教会会議の本質 2007年9月16日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
教会会議の本質
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
使徒言行録 15章12節~21節
聖書の言葉
15:12 すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。
15:13 二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。
15:14 神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。
15:15 預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。
15:16 『「その後、わたしは戻って来て、/倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、/元どおりにする。
15:17 -18それは、人々のうちの残った者や、/わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、/主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、/こう言われる。』
15:19 それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。
15:20 ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。
15:21 モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」使徒言行録 15章12節~21節
メッセージ
関連する説教を探す
今朝の御言葉の最初、12節に「すると全会衆は静かになり」と記されています。ここに、ペトロの発言の重さがよく表れています。なぜ、全会衆は静かになったのか。それはペトロの発言を通して、神がなされた出来事を改めて思い起こしたからです。ペトロの発言の中に、神の言葉を聞き取ったからであります。神の言葉が語られる。そのとき、人は黙るのです。黙って、心の中で神の言葉を想い巡らすのであります。ペトロは、8節、9節でこう語っていました。「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。」
このペトロの発言は、10章に記されていたカイサリアのコルネリウスの出来事を思い起こさせるものです。ここでの主語は明らかに「人の心をお見通しになる神」です。神が、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられた。神が彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別もなさらなかった。ここで、ペトロが語っているのは、神の出来事であります。そのようにして神は異邦人であるコルネリウスたちを御自分の民となされたのです。続く10節で、ペトロはこう語ります。「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。」
8節、9節の主語が「神」であったのに対して、10節の主語は「あなたがた」であります。この「あなたがた」は、アンティオキアに下って来て「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた人々、さらには「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と主張した人々のことを指しています。
「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、異邦人は救われないのか。」「救われた異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきなのか。」これが、エルサレム会議の論点でありました。そのこのことを巡って激しい議論が重ねられたのです。その議論が語り尽くされた後で、ペトロは発言し、こう結論するのです。「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」
ペトロは、ユダヤ人である私たちが救われたのは、割礼を受けているか、モーセの律法に従っているからか。そうではない。私たちはただ主イエスの恵みによって救われたのだと語りました。そして、それは異邦人も同じことなのだとペトロは語るのです。つまり、ユダヤ人も異邦人もただ主イエスの恵みによって救われるのだ、とペトロは力強く語ったのです。
