週の初めの日に 2007年12月30日(日曜 朝の礼拝)
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使徒言行録 20章1節~12節
聖書の言葉
20:1 この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。
20:2 そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、
20:3 そこで三か月を過ごした。パウロは、シリア州に向かって船出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、マケドニア州を通って帰ることにした。
20:4 同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。
20:5 この人たちは、先に出発してトロアスでわたしたちを待っていたが、
20:6 わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した。
20:7 週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。
20:8 わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。
20:9 エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。
20:10 パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」
20:11 そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。
20:12 人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。使徒言行録 20章1節~12節
メッセージ
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今日は、2007年最後の主の日の礼拝であります。 2007年は、年間テーマを「原点への回帰」と定め、年間聖句として、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」使徒言行録2章42節を掲げて歩みました。そして、その年の最後の礼拝で、再び、初代教会が、使徒の教えに耳を傾け、パンを裂くという御言葉を読むのであります。これは神さまのくすしき導きであると思っております。それも、この教会は、 トロアスの教会であります。アジア州の異邦人からなる教会で、生まれたばかりのエルサレム教会と同じことが行われていた。教会のあるべき姿、教会は何に熱心な群れであるべきか。それは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに尽きるのであります。それは、エルサレムでも、 トロアスでも、そして、この羽生においても、変わることはありません。キリストの教会であるかぎり、時間と空間を越えて、一致したことなのです。そして、ここに、キリスト教会の原点があるのであります。教会とは何か。それは、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心」な集まりを言うのです。言われてみれば、当たり前のことのように思われます。けれども、私は、その当たり前のことを、行動においても当たり前と言えるまでに、なっているかと言えば、それほど簡単ではないと思っております。私たちの教会が、この一年、主の御前に、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心」であったかというと、何とも心もとない気がするのです。むしろ、私たちは、主の日ごとに、その生活を追い求めてきた。そして、来年からは、年間テーマと年間聖句は変わりますけども、このテーマは、これからも、私たちの大切なテーマであり続けると思っているのです。主の日ごとに、そのような教会のあるべき姿を、私たちも映し出していきたい。そのようにして、神さまの御栄光を表していきたいと願っています。
