パウロの告別説教 2008年1月13日(日曜 朝の礼拝)

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パウロの告別説教

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 20章13節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:13 さて、わたしたちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。パウロをそこから乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示しておいたからである。
20:14 アソスでパウロと落ち合ったので、わたしたちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。
20:15 翌日、そこを船出し、キオス島の沖を過ぎ、その次の日サモス島に寄港し、更にその翌日にはミレトスに到着した。
20:16 パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。
◆エフェソの長老たちに別れを告げる
20:17 パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。
20:18 長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。
20:19 すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。
20:20 役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。
20:21 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。使徒言行録 20章13節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 使徒言行録の20章には、まことに堂々とした、パウロの告別説教が記されています。ミレトスについたパウロは、エフェソの長老たちを呼び寄せ、そこで遺言とも呼べる言葉を語ったのであります。このところは大変内容の豊かなところでありますので、何回かに分けてお話したいと思っております。今日は21節までをご一緒に学びたいと思います。

 パウロの告別説教に先立って13節から16節までには、「トロアスからミレトスまでの船旅」について記されています。私たちは、前々回、週のはじめの日にパンを裂くために集まっていたトロアスの集会の様子を学びましたが、パウロ一行の旅は、さらに続いて行きます。この13節は「わたしたちは」と一人称複数形で記されています。なぜ、「わたしたちは」と記されているのか。それは、このパウロ一行の中に、使徒言行録の執筆者であるルカが含まれていたからと考えられるのです。このところの記述は、大変細かい、しっかりとした記録に基づいています。一日ごとの船旅の様子まで記されているのです。なぜ、そんなことが可能であったのか。それは他でもないルカ自身が、この船旅に同行していたからです。おそらくルカは、自分の航海日誌を資料としてこのところを記したのでありましょう。この「わたしたち聖句」は、実は、5節から記されています。いや、もっとさかのぼれば、16章で、パウロがマケドニア人の幻を見て、ヨーロッパに渡るところにも記されておりました。パウロのヨーロッパでの最初の宣教地、それはフィリピであります。そのフィリピの滞在中にも、やはり「わたしたち」と語られています。けれども、パウロがフィリピを去って、テサロニケに行くと、また、三人称で物語りは語られていくようになるのです。このことからルカは、フィリピにとどまっていたと考えられる。そして、20章の5節において、フィリピの教会を代表する一人として、パウロ一行に加わり、エルサレムへの旅に同行したと考えられるのです。 