この言葉を聞いて全会衆は静かになりました。おそらく、多くの人がその通りだと思ったのでしょう。その静けさの中で、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について語り出したのです。ここで、バルナバの名前が最初にあげられていますが、これはバルナバがもともとエルサレム教会の指導的立場にあったことを考えるならば当然であります。そもそも、バルナバは、エルサレム教会からアンティオキア教会へ派遣された人物でありました。ペトロが語った、コルネリウスに起こった出来事、それはペトロ自身が「ずっと以前に」と語っているように、10年近く前の出来事でありました。けれども、バルナバとパウロがここで語っていることは、最近の出来事であります。私たちはその様子を13章、14章にある第一回宣教旅行の記述から学んできました。かつてペトロの口を通して、異邦人を御自分の民とされた神は、今なお、バルナバとパウロを通して、働き続けておられる。神の御心は、10年近く変わらずに、一貫しているわけですね。神が働いておられるというのが、何だか抽象的に思えるならば、天に上られた主イエスが聖霊において働いておられると考えたらよいと思います。主イエスは、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と仰せになり、弟子たちが見ている前で、天への上げられました。そのイエス様が、聖霊において、弟子たちと共にいてくださり、共に働いてくださる。バルナバとパウロがなした、あらゆるしるしと不思議な業は、そのことを示しているのです。
二人が話し終えると、ヤコブが答えました。このヤコブは、12使徒のひとり、ゼベタイの子ヤコブではなくて、主イエスの弟であるヤコブのことです。もちろん、主イエスは、聖霊によって処女マリアからお生まれになりましたから、私たちと全く同じ意味で兄弟であったとは言えません。しかし、同じ母マリアから生まれ、ヨセフの家に育ったゆえに、ヤコブは主の弟であると言えるのです。ヤコブは、イエス様が復活される以前、イエス様を信じておりませんでした。しかし、復活の主イエスがヤコブにも現れてくださり、信仰へと導かれたのです。使徒言行録の1章に記されている聖霊を祈り求める祈りの場には、「イエスの母マリア、またイエスの兄弟たち」も参加しておりました。ですから、ヤコブはエルサレム教会の発足当初からのメンバーであったことが分かります。また、12章を見ますと、ヘロデ王によって投獄され、天使によって解放されたペトロが、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言って、ほかの所へ去っていったことが記されています。このエルサレム会議の記述を見ても、ヤコブが会議の指導権を握っていたことが伺えます。もしかしたら、ヤコブはこの会議の議長であったかも知れません。これらのことから、エルサレム教会の最高指導者は、ペトロからヤコブに代わっていたと考えられるのです。そのことをパウロが記したガラテヤの信徒への手紙も裏書きしています。ガラテヤの信徒への手紙2章の記述は、エルサレム会議を背景としていると考えられますが、そこには、エルサレム教会の柱と目されるおもだった人として、「ヤコブとケファとヨハネ」の3人の名前があげられています。ケファとはペトロのことでありますから、ペトロよりもヤコブの名前が先にあげられているわけです。なぜ、ペトロではなくて、ヤコブがエルサレム教会の最高指導者となっていたのか。ある人は、12章に記されていたヘロデ王による迫害がそのことを正しく理解する鍵であると言っています。12章には、ヘロデ王が教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺したことが記されておりました。そして、それはユダヤ人に喜ばれることであったのです。その喜ぶ様を見て、ヘロデはさらにペトロをも捕らえたのでありました。なぜ、ユダヤ人たちは喜んだのか。それは当時、教会が同胞のユダヤ人から疑いの目で見られていたからです。メシア・イエスの到来によって、律法からの自由を説いたヘレニストのユダヤ人キリスト者はエルサレムから散っていきましたけども、残っているキリスト者たちも、律法を軽んじているのではないか。そのような疑惑の目が向けられていたわけです。教会が、異邦人と接触する機会が多くなったこともその疑惑をいよいよ深めていたと思います。そのような教会に対して厳しい目が向けられる中で、律法に割と自由な態度を取っていたペトロよりも、律法に厳格で、保守的なヤコブが、影響力を増していったことはよく分かることです。ヤコブがペトロよりも律法に対して厳格な立場をとり、保守的であったことは、ヤコブの手紙を御自分で呼んでいただければすぐ分かります。
ヤコブについての説明が長くなりましたが、そのヤコブが語った言葉は次のようなものでありました。「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようなになるためだ」昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる。」それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」