わたしはこれまで、主の日という言葉を何度か用いましたけども、今日の御言葉においても、主の日に礼拝がささげられていたことが記されています。 7節です。「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話しをしていたが、その話は夜中まで続いた。」ここに、週の初めの日、 トロアスに住むキリスト者たちが、礼拝をささげていたことが記されています。週の初めの日、これは、今でいえば、日曜日です。私たちも、週の初めの日、日曜日の朝、このように礼拝をささげておりますけども、その最初の姿がここに記されているのです。私たちは、日曜日がお休みだから、教会が日曜日に礼拝をささげていると考えがちでありますけども、はじめからそうであったわけではありません。そもそも、古代のギリシア、ローマの社会において、休日があったかも怪しいと思います。市民は休む日があったとしても、奴隷は休みの日などなかったのではないでしょうか。それこそ、生きた道具として、四六時中こき使われたのではないかと思うのです。そのことを思いますときに、ユダヤの社会というものはやはり優れていたといわざるを得ないと思います。ユダヤ人は、神さまからいただいた、掟、律法にしたがって、その生活をかたちづくっておりました。その代表的なものは、モーセを通して与えられた十戒であります。その十戒の第四戒は、安息日についての掟でありますが、出エジプト記の20章8節以下にこう記されています。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中にいる寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
ここで、主なる神は、イスラエルの民に、安息日には、男女の奴隷も同じように休むことができると言われました。イスラエルの神は、奴隷にさえも、さらには家畜にさえも、安息をお与えになるお方なのです。そのような神をいただいていることは、ユダヤ人にとっての大きな誇りでありました。そして、この安息日は、神さまが創造の御業を終えられた週の最後の日、七日目であったのです。今の土曜日が安息日であったのです。もう少し正確にいいますと、金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日でありました。なぜなら、ユダヤ人は、日没から一日がはじまると考えていたからです。創世記の1章に、神さまが力ある御言葉によって、六つの日にわたり天地を創造されたことが記されています。その日にちの移り変わりを注意してみますと、「夕べがあり、朝があつた」と記されています。「夕べがあり、朝があつた。第一の日である。」こう記されているのです。これは、ユダヤ人が一日を夕べから始まると考えていたことを教えています。少し余談になるかもしれませんが、ユダヤ人が夕べから、日没から一日が始まると考えた理由について、興味深い話を読んだことがあります。それは、神さまが夜働いてくださっているからだというのです。私たち人間だけのことを考えるならば、夜とは闇でありまして、誰も働けない時間であります。もう寝るだけの時間です。ことに、電気のなかった古代社会においてはそうであつたと思います。それゆえ、多くの人々は、朝から新しい日が始まると考えるのです。けれども、神さまのことを考えるならば、神さまは夜も働いてくださる。私たちが寝ている間に、神さまはこの世界を整えてくださる。それゆえ、私たちが目覚めたときには、新しい朝を迎え、それぞれの営みを行うことができるというのであります。このお話を聞いて、わたしがすぐに思い浮かべたのは、新聞配達のことです。私たちが朝、目を覚ますと、新聞がポストに入っている。 しかし、これは言うまでもなく、私たちが寝ている間に、新聞屋さんが配達してくれているわけです。しかし、新聞屋さん以上に、実は神さまは私たちが寝ている間に働いてくださる。それゆえ、私たちは安心して床に伏すことができるのです。イスラエルの人々が、一日が日没から始まると考えたということは、私たちが覚えておいてよい、しばしばそのことを想い巡らすのに値することであると思います。朝、目が覚めて、これから一日がはじまる、今日もがんばろうと思うよりも、寝る前に、もう一日は始まっており、寝ている間に神さまが働いてくださり、目覚めたとき、自分はその神さまと共に働くのだと考えるのでは、やはり何かが違ってくると思います。そのような歩みをすれば、夢の中でも、神さまがよい知恵を与えてくださるかもしれません。そして、朝、起きたときには、今日やるべきことがしつかりと思い描ける、そのようなことがあるのではないかと思うのです。
話を元に戻しますけども、ユダヤ人にとりまして、安息日は、通の最後の日、土曜日でありました。けれども、 トロアスのキリスト者たちは、週の初めの日に集会をもっていたのです。 トロアスだけではありません。コリントの信徒への手紙一の16章2節を見ても、コリントの教会が週の初めの日に集会をもっており、その際、各自の収入に応じて献金をささげていたことが分かるのです。キリスト教会は、週の最後の日ではなくて、週の最初の日に集会をもつようになっていた。このことは、いったい何を意味するのでしょうか。まず考えられますことは、イエスを主と認めないユダヤ教との区別を明確にするということです。違う日に集会をもつことによって、キリスト教会は、ユダヤ教との違いを鮮明にしたということであります。キリスト教はユダヤ教の一分派ではなくて、別物であることを違う日に集会をもつことによって明らかとしたのです。けれども、それではまだ十分な説明とは言えません。では、なぜ週の初めの日に集会をもつようになったのか。先ほども申しましたけども、まだ当時、週の初めの日は休日ではありませんでした。日曜日が休日となったのは、紀元4世紀に、ローマ帝国においてキリスト教が国教となってからであります。