 パウロが、エフェソに直接寄らず、ミレトスにエフェソの長老たちを呼び寄せた理由について、「できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。」と記されています。6節に、「わたしたちは除酵祭ののち後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した。」とありました。除酵祭とは過越祭のことです(ルカ22:1)。この過越祭から50日目が五旬祭でありました。パウロは、フィリピからトロアスまで5日を要し、さらにトロアスに7日間滞在したのでありますから、五旬祭まであと38日しかありませんでした。もしこのとき、パウロがエフェソに立ち寄ることがあれば、さらに多くの日数が費やされるおそれがあったのです。それでパウロは、エフェソに近い港町、ミレトスにエフェソの長老たちを呼び寄せたのです。しかしなぜ、パウロは五旬祭までにエルサレムについていたいと旅を急いだのでしょうか。ある人は、パウロがユダヤ人の慣習を重んじていることを示すためであったと考えます。パウロは、ユダヤ人から、律法を軽んじるとんでもない男と思われていた。それゆえパウロは、エルサレムで五旬祭を祝うことによって、その疑いをはらそうとしたというのです。確かにそうかもしれません。けれども、わたしはこのとき、パウロにはもっと積極的な意図、目的があったと思います。五旬祭、これはユダヤの三大祭りの一つです。五旬祭は、もともとは麦の収穫を喜ぶ祭り、いわゆる収穫祭でありましたが、ユダヤ人はこのとき、モーセを通して律法が与えられたことを祝ったのです。そしてご存じのように、キリスト者にとって、五旬祭、ペンテコステは、主イエスの弟子たちに聖霊が注がれ、教会が誕生した記念すべき日でありました。2章に記されていたように、五旬祭の日、弟子たちのうえに聖霊が降り、彼らは霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだしたのです。これは聖霊降臨によって生まれたキリスト教会の産声とも言えるものです。聖霊降臨によって誕生した教会の産声はどのようなものであったか。それは、世界中の言葉で、神の偉大な業を語るというものでありました。これは神さまが弟子たちに与えてくださった大きな幻であります。教会は、ユダヤ人だけではない、全世界の人々からなるという大きな幻が示されたのです。そしてパウロは、その五旬祭の日に、異邦人教会の代表者と共に、異邦人教会からのエルサレム教会への献金を携えて上ろうとしていたのです。パウロは、聖霊が降臨した日に与えられた幻の実現として、エルサレムへ上ろうとしていたのです。前にもお話ししましたけども、パウロには、一つの心配がありました。それは、自分の働きの実りとも言える異邦人教会と、エルサレム教会の関係が絶たれてしまうのではないかという心配であります。この五旬祭は、おそらく紀元58年の五旬祭であると思いますけども、このときエルサレムは、民族主義的色彩を濃くしており、ローマとの戦争へとなだれ込んでいくそのさなかにありました。エルサレム教会の中にも、異邦人教会と距離をとった方がよいと考える者が出てくる。そして中には、パウロが立てた異邦人教会に出向きまして、割礼を受けるように教える者まで出てきたのであります。そのような中にあって、パウロは、献金というかたちで異邦人教会とエルサレム教会との一致を表そうとしたのです。しかしそこでも、パウロには一抹の不安がありました。それは、果たしてエルサレム教会が、異邦人教会からの献金を受け取ってくれるだろうかということです。エルサレム教会にとりましても、異邦人から献金を受けたことが、ユダヤ人に知れれば、いよいよ窮地に追い込まれる危険があった。ユダヤ人にとりまして、異邦人は汚れた民でありまして、その異邦人との関係が明らかとなれば、エルサレム教会はいよいよ追い込まれる危険があったのです。しかし、パウロとしては何としてでも、エルサレム教会に異邦人教会からの献金を受け入れてもらいたかった。パウロにしてみれば、そこに自分のこれまでの働きがかかっていたのです。そこで、どうしたか。パウロは、この献金を最も受け入れてもらいやすい日である五旬祭に渡そうと考えたのです。五旬祭、それは先程も申しましたように、聖霊によって、全世界の民からなる礼拝の幻が示された日であります。そのような日に、異邦人教会からの献金を断ることができましょうか。できないはずです。わたしはここに、パウロができれば五旬祭にはエルサレムについていたいと旅を急いだ第一の理由があったと思うのです。

 さて、それではさっそく、パウロの告別説教に入っていきたいと思います。このパウロの告別の言葉は、長いものでありますが、「そして今」という言葉に着目して、4つに区分することができます。22節、25節、32節の「そして今」という言葉に着目して4つに区分することができるのです。そして、この4つに表題をつけるとすれば、「過去」「現在」「将来」「結論」となります。つまり、18節から21節までが「過去」、22節から24節までが「現在」、25節から31節までが「将来」、32節から35節までが「結論」と言えるのです。今日は、初めの区分である18節から21節までの「過去」を学びたいと思います。

 パウロは、自らの日々を振り返りつつこう語ります。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力づよく証ししてきたのです。」

