偶像を離れて 2007年8月26日(日曜 朝の礼拝)
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偶像を離れて
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- 村田寿和 牧師
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使徒言行録 14章8節~18節
聖書の言葉
14:8 リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。
14:9 この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、
14:10 「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。
14:11 群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。
14:12 そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。
14:13 町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。
14:14 使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで
14:15 言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。
14:16 神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。
14:17 しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」
14:18 こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。使徒言行録 14章8節~18節
メッセージ
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今朝の御言葉には、足の不自由な男、生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった男が、躍り上がって歩き出すという癒しの奇蹟が記されています。なぜ、このような癒しの奇蹟が起こったのか。それはこの男が、パウロの話しを聞いて信じたからです。もちろん、ここでパウロが話していたのはキリストの福音であります。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認めました。どのようにして、パウロはそのことを知ったのか。それはおそらく、この男の聞き方、聞く姿勢によってであったと思います。パウロが語る言葉を聞き漏らすまいと真剣に耳を傾ける、その男の姿勢に、パウロはいやされるのにふさわしい信仰を認めたのです。そして、パウロは、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言ったのです。この男は、このパウロの言葉に従って、信頼して立ち上がりました。ここにも、この男の信仰を見ることができます。彼はパウロの語るイエス・キリストを信じるがゆえに、パウロの言葉に従って立ち上がろうとしたのです。そして実際、この男は躍り上がって歩きだしたのでありました。
この足の不自由な男が癒される奇蹟を発端として、思わぬ出来事が起こります。群衆は、パウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言って騒ぎ出したのです。リカオニアの方言とありますが、これはむしろリカオニア語、その土地の地方語のことです。人々は、公用語であるギリシア語とその土地の言葉であるリカオニア語の2つを用いておりました。ここでは、驚きのあまり、身に付いていたリカオニア語で声を張り上げたのです。それゆえ、パウロとバルナバも、彼らが何と言っているのか、この時はまだ分かりませんでした。群衆は、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と声り張り上げたわけですが、このことの背景には、その昔、ある夫婦がゼウスとヘルメスを神々とは知らなで自分の家に迎えたという言い伝えがあります(オビディウス『変身譜』)。夫婦は、神々を接待しているとは知らず手厚くもてなし、豊かな報いを受けたというのです。その言い伝えを、群衆は知っておりましたから、パウロの癒しの奇蹟を見たとき、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と声を張り上げたのです。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、パウロを「ヘルメス」と呼んだのであります。パウロをヘルメスと呼んだ理由として、「おもに話す者であるから」と記されています。これは、ヘルメスが神々の使いであり、言葉の指導者と考えられていたからです。ゼウスは、ギリシアの神々の最高神でありますから、バルナバはなかなか威厳のある風貌であったのかも知れません。ついには町の外にあったゼウスの神殿の祭司もやって来て、牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとしたのです。ここではじめてパウロとバルナバはことの深刻さに気づくのです。
群衆が、自分たちにいけにえを献げようとしている。このことを聞くと、使徒たち、バルナバとパウロは、服を裂いて群衆の中へ飛び込みました。服を裂くのは、神を汚す行為への怒りと嫌悪を示すジェスチャーであります。そして、パウロとバルナバは群衆の中に飛び込むことによって、祭り上げられることを拒絶し、こう叫ぶのです。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。」
