結論」となります。つまり、18節から21節までが「過去」、22節から24節までが「現在」、25節から31節までが「将来」、32節から35節までが「結論」と言えるのです。今日は、22節から24節までの「現在」について学びたいと思います。

 あらためて、22節から24節までをお読みいたします。

 そして今、わたしは霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

 パウロは、エフェソの長老たちにこれから自分がエルサレムへ行くことを宣言しています。そして、それは聖霊に促されてのことでありました。ここで、「促されて」と訳されている言葉は「縛られて」とも訳すことができます。12章に、へロデ王によって牢に入れられたペトロが、二本の鎖につながれていたと記されておりましたが、この鎖につながれるの「つながれる」と、「促されて」と訳されている言葉は同じ言葉であります。鎖につながれてしまうように、聖霊につながれてしまう。聖霊に縛られ、捕らえられてしまったものとしてエルサレムへ行くのだとパウロは言うのです。このパウロの思いは、すでに19章の21節で語られておりました。19章21節にこうあります。

 このようなことがあったのち後、パウロはマケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行ったあと後、ローマも見なくてはならない」と言った。

 前にもお話しましたけども、ここで「決心し」と訳されている言葉は、「御霊に感じて」とも訳すことができます。もとの言葉では、霊という言葉が使われておりまして、その霊をパウロの霊と解釈すれば「決心し」と訳すことができ、その霊を神の霊と解釈するならば「御霊に感じて」と訳すことができるのです。パウロは、聖霊から与えられた思いを、今エフェソの長老たちに告げるのです。そして、このミレトスに立ち寄ったのも、エルサレムへの旅のその途上であったのです。パウロは、エルサレムでどんなことが自分を待ち受けているか分からないと言っておりますが、ただ一つはっきりしてことがあります。それは、投獄と苦難とがパウロを待ち受けているということです。聖霊はどこの町でも、投獄と苦難とが待っていることをはっきりと告げているというのです。これはもちろん福音宣教者として、キリストの証人として被る「投獄と苦難」であります。キリストの福音を宣べ伝えるためには、投獄と苦難とを避けることはできなかったのです。そして、聖霊もそれを隠そうとはいたしません。聖霊がパウロにはっきり告げたことは、どの町でも投獄と苦難があなたを待っているということだったのです。このことを思うとき、先程の「聖霊に縛られて」という言葉の意味がよく分かってくるのではないかと思います。パウロがどの町でも約束されていたのは、喜ばしいことではありません。私たちが祝福と考えることとほど遠い、投獄と苦難とが約束されていたのです。しかし、パウロはこれまでもそのような歩みをして来ましたし、そしてこれからもその歩みを続けようとしております。パウロはエルサレムにおいても、投獄と苦難とが待っていることを知りつつ、旅を続けるのです。そもそも、栄光の主イエスがパウロに現れてくださり、使徒として召してくださったときから、この苦難の道はパウロに定められた道でありました。迫害者であったパウロは、ダマスコにおいて、アナニアから洗礼を受けたのでありますけども、そのアナニアに主は幻の中で現れ、パウロについてこう言われました。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」この主の言葉に従って、アナニアは出かけて行き、パウロにこう言って洗礼を授けたのです。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」ここに、「聖霊に満たされるように」とあります。主イエスの名によって洗礼を受けたパウロは、このときから聖霊に満たされて歩む者となった。聖霊にしばられて歩む者となったのです。そして、それは初めから主イエスの名のために苦しむという使命を帯びたものであったのです。けれども、主イエスのために苦しむということは、ここで初めてパウロだけに示されたことではありません。地上を歩まれたイエスさまが、弟子たちにすでに求められていたことでありました。ルカによる福音書の9章21節以下にはこう記されています。