ここでの「シメオン」は、ペトロのことです。ペトロとはイエス様からいただいたあだ名でありまして、本当の名前はシモンと言いました。その「シモン」という名がここでは「シメオン」と呼ばれているのです。ヤコブは、シメオン・ペトロが語ったことを「神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選びだそうとなさった次第」と言いました。このように、ペトロが語ったことを全面的に受け入れ、支持したのです。そして、それは旧約の預言者たちの言っていることとも一致すると、アモス書9章11節、12節の御言葉を引用するのです。それは言い換えれば、ペトロが体験し、話してくれたことが、この預言の成就であるということです。ヤコブが、主イエスの光の中で、そして、ペトロやバルナバやパウロの話の中で、このアモスの預言を想い巡らしていたことは明かであります。もしかしたら、ペトロの話しを聞きながら、またバルナバやパウロの話を聞きながら、ヤコブの心の中にこのアモスの預言が示されたのかも知れません。このアモスの預言は、ヘブライ語旧約聖書のギリシア語訳である70人訳聖書からの引用であります。もともと旧約聖書は、イスラエルの言葉、ヘブライ語で記されておりましたけども、当時、多くの人々は、そのギリシア語訳、いわゆる70人訳聖書を用いていたのです。ですから、実際に旧約聖書を開いてみると、少し文面が違っていることに気がつきます。私たちの持っている聖書は、ヘブライ語を日本語に翻訳したものですから、ここでヤコブが引用している70人訳聖書とは少し文面が異なるのです。そして、ここには、ヤコブの解釈もわずかですが入り込んでいます。そのことを踏まえたうえで、このアモス書の言葉に聞きますと、「その後、わたしは戻ってきて」というこの「わたし」がダビデの子孫であり、メシアであるイエスのことを指していることが分かります。少なくともヤコブはそのように解釈しております。イエスの再臨というよりも、イエスのはじめの来臨をどうやら指しているようです。メシアであるイエスが来られたとき、どのようなことが起こるか。それは「倒れたダビデの幕屋を建て直す」ということであります。この「建て直す」という言葉を聴くとき、私たちは弟子たちが復活の主に、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねたことを思い起こします。いわば、その問いの答えが、ヤコブを通してここで与えられているわけです。主イエスの到来によって、ダビデの幕屋は建て直されている。そして、それはユダヤ人の残りの者と、主に選ばれた異邦人からなるとヤコブは語るのです。ここで、「幕屋」と言われていることは大切なことであります。幕屋と聞いて思い浮かべるのは、何より「臨在の幕屋」です。神を礼拝する場としての幕屋であります。そして、そのことは何より、イスラエルが神を礼拝する民である、教会が礼拝共同体であることを教えています。ヤコブは、アモスが、そのようなダビデの幕屋の再建を預言していたと語るのです。そして、それは「昔から知らされていたこと」なのです。その昔から知らされていたことを、主は今行っておられるのだと告げるのです。ヤコブは、ペトロが体験した神の出来事を、旧約聖書に基づいて説き明かしてたわけです。
主がユダヤ人ばかりではなく、異邦人をも救いに入れることをご計画されていたこと。それはイスラエルの初めの先祖であるアブラハムの召命から語られていたことでありました。主はアブラハムを祝福の源とされ、「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」と仰せになりました。また、神は、イスラエルの民をエジプトから導き出し、シナイ山で契約を結ばれる前にも、「世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる」と仰せになりました。イスラエルは、主なる神と世界の国々の間をとりなす祭司の王国として選び出されたのです。ですから、神が異邦人を救い、御自分の民とされたことは、決して突然のことではないわけです。神が突然思いついて、行われたことではないのです。それは、昔からしらされていたこと、全人類の始祖であるアダムが堕落したときに、神が告げられた御意志でありました。そして、その神の御意志を主イエスが実現してくださったのです。主イエスの恵みが、昔から知らされていたことを現実のものとしてくださった。それゆえ、ヤコブは、「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」と判断するのです。これは、ペトロが語ったように、「異邦人もただ主イエスの恵みによって救われる」ということであります。ヤコブは「わたしはこう判断します」と語りました。彼は何を判断しのか。それは神の御心がどこにあるかということです。神の御心を判断したのです。異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように教えるのが神の御心なのか。そうではない。神の御心、それは、神に立ち帰る異邦人を悩ませてはならないということでありました。それが神の御心である、とヤコブは判断したのです。このエルサレム会議で、問われていることはただ一つ、神の御心であります。ペトロの語った言葉も、バルナバやパウロが語った言葉も、自分たちが受け取った神の御心を証しする言葉でありました。いわば、ペトロも、バルナバやパウロも神からの啓示を受けたわけです。その新しい啓示が、この会議を通して使徒たちや長老たちにも共有されたのです。