ここでパウロは、「なぜ、こんなことをするのか」とその意味を問うております。私たちにいけにえを献げる。私たちを神であるかのように礼拝することに何の意味があるのか。私たちも、あなたがたと同じ人間にすぎない。ここで、パウロは自分たちが神格化される、偶像視されるのを断固として拒絶しております。私たちは、あなたがたと同じ人間、その人間を神のように拝んではならない。そうパウロは告げているのです。
さらにパウロは語ります。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。」
ここで、「偶像」と訳されている言葉は、必ずしも偶像を意味する言葉ではなくて、「むなしいもの」という言葉です。新改訳聖書は、このところを「このようなむなしいことを捨てて」と訳しています。空しいもの、それは中身が空っぽであるということです。名前だけでありまして、その実体はないということです。パウロが「あなたがたがこのような偶像を離れて」と言うとき、その偶像、むなしいものとは、自分たちがその化身とされたゼウスやヘルメスといったギリシアの神々のことでありましょう。群衆は、バルナバとパウロを、ゼウスとヘルメスの化身と考え、いけにえを献げようとしたわけであります。しかしその当のバルナバとパウロは、彼らをこのような空しいものから離れさせ、生ける神に立ち帰るように福音を告げ知らせに来たのだ、と言うのです。生ける神とは、むなしいものと対極の意味を持っています。生ける神とは、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになり、いまもそれを保ち、治めておられる生きて働かれる神のことであります。神という名に値するお方、宗教的礼拝を受けるにふさわしいお方は、この生ける神しかおられない。そして、この生ける神は唯一のお方である。それは使徒たち、ひいてはユダヤ人に共通の神認識でありました。イスラエルの民は、その歴史と御言葉を通して、神からそのことを教えられたのです。十戒の第一戒に、「あなたは、わたしの他に何者をも神としてはならない」とある通りです。また、その第四戒には、安息日を聖とすべき根拠として、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである」と記されています。たくさんの神々が崇められる地において、人間があたかも神であるかのように崇める地において、パウロがまず宣べ伝えたのは、むなしいものを離れて、生ける神に立ち帰りなさい、ということでありました。パウロは、自分たちが宣べ伝える生ける神こそが、「天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です」と語りました。そのとき、この「すべてのもの」の中には、リストラに住む人々が含まれているわけです。パウロは、そのことを意識してこの言葉を語っております。ですから、パウロは「生ける神を信じなさい」とは語らずに、「生ける神に立ち帰りなさい」と語ったのです。ここに、あなたがたも神から造られたもの、神との交わりに生きるべきもの、あなたを生かす命、それはこの神にあるということであります。その神に立ち帰るようにと告げるのです。すべての人間が造られた者として、創造主に立ち帰るときが今来ている、パウロはそのことを告げるために、このリストラにやって来たのです。
パウロは語ります。「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」
過ぎ去った時代とは、まだイエス・キリストが来られていなかった時代のことです。もっと厳密に言えば、復活させられたイエスが、神の右に上げられ、すべての人の主となるまでの時代のことであります。それまで、神様は、すべての国の人が、それぞれの思い描く神々、名前はあっても実体のない、むなしいものを信じて歩むことを許しておられた、忍耐しておられたのです。しかし、それではイスラエルの民以外、いわゆる異邦人と呼ばれていた人たちは、生ける神を知らなくて当然であったのかと言えばそうではありません。パウロははっきりと「しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません」と語っています。そして、生ける神が、天からの雨を降らせ、神が実りの季節を与え、食物を施し、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっていたと告げるのです。バルナバはゼウスと呼ばれましたが、もともとゼウスは天空の神、雲、雨、雷などの神であったと言われています。つまり、リストラの人々は、雨が降ると天空の神ゼウスに感謝をささげていたわけであります。しかし、パウロは、恵みの雨を降らせてくださるのは、そのようなむなしいものではなくて、天地万物を造り、それを統べ治めておられる生ける神であると告げるのです。私たちが告白しているウェストミンスター小教理問答の言葉で言えば、ここでパウロは創造と摂理の神を宣べ伝えているのです。このパウロの言葉は、様々な神々が信じられ、人間が神として崇められてきた日本においこそ、聞くべき言葉であります。例えば、私たち日本人は、ご飯を食べる前に「いただきます」と言いますね。しかし、そこで一体誰に対して「いただきます」と言っているのか。一つの理解は、その食物の命をいただくということです。食卓に並べられている野菜や肉や魚、その命をいただき、自分の生きる糧にするということであります。また、もう一つの理解は、その食事を作ってくださった方に対する感謝。さらにはその食材を整えてくださった人々に対する感謝と言えます。