 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」

 イエスさまは、エルサレムにおけるご自分の十字架の死と復活を予告された直後に、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と仰せになりました。ここに、イエスさまに従う者、弟子の姿が明確に語られています。イエスさまは、私たちのために、十字架を背負って歩まれました。救い主としてお生まれになったイエスさまの全生涯が、私たちのために十字架を背負われた歩みであったと言えるのです。そして実際イエスさまは、エルサレムにおいて、十字架につけられるのです。そのイエスさまが弟子たちに求められたことは、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」ということであったのです。「自分を捨てる」とは、積極的に言えば「自分を神さまにささげる」ということです。そして、「自分の十字架を背負う」とは、「イエスの名のための苦しみを自分の苦しみとする」ということであります。そのようにして、イエスさまに従うことが、自分の命を救う道であるというのです。ここで、語られていることは、いわゆる逆説であります。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救う」とイエスさまは仰せになりました。そして、それが人を生かす確かな道であると言うのであります。このイエスさまの招きに、忠実に従った者、それがパウロであると言えます。パウロは、いわばここで弟子たちの模範として描かれているのです。ちょうど、イエスさまが神さまの御計画に従って、十字架の待つエルサレムへと進まれたように、パウロも神さまの御計画に従って、投獄と苦難の待つエルサレムへと進むのです。キリスト教の書物の中で、古典とも呼べる書物に、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』という書物がありますが、まさに、このパウロの姿は、「キリストにならいて」と言えるのです。主イエスが十字架の待つエルサレムへと旅を続けられたのはなぜか。それはそこに主イエスの使命があったからです。イエスさまは、イザヤ書53章が預言する主のしもべとして、ご自分の民を罪から贖うために、御自身をいけにえとしてささげられます。そして、その死への歩みを支えていたものは、父なる神への信頼、とりわけ復活の約束でありました。そして、イエスさまが復活を信じることができたのは、日々、父なる神との完全な交わりに生きておられたからです。それゆえ、イエスさまは、ご自分のことを永遠の命とさえ言うことができたのです。そしてここに、パウロが投獄と苦難の待つエルサレムへと喜んで向かうことのできる理由があるのです。主イエスが、父なる神との完全な交わりのうちに歩まれたように、パウロは復活された主イエスとの交わりのうちに生かされていたのです。ここで思い起こすのは、ガラテヤの信徒への手紙2章19節、20節のパウロの言葉であります。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」パウロは、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしのうちに生きているのだ」と語りました。パウロは、自分をキリストと共に十字架につけてしまったというのです。十字架とは、律法違反者への呪いの死を意味します。これまで、律法を守ることによって、神さまに正しい者としてもらおうとしていたパウロが、ここでは、十字架につけられたのは自分であったと告げるのです。十字架につけられる。十字架刑は、言ってみればはりつけの刑でありますから、死を意味します。ですから、自分を十字架につけてしまったら、もう生きるすべがなくなってしまうはずなのです。けれども、ここでパウロは、自分を生かす新しい力に捕らえられるのです。それが、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰」でありました。ここに、先程の主イエスの言葉が響いてきます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」というあの御言葉であります。パウロは、栄光の主イエスにまみえるまで、自分の力で、自分の命を救おうと努めて参りました。しかし、そこで自分の命を本当に生かすことができたかと言えば、生かすことができなかったのです。むしろ、パウロが自分の命を本当に生かすことができたのは、自分をキリストと共に十字架につけてしまったときであったのです。そのことは、神さまに対する完全な敗北を認めるということであります。わたしは、神さまの御前に呪いの死に値する罪人であるということを認めるということです。しかし、そのとき、パウロに起こったことは、そこから、自分の命を本当に生かす道が開かれたということなのです。自分のために身を献げられた神の子の愛を知ることにより、本当の命、復活したキリストの命に生きる者となったのです。私たちもそうであります。私たちがイエス・キリストを信じて洗礼を受ける、また自分の口で信仰告白をするということは、自分に死に、キリストと共によみがえるということなのです。もはや、生きているのはわたしではない。わたしの中にキリストが生きておられると言えるようになることなのです。そして、わたしの中にキリストが生きておられるということは、言うなれば、キリストの聖霊が私たちを生かしてくださっているということなのです。キリストの霊が私たちを造り変えてくださり、神さまに喜んで従う者としてくださる。それが、今日の御言葉で言えば、「聖霊に促される」「聖霊に縛られる」ということのなのです。パウロの内に宿ってくださったキリストの霊が、パウロを復活の希望に生かしてくださり、「自分の決められた道を走り通し、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力づよく証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」とまで言わせるのであります。ここで、聖霊のご意志とパウロの意志は一つとなっております。パウロは、聖霊に縛られて、いわば、鎖につながれた囚人のように、むりやりエルサレムへと引いて行かれるのではありません。