 パウロは、三年間エフェソに滞在し、福音宣教に励みました。エフェソは、パウロの生涯の中で、もっとも腰を落ち着けて働いた場所と言えます。その三年間の働きがどのようなものであったのかがここで語られているのです。パウロは、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主に仕えてきたのです。ここでの「主に仕えてきました」は、もう少し正確に訳すと、「奴隷として仕えてきた」ということです。パウロが主に仕えるとき、それはしもべとして仕えていたということであります。私たちも神さまを主と呼び、またイエスさまを主イエスと呼びます。けれども、そのとき私たちはどれほど自分が主のしもべであることを自覚しているだろうかと思うのです。しかし、パウロは自分が主のしもべであることをはっきりと自覚していたのです。それでは、パウロは主のしもべとしてどのように主に仕えてきたのか。そのことが続けて記されています。「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。」パウロにとって、主に仕えることは、福音をあますところなく、すべての人に宣べ伝えることであったのです。そして、その福音の急所は「神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスに対する信仰」であるのです。私たちは、今年、年間テーマを「福音を伝えよう」と定め、歩み出したわけでありますけども、福音を伝えるとは、「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」を証することであると言えるのです。私たちは前回、マタイによる福音書のむすびの言葉、いわゆる大宣教命令の御言葉を聞きました。そこで、復活された主イエスは「すべての民をわたしの弟子にせよ」とお命じになられた。マタイによる福音書の描く、復活された主イエスは、教えて、弟子にするということを重んじます。けれども、ルカによる福音書の描く、復活された主イエスがまず言われたことは、「あなたがたはわたしの証人となる」ということであったのです。使徒言行録においても、イエスさまが天へ上げられる前、弟子たちに言われたことはやはり「わたしの証人となる」ということでありました。このことは、このパウロの言葉の中にも反映されております。パウロは、神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスに対する信仰とを力強く「語ってきた」とは言いませんでした。「証ししてきた」と言うのです。「証ししてきた」とは言い換えるならば、まず自分が、神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰に生きてきたということであります。自分をまったく取るに足りない者と思い、涙を流しながら、またユダヤ人の数々の陰謀によってふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきた。そのパウロの存在自体が、神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスに対する信仰を証ししていたのです。パウロは、口先だけで、福音を伝えたのではありません。自らがまずキリストの福音に生かされることによって、福音を証ししたのです。そうであれば、私たちの今年のテーマは「福音を証ししよう」とも言い換えることができるのです。

 私たちは、パウロが書いた書簡を通して、パウロの教えを知ることができます。ここで、「役に立つことは一つも残らず、公衆の面前でも、方々の家でも証してきました。」とありますように、パウロはその書簡においても、出し惜しみせず、豊かに語ってくれています。このことを思うとき、やはりわたしはパウロに感謝せずにおれないと思う。主イエスは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とお語りになりましたけども(マタイ10:8)、まさしくパウロは、受けた教えを、すべての人にあますところなく伝え教えたのです。パウロは、自分をまったく取るに足りない者と思い、涙を流しながら、試練の中で主に仕えてきました。ここで「全く取るに足りない者と思い」とありますが、このところを口語訳聖書、新改訳聖書は「謙遜のかぎりを尽くして」と訳しています。「謙遜、へりくだり」という言葉がここで用いられているのです。そして、これと同じ言葉が、フィリピの信徒への手紙2章3節にも記されているのです。かつて祈祷会で、フィリピの信徒への手紙をおよそ一年かけて学んだことがありました。わたしはそのとき、パウロがこの手紙をローマの牢獄で書いたことを前提にお話しましたけども、今では、エフェソにおいて記したのではないかという説に傾いております。細かいことをこの場で申し上げることはできませんけども、フィリピの信徒への手紙が、エフェソの牢獄で記されたものであれば、それはパウロがエフェソに滞在した三年間に記されたことになるのです。そのフィリピの信徒への手紙の2章3節、4節で、パウロはこう記しているのです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。」ここで、パウロはフィリピの信徒たたちに「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。」と語りました。そして、それに続けてイエス・キリストのことを語り出すのです。イエス・キリストがわたしたちのためにどれほどへりくだってくださったのかをパウロは語るのです。6節から8節にはこうあります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」なぜ、パウロは自分を全く取るに足りない者と思い、主に仕えることができたのか。それはパウロが、これほどまでに、へりくだってくださったキリストを知っていたからであります。もし、わたしが、このところから、「みなさん、このパウロのように、自分を全く取るにたりない者と思って主に仕えましょう」と語るならば、それは福音を語ったことにはなりません。それは律法主義であります。そして、律法主義は本当の意味で人を生かすことができません。ここで、わたしが語るべきこと、私たちが聞き取るべきことは、パウロが主イエスのへりくだりを知っており、そのへりくだりに支えられていたということです。私たちのためにも、主イエスは、へりくだって、十字架の死に至るまで従順であられたということです。その主イエスをわたしの主と信じる者は、自分が全く取るに足りない者であることを主の御前に認めることができるのです。それは、自分を軽蔑して、自分をおとしめることとは違います。へりくだることができるのは、むしろ、自分がどれほど神さまに重んじられているかを知っているからです。私たちのためにへりくだり、命までささげてくださったお方を知っているからこそ、パウロは自分をまったく取るに足りない者と考えることができたのであります。イエスさまによって、自分が重んじられているからこそ、安心して、自分が取るに足りない者であることを認めることができたのです。そのことは、パウロが栄光の主イエスにまみえるまで、どのような歩みをしていたかを考えるならばすぐ分かります。フィリピの信徒への手紙の3章で、パウロは自らについて次のように記しています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」かつてのパウロは、ユダヤ社会においてエリート街道を突っ走っていたのです。パウロは、ユダヤの社会において、確かな地位を約束されていたそういう男であったのです。けれどもそのパウロが、ダマスコ途上において、栄光の主イエスに捕らえられる。そしてそのときから、パウロは、かつて有利であったものを損失と見なすようになったのです。パウロは、7節から11節にこう記しています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」