そして、ヤコブは、それをしっかりと受けとめたうえで、そのことを聖書の預言から吟味し、一致していると告げたのです。ここで大切なことは、誰がどう言ったとか、わたしはこう思うとか、そのようなことではありません。大切なの主なる神の御意志です。この会議に集った全ての者が、神の民である教会は神の御心に従って歩まなくてはいけないと強い自覚を持っていたのです。聖書は、「キリストは教会の頭であり、わたしたちはその体、その部分である」と教えています。体の動きが、頭の働きによって制御されているように、私たち教会は、頭である主イエスの御心に従うべきなのです。今朝の説教題を「教会会議の本質」とつけましたけども、教会会議の本質とは何かと言えば、神の御心を祈り求め、神の御心を実現する会議であるということです。エルサレム会議は、まさにそのような会議でありました。主イエスは、「二人または三人がわたしの名によって集うところにわたしも共にいる」と仰せになりました。そして、この約束は、礼拝だけではなくて、教会会議においても真実となるのです。信仰をもって見るとき、私たちはこの会議にも御言葉と聖霊をもって主イエスが臨んでくださり、その議事を導いてくださったことが分かるのであります。
最後に20節以下を学んだ終わりたいと思います。「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」と判断したヤコブが、ここでは、「ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです」と語っています。ここでヤコブがあげている4つの事柄は、レビ記17章、18章に記されている、イスラエルに寄留する者に求められた規定に該当すると言われます。その昔、イスラエルに寄留する者に、この4つのことが求められた。それをヤコブもここで求めているというのです。このことは、「主イエスの恵みによって救われる」ということと矛盾するのではないかと思うかもしれません。けれども、ここに記されている4つのことは、救われるための条件というよりも、むしろ、ユダヤ人キリスト者への配慮であると言えるのです。モーセの律法に慣れ親しんできたユダヤ人の兄弟たちへの配慮がここで求められているのです。そのことは、21節からも明らかであります。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれている。そのモーセの律法に親しんでいるユダヤ人たちたちのために、この4つのことを避けていただきたい、そのようにヤコブは語っているのです。神があなたたちに心を配られたように、あなたたちもユダヤ人の兄弟たちに心を配っていただきたい。そのことをヤコブはここで求めているのであります。教会の交わり、その中心にあるものは、聖餐の交わり、食卓の交わりであります。しかし、その食卓に、偶像に献げられた肉が並べられたらどうか。あるいは、絞め殺されて、血を含んだままの肉が並べられたらどうか。それではモーセの律法に親しんできたユダヤ人たちはその食卓に共に着くことができないわけですね。
ユダヤ人であっても、異邦人であっても、ただイエスの恵みによって救われる。行いではなくて、ただ主イエスの信仰によって救われます。しかし、そうであれば、何をしてもいいのかと言えばそうではありません。律法からの自由は、律法を守らなくてよい自由、罪を犯してよい自由ではありません。律法からの自由とは、律法を自分の意志で守る自由でもあるのです。兄弟姉妹のために、自ら重荷を負う、誰かに負わされるのではなくて、自ら負う、そのような自由でもあるのです。それゆえ、パウロは、ガラテヤ書の5章でキリスト者の自由について語った後で、「互いに重荷を負い合いなさい」と語るのです。「そのようにしてこそ、キリストの律法を全うされるのだ」と教えるのです。キリストの律法とは何か。それはヨハネによる福音書13章によれば、主イエスが私たちを愛してくださったように、私たちが互いに愛し合うことであります。主イエスに愛されている者として、互いに愛し合うこと。これがキリストの律法であります。そして、この律法に従うところにキリスト者の自由があるのです。なぜなら、愛するとは最も自由なことであるからです。誰も人に愛を強制することはできません。愛とは最も自由なことなのです。その自由に、キリストは私たちを生かしてくださっているのです。その自由をもって敵をも愛せよと主イエスは言われたのであります。主イエスの恵みによって救われるとはそういうことであります。その主イエスの恵みによってあなたがたは救われたのだから、どうかユダヤ人のためにこの4つのことを避けていただきたい。主イエスの恵みに生かされている者として、その重荷を自ら担っていただきたいとヤコブは語るのです。主イエスの恵みによって救われるということは、それほど重いことなのです。なぜなら、主イエスは私たちを救うために、御自身の命をお捨てになられたからです。主イエスの尊い血潮によって救われたことを知るとき、その主イエスの恵みは決して軽くはない、重い恵みであることが分かるのです。そして、その主イエスの恵み重んじることが、主にあって兄弟姉妹となった一人一人を重んじることと一つのことであることが分かるのです。主の恵みを本当に重んじるとき、私たちは兄弟姉妹のために喜んで重荷を担う、その自由に生きることができるのです。