聖霊に縛られたパウロは、それを自らに定められた道として受け入れ、自らの意志で、喜んでエルサレムへと向かうのです。ここに、聖霊なる神の不思議なお働きがあります。聖霊なる神は、私たちの心に働き、私たちがそれを本心から望むようになるという仕方で、神さまに従えるようにしてくださるのです。まさしく、私たちをイエス・キリストのかたちへと造り変えてくださるのであります。パウロに、「この命すら決して惜しいとは思いません。」とまで言わしめた任務は何であったか。それは、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務でありました。そして、この任務のために、パウロだけではない、のちに多くのキリスト者が命をささげたのであります。証し人、証人と訳される言葉は、後に殉教者という意味を持つようになりました。それは、彼らが命がけで、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証ししたからです。コリントの信徒への手紙一の12章に、「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨られよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」という御言葉がありますが、ある学者は、この言葉を、キリスト者への迫害を背景としていると言います。日本でも、江戸時代、キリスト教徒に信仰を捨てさせるために、踏み絵というものを用いました。十字架につけられたキリストの絵を踏ませることによって、キリスト者であるかないかを見極めようとしたのです。そして、キリスト者であると分かれば拷問を受け、それでも信仰を捨てなければ、命までも取られたのです。そのようなキリスト者であるかどうかを見極める手段として、「イエスは神から見捨てられよ」と言うように迫られたというのです。イエスを呪え、そうすれば、お前がキリスト者ではないことが分かるというわけであります。しかし、パウロは言うのです。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのだと。聖霊に縛られているものは、イエスを呪うことなどできない。イエスは主であると告白せざるを得ないのであります。それは、主イエスの霊が私たちを捕らえていてくださるからです。御自身をささげてくださったほどに私たちを愛してくださったそのお方が、私たちを捕らえて離さないからです。そして、何ものをもキリストと私たちとを引き離すことはできないのです。パウロはローマの信徒への手紙の8章35節以下でこう語っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」何ものをも、イエス・キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない。それゆえにパウロは、「この命すら決して惜しいとは思わない」と語ることができたのです。主イエスからいただいた、恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすために、たとえ命を失ったとしても、そこで終わりではない。この肉の命は終わったように見えても、なお続く命がある。それがイエス・キリストを復活させ、今の自分を生かしている神の命、神の愛なのです。24節の「自分の道を走り通し」という言葉は、パウロの最後の手紙と言われる、テモテへの手紙二の4章6節以下の御言葉を思い起こさせます。そこでパウロは次のように述べております。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去るときが近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」ここに、パウロの歩みを支えてきた希望が明確に語られています。そして、それはパウロだけではない、主が来られるのをひたすら待ち望む私たちにも与えられている希望なのです。この希望の光の中で、イエス・キリストの名のための苦しみを見つめるとき、そこではじめて、その苦しみも恵みであることが分かるのです。パウロは、フィリピの教会に、「あなたがたはキリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」と語りました。そしてフィリピの教会が、自分と同じ戦いを戦っていることに目を向けさせるのです。キリストのための苦しみ、それは何より、この地において神さまを礼拝し続けるための苦しみであります。礼拝に出席し続ける。さらには、教会の営みを祈りとささげものをもって支えていく。そのための苦しみであります。もっと積極的に言えば、イエス・キリストをまだ知らない人々に、福音を伝えていくための苦しみです。パウロは、コロサイの信徒への手紙の1章24節において、こう語っております。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、わたしは教会に仕える者となりました。」パウロはここで、とても大胆なことを言っております。自分はキリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしているというのです。もちろんこれは、イエス・キリストの贖いの御業が不十分であるということではありません。むしろパウロは、福音を伝え、教会を建て上げるための苦しみを、キリストの苦しみとして理解し、それを自分が引き受けているのだと語っているのです。そしてここに、私たちがキリストの名のために苦しむその道筋が示されているのです。私たちは、キリストのために苦しむと言われても、どこか漠然としているように思う。けれども、キリストの体である教会を建て上げることこそが、キリストのために苦しむということなのです。そしてその苦しみの中でこそ、私たちはイエス・キリストの命にあずかることがでます。週ごとの礼拝を通して、私たちはこの地上の命を越えたキリストの命に、すでに生かされていることを確認し合うのです。私たちの内に復活したイエス・キリストが生きておられる。聖霊に促される歩みとは、そのことを知っている者の歩みのことを言うのであります。

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