 パウロは、律法から生じる自分の義に頼っていたとき、決して自分を小さくすることはできませんでした。むしろパウロは、自分を大きくしていたのです。しかしそのパウロが、人はキリストへの信仰によって救われることを知ったとき、すべてを塵あくたと見なすようになったのです。なぜですか。パウロは、主イエス・キリストを知ることがあまりにすばらしいからだと語っています。主イエス・キリストにおいて現された神さまの恵みのすばらしさを知ったとき、パウロはもう自分で、自分を重んじる必要がなくなったのです。なぜか。それは神がイエス・キリストにおいてパウロを重んじてくださったいるからです。愛する御子の命を与えられたほどに、神さまがパウロを愛してくださっていることがよく分かったからであります。そのときパウロは、自分を誇ることをやめることができた。ただ主イエスだけを我が誇りとして生きる、そのような歩みをすることができるようになったのです。この「自分を全く取るに足りない者と思い」という言葉に続いて「涙を流しながら」と記されています。なぜ、パウロは涙を流しながら福音を伝え、教えてきたのか。それは、パウロがイエス・キリストにおいて現された神さまの愛にいつも心を打たれていたからです。パウロが神さまの愛について明確に語っている代表的なところは、ローマの信徒への手紙の5章8節であります。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

 キリストが私たちのために死んでくださった。神などいないとうそぶくあなたのためにも、キリストは死んでくださった。十字架において神さまのあなたへの愛ははっきりと示された。だから、あなたも神さまのもとへ立ち返っていただきたい。そして、イエス・キリストを主と受け入れてもらいたいとパウロは涙を流して語るのです。その神の愛に迫られて、パウロはユダヤ人であろうとギリシア人であろうと語らずにはおれなかったのであります。そして何より、この神の愛、キリストの愛をパウロ自身がよく知っていたのです。「涙を流しながら」という言葉のあとに「ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも」と記されています。パウロは、ユダヤ人によるさまざまな迫害にさらされていたのです。けれども、私たちが思い起こすのは、パウロこそが、かつて教会の迫害者であったということです。かつてパウロ自身が、キリストの教会をぶっつぶそうとしていたのです。そのパウロに、栄光の主イエスは現れてくださり、そして他でもないそのパウロを使徒として召してくださったのです。主イエスは敵であったパウロをも愛してくださった。だからこそ、パウロは数々の試練を耐えることができたのです。だからこそパウロは、涙を流すほどに、主イエスの愛に心うちふるえたのであります。

 パウロがどれほど主イエス・キリストを知るすばらしさに心打たれていたか。それは、パウロがどのように主に仕えたかによって明らかとされるのです。私たちは、「福音を伝えよう」というテーマを掲げて歩み出したわけでありますけども、今日の御言葉で教えられますことは、私たちがまず福音の豊かさ、すばらしさを知る必要があるということです。その意味でも、伝道はいつも礼拝から始まります。神さまを礼拝し、福音の恵みにあずかる。その祝福に押し出されて、私たちは、イエス・キリストの証し人として生きるのです。主イエスがどれほど私たちのためにへりくだり、愛を注がれ、忍耐してくださっているかを教えられることによって、私たちもそれぞれの居場所において、謙遜と愛と忍耐をもって主に仕える者と変えられていくのです。そのことを信じ、祈り求めていきたいと願います。

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