お米でしたら農家の方々、魚でしたら漁師の方々、そういった食卓にならぶまでに労してくださった方々への感謝がそこで表されているとも言えるのです。しかし、そこには最も感謝すべき、生ける神への感謝が抜け落ちてしまっているわけです。しかし、それでは正しい感謝をささげたことにはなりません。天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物を施してくださるのは生ける神なのでありますから、その神に感謝をささげなくてはならないわけです。そのために、生ける神に立ち帰らなくてはならない。神が天から遣わしてくださったイエス・キリストを信じて、神に立ち帰らなくてはならないのです。イエス・キリストを通して、生ける神を知ったときに、私たちは食卓を前にして、正しい感謝をささげることができるようになります。主イエスは、主の祈りの中で、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るようにと弟子たちに教えられました。その私たちの祈りに応えて、神は日ごとの糧を与えてくださる。そのとき、私たちが神に感謝をささげることは当然のことであります。また、おいしいものを食べると思わずほおがゆるむ、笑顔になることは誰もが知っていることです。そのような喜びを神は私たちにくださっているのです。イエス・キリストが天へと昇られ、すべての人の主となられてから2000年以上が経っておりますけども、神は今も天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物を施し、人間の心を喜びで満たすことによって御自分について証ししておられるのです。そして、神はパウロとバルナバを遣わされたように、私たちを遣わされ、食卓にあずかるごとに感謝をささげるべきお方は、何より生ける神であることを告げ知らせておられるのです。私たちは、食前の祈りにおいても、生ける神を証しすることができるのです。イエス様のことをうまく伝えられなくとも、食前の祈りによって神様を証しすることができるのです。
むなしいものを離れて生ける神に立ち帰るようにと伝える使徒たちが、神々としてあやうく礼拝の対象とされそうになったという今朝のお話しは、いささかユーモラスな、滑稽なお話しとも言えます。しかし、そこに同時に、人間の心の暗さを思わずにはおれません。パウロが足の不自由な男を癒した奇蹟、これは3章に記されていたペトロが美しいの門で、足の不自由な男を癒した奇蹟を私たちに思い起こさせます。ペトロは、その奇蹟を通して、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、自分たちの先祖の神が、イエスを復活させ栄光を与えになったことを告げ知らせました。足の不自由な男が強くされたこと。それはイエスの名によるものであり、イエスが今も生きて働いておられることのしるしであるとペトロは告げたのです。このように語ることができたのは、ペトロの聴衆が旧約聖書の教えを共有していたユダヤ人であったからです。ですから、彼らはペトロその人にそのような力が宿っているとは考えずに、ペトロを通して神が働いておられると考えることができたのです。けれども、生ける神を知らない、リストラの人々がパウロが行った癒しの奇蹟を見たときどうなったか。彼らは、パウロとバルナバそのものを神々としてしまったのです。そこで、パウロがイエス・キリストの福音を語っていたにも関わらずです。群衆はパウロの為した不思議な業に飛びつき、それを自分たちの思いで勝手に解釈し、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」との結論をくだしたのでありました。
さらには、恵みの雨や食物をいだたき、心を喜びで満たしていただきながらも、彼らはそれがどなたからのものかを正しく知ることはできませんでした。生ける神は、天地創造以来、そのような仕方で御自分について証ししてきたわけでありますが、その証しをリストラの人々は正しく認識することができませんでした。むしろ、そのような恵みを用いて、むなしいものにいけにえを献げるという偶像崇拝の罪を犯していたわけです。このような人間の姿、自らの力ではまことの神を認め得ず、それでも神を求めてやまない人間の姿は滑稽と言えば滑稽と言えます。けれども、それは何とも言えない、悲しい姿ではないでしょうか。このような人間の無知、生ける神の恵みをいただきながらも、その神に正しく感謝をささげることのできない、その霊的な盲目を突き破るのは、ただ外から来る神の言葉であります。はじめの人類であるアダムが良き創造の状態から堕落したとき、私たち人間の神のかたちはそれほどまでに歪められてしまったのです。それゆえ、私たちは、外から来る神の言葉、聖書の御言葉によって、ものの考え方を再構築しなくてはならないのです。これまで、人を神のように崇めて生きてきた、あるいは人が手で作ったものを拝んできた。そのような考え方を一切捨てて、天地を造られた生ける神、恵みの雨を降らせ、食物を施し、私たちの心を喜びで満たしてくださる神がおられること信じるのです。いや、雨だけではない、天から独り子を遣わされた愛なる神を信じるのです。そのような信仰をもって、すべてのものをもう一度見つめ直すのです。そのときに、私たちは神の恵みをいたるところに見出していくことができます。そのようにして、私たちは生ける神に正しい感謝をささげることができるようになります。神はすべてのものが御自分への感謝に生きることを欲しておられます。そのために、神は、イエス・キリストを遣わし、イエス・キリストをすべての人の主とし、すべての人がイエス・キリストを通して神と共に生きることのできる新しい時代を到来させてくださったのです。私たちも今、その新しい時代、恵みの時代に生かされております。そして、私たちもまた、むなしいものを捨てて、生ける神に日々立ち帰ることが求められているのです。