それから、日曜日、週の初めの日が休日となったのです。ですから、休みであったから週の初めの日に集会を持つようになったというのではありません。むしろ順序は逆でありまして、キリスト教会が週の初めの日に礼拝をもつようになったから、ローマ帝国においてキリスト教が国教化されたとき、休みとなったのです。なぜ、キリスト教会が週の初めの日に、集会を持つようになったのか。それは、何より、教会の頭であるイエス・キリストが週の初めの日によみがえられたからであります。 日曜日の朝はやく、婦人の弟子たちがイエスさまのお墓にいきますと、石の扉は開けられており、中は空っぽであった。すると、そこに天使が現れ、イエスは復活されたのだと告げたのです。ここにも、夜働かれる主なる神を見ることができます。イエスさまが何時ごろよみがえられたのかは分かりませんけども、神さまは、まだ夜があけぬうちに、イエスさまを復活させられたのです。そして、復活した主イエスは、やはり、週の初めの日、日曜日に弟子たちに現れてくださいました。それゆえ、週の初めの日は、主イエスとお会いできる日、主イエスが聖霊において豊かにご臨在してくださる日として、「主の日」と呼ばれたのです。黙示録を書いたヨハネが、幻を見たのも、ある主の日であつたと記されています。このように、キリスト教会が、週の初めの日に集会を持つようになったのは、イエス様が週の初めの日に復活され、週の初めの日に弟子たちに現れてくださったという歴史的事実に基づくものなのです。それゆえ、主の日にもたれる集まりは、単なる人間の集まり、集会ではなくて、神が共におられる礼拝なのであります。主の日の礼拝は、そのようなイエス様の復活と臨在の約束に確かな根拠をもっているのです。そのことをまず私たちは胸に刻みたいと思います。キリスト教会が礼拝をいつもつのかは、私たちが勝手に決められることではありません。木曜日が集まりやすいから木曜日にしましょうと変えることができるものではありません。キリスト教会の礼拝は、まず何よりキリストの復活と現臨の約束に根拠を持つ。キリスト教会の礼拝の主導権を握っておられるのは、週の初めの日に復活したキリストであり、週の初めの日に弟子たちに現れてくださったキリストなのです。むしろ、私たちはそのキリストの復活を記念し、キリストが聖霊において豊かにご臨在してくださるとの約束に基づいて、主の日に礼拝をささげるのです。イエス・キリストを復活させてくださった神さまの招きに答えて、疲れた体を引きずってでも、この場に集っているのであります。
今日の御言葉にも疲れを覚えながら、礼拝に集っていた一人の青年が出てきます。先ほども申しましたように、当時、週の初めの日は休みではありませんでした。ですから、このとき、人々は、それぞれの働きを終えてから、夜集っていたのです。仕事を終えてからですから、おそらく午後6時頃から集まっていたのでしょう。そこで、彼らは食卓を共にし、礼拝をささげていたのです。コリントの信徒への手紙一の11章17節から34節までは、主の晩餐についてのまとまった記述でありますが、そのところを読むと、そこでは私たちが現在しているような少量のパンと少量のぶどう酒にあずかるといつた聖餐式だけではなくて、食卓を共にしていたことが分かります。初代教会では、愛餐会の中で、その一部として聖餐式が行われていたのです。ちょうど、先週はクリスマス記念礼拝でありまして、午後には愛餐会の時を持ちましたけども、その愛餐会の中で、聖餐の恵みにもあずかるようなものであります。そして、今回の御言葉で語られている礼拝は、むしろ先週のクリスマス祝会のようなものであったと言えるのです。その祝会の中で、聖餐式は行いませんでしたけども、そこで、わたしはマタイによる福音書からお話をいたしました。また、皆さんも、一年のそれぞれの歩みを振り返りつつ、それぞれに与えられた主の恵みを語ってくださいました。それは、まことに楽しい、愉快なひとときでありました。私たちの祝会は、夜中まで続き、ついには朝を迎えてしまうというようなことはありませんでしたけども、しかし予定の時間を30分以上は過ぎていました。わたしの近くに座っていた方が、もう終わりの時間だと心配しておりましたけども、わたしはもっと聞いていたいと思ったほどでした。このトロアスの集会が、夜中まで続き、ついには朝を迎えてしまうには、それなりの理由がありました。それは、パウロが翌日出発する予定であったということです。パウロは、これらかエルサレムヘと向かう。4節以下にありますように、異邦人教会の代表者たち共に、エルサレム教会への献金を携えて、出発する予定であったのです。いわば、これがパウロとトロアスの信徒たちとの今生の別れとなる、そのような礼拝であったのであります。それゆえに、パウロは夜中まで話し続けた。説教をし続けたのです。自分が受けた福音を、トロアスの人々に、あますところなく伝えたいと、パウロは言葉を尽くして語ったのであります。しかし、そのパウロの説教が、思わぬかたちで遮られる。エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話がながながと続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまったのです。皆さんも経験したことがあると思いますけども、眠気は自分ではどうすることもできない時があります。まさに、襲ってくるのです。そして、この青年は、その眠気によって、三階から下に落ち、死んでしまったのです。これは、礼拝の中で起こった悲しい出来事と言えます。礼拝の最中に、前途ある青年が死んでしまうという事故が起こるなど、まことにふさわしくないことであります。しかし、そのふさわしくないことを、ふさわしいことへと主はパウロを通して変えてくださいました。主は、パウロを通して、この青年を生き返らせてくださったのです。そして、パウロはまた、上に行ってパンを裂いて食べ、夜明けまで説教し続けてから出発したのです。パンを裂くこと、これは今で言う聖餐式であります。その聖餐式のパンとぶどう酒が指し示すものは何か。それは私たちのために裂かれたキリストの体であり、わたしたちのために流されたキリストの血潮であります。そのキリストの死によって、私たちは新しい契約にあずかる者とされたのです。しかし、聖餐式が祝われるようになったのは、キリストが私たちのために死なれたからだけではありません。そのキリストが朽ちることのない栄光の体で復活してくださった。そして、目には見えませんけども、聖霊において、パンとぶどう酒を祝福してくださり、私たちの信仰を養うまことの食べ物、まことの飲み物となってくださったことにあるのです。そうであれば、聖餐によって告げ知らせるのは、主の死だけではなくて、主の復活でもあるのです。主イエスが復活されたからこそ、私たちは主の死を記念として、祝いの宴を開くことができるのであります。
死んでしまった青年をパウロが生き返らせたということも、明らかに、主イエスの復活を指し示しています。青年が礼拝中に居眠りをし、窓から落ちてしまうという事故は、礼拝を中止せざるを得ないことでありました。けれども、そのようなことを主イエスは許されない。主はパウロを通して、青年を生き返らせ、礼拝を続けさせるのです。ここで、礼拝への主の熱心とパウロの熱心は一つであります。主イエスは、そのように私たちを礼拝へと招き続け、私たちが神さまを崇め、神さまと共に生きることができるようにしてくださるのです。今日の説教の準備をしながら、わたしにとってのエウティコの死にあたるものは何であろうかと考えました。私たちを、神さまを礼拝することから遠ざけるものは何であろうか。そして、それはおそらく皆それぞれに違うのではないかと思うのです。けれども、今日、心に刻みたいことは、それが何であっても、それを主イエスが乗り越えさせてくださるということであります。「アッバ、父よ」と叫ぶ主イエスの霊が、私たち一人一人のうちに住み込んでくださり、私たちが主を忘れ、主から離れようとしても、主の方で、しっかりと私たちをとらえていてくださるということです。先程わたしは、キリスト教会が週の初めの日に礼拝をもつようになったのは、イエス・キリストが週の初めの日に、復活し、弟子たちに現れてくださったからであると言いました。それにより、週の最後の日であった安息日が、週の最初の日となったのです。イエス・キリストが復活されるまで、安息日を目指して一週の歩みをしていたのでありますけども、イエス・キリストが復活してからは、安息日から一週の歩みが始まるのです。そして、そのことは、私たちがすでに主の安息にあずかっていることを教えているのであります。また、週の初めの日が、安息日であることは、一週間すべてが主の安息に包まれていることを教えているのです。私たちは、主の安息を目指して一週を歩むのではなく、すでに主の安息にあずかっている者として、主の祝福を携えて、それぞれの場所へと遺わされていくのであります。
週の初めの日、主の日の礼拝において、私たちは、キリストが私たちのために死に、復活してくださったことを、説教の中で公の言葉として聞きます。そして、第一週には主イエスの死と復活を見えるかたちで表す聖餐の恵みにあずかるのです。エウティコという青年が生き返ったお話も、その主の死と復活の光を輝かせるエピノードであります。そして、それゆえに、人々は大いに慰められたのです。エウティコに起こったことが、主イエスのよみがえりを指し示し、そして、主イエスのよみがえりが、このわたしのよみがえりを指し示すがゆえに、今日の御言葉は、私たちにとっても大きな慰めとなり、励ましとなるのです。私たちは、今日の御言葉のうちにも、豊かに働く主のいのちを見るのであります。そして、それは主の日ごとの礼拝において、豊かに臨在してくださる主のいのちでもあるのです。イエス・キリストは、昨日も、今日も、いつまでも変わることのないお方であります。イエス・キリストは、私たちにまことの安息を与えてくださり、この地上で生きる力を与えてくださいます。その主のご支配に、今年一年も守られたことを心から主に感謝したいと願います。また、しばらく礼拝から遠のいている兄弟姉妹のために、とりなしの祈りをささげてゆきたいと願うのであります。