主を頼みとして 2007年8月19日(日曜 朝の礼拝)
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主を頼みとして
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- 村田寿和 牧師
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使徒言行録 14章1節~7節
聖書の言葉
14:1 イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。
14:2 ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。
14:3 それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。
14:4 町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。
14:5 異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、
14:6 二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。
14:7 そして、そこでも福音を告げ知らせていた。使徒言行録 14章1節~7節
メッセージ
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今朝から14章に入ります。1節をお読みします。
イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話しをしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。
ピシディア州のアンティオキアを追い出されたパウロとバルナバは、イコニオンへと向かいました。イコニオンは、ピシディア州のアンティオキアから南東140キロメートルほどに位置する町であります。イコニオンは、リカオニア州の首都であり、交通の要所、商業の中心地でありました。いわば都会であったわけです。そのイコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話しをしました。ここで「同じように」と言われるとき、2つのことが言われているのだと思います。1つは、ピシディア州のアンティオキアのときと同じように、ユダヤ人の会堂を訪れたことであります。そして、2つ目は、ピシディア州のアンティオキアのときと同じように、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたということです。13章に記されていたパウロの説教は、パウロが宣べ伝えた福音がどのようなものであったかを示す、いわば典型として記されております。パウロはこれからも様々な場所の会堂で福音を宣べ伝えるわけですが、そのとき私たちはこの13章に記されているパウロの説教を思い起こせばよいわけです。ですから、パウロはこのイコニオンの会堂でも、神はダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったこと。エルサレムの指導者たちがイエスを認めず、ピラトに引き渡し、呪いの死に定め、葬ったこと。神はそのイエスを復活させられ、御自分の右に上げられ、朽ちることのない永遠の王としてお立てになったこと。それゆえ、イエスを信じる者は、罪赦され、正しい者として受け入れられることを告げ知らせたと考えられるのです。
このパウロとパルナバの話しを聞いて、ユダヤ人もギリシア人も大勢の人が信仰に入ったのでありました。ここでのギリシア人は、会堂に集っていたギリシア人でありますから、割礼を受けていないが、聖書の教えに同調していた神を畏れる者たちであったと考えられます。「大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った」、これはピシディア州のアンティオキアとは違った聴衆の応答と言えます。ピシディア州のアンティオキアでは、ユダヤ人全体がパウロの語る神の言葉を拒んだと記されておりました。そのようなユダヤ人たちの拒絶に遭いまして、パウロは「見よ、わたしは異邦人の方に行く」と語ったわけです。そして、パウロはイザヤ書の預言を引用することによって、昔から異邦人も主の救いの対象であったことを語ったわけです。異邦人たちはそれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。このようにピシディア州のアンティオキアでは、ユダヤ人と異邦人とで線引きがされていたわけですね。けれども、イコニオンでは、大勢のユダヤ人とギリシア人が信仰に入ったのでありました。ユダヤ人の中にも、パウロが宣べ伝える主イエスを信じる者たちと信じない者たちとがいたということです。ピシディア州のアンティオキアのときよりも、線引きが難しくなっているわけですね。ユダヤ人と異邦人、こう簡単に分けられない。ユダヤ人の中にも、信じる者と信じない者が出た。13章48節に「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」とありますように、神の民であるかないかの究極的な根拠は、神の選びにあるのです。
2節をお読みします。
ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。
主イエスを信じない者たち、それがここでは主イエスを信じる者たちを迫害する者となっております。主イエスというお方を巡って、ユダヤ人が二つに分かれ、さらには、信じない者たちが信じる者たちを迫害することが起こっています。そして、このことは主イエスがまだ幼子であったとき、シメオンによって預言されていたことでありました。ルカによる福音書の2章27節から35節までをお読みしたいと思います。新約聖書の104ページ。
シメオンが霊に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。-あなた自身も剣で心を刺し貫かれます-多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
シメオンは、幼子イエスを抱いて、「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れ、栄光です」と語りました。この言葉は、ピシディア州のアンティオキアで、パウロが引用したイザヤ書の御言葉と重なるものであります。イエス・キリストは、万民のための救いとして、異邦人を照らす啓示の光として、神の民イスラエルの栄光としてお生まれになったのです。そうであるならば、その主イエスを誰よりも先に、イスラエルの民が喜びをもって迎え入れるはずでありました。しかし、シメオンは、続けてこう語ります。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」
ここでのイスラエルは、ユダヤ人のことを指しています。ユダヤ人の中に、イエスを信じない者たちと信じる者たちが出てくる。そればかりか、信じない者は、信じる者たちに反対するようになる。その反対のしるしはイエス・キリスト御自身であるというのです。なぜ、ユダヤ人が、同じユダヤ人に敵意を抱くようになるのか。それは彼らがイエスを主と信じる者であるからです。それゆえ主イエスは、反対を受けるしるしであると言えるのです。何より主イエス御自身が反対を受け、十字架という呪いの死に定められたのです。なぜ、そのようなことが起こるのか。シメオンは、「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」と語ります。「多くの人の心にある思い」これは、何より神様に対する思いであります。ユダヤ人は、アブラハムの子孫であり、神の契約の民でありました。彼らは民族という区分で、ユダヤ民族は神の民であると考えていたのです。しかし、シメオンは、神が万民のために備えてくださった救いであるイエスが来たときに、そのイエスを信じるか、信じないかによって、神に対するその人の本当の心があらわになるというのです。神が送ってくださったイエスを信じるか、信じないかによって、本当にその人が神の民イスラエルであるか、どうかが明かとなるのです。
使徒言行録に戻ります。新約聖書の241ページ。
先程お読みした2節に「兄弟たちに対して悪意を抱かせた」とありますが、ここでは、主イエスを信じた大勢のユダヤ人やギリシア人が「兄弟」と呼ばれています。ユダヤ人とギリシア人が、主にあって兄弟姉妹と呼び合うことができる交わりが生まれていたことが分かります。そしてここに、主イエスを信じようとしないユダヤ人たちはもはや含まれていないのです。彼らは異邦人へと近づくわけでありますけども、ここでの異邦人は、ユダヤ人以外の主イエスを信じない者たちのことであります。ユダヤ人たちはその異邦人たちを扇動し、主イエスを信じる者たちに悪意を抱かせたのです。
主イエスが復活させられ、天へと上げられることにより、これまで持っていた言葉の概念が変わったわけですね。これまで神の民イスラエルといえば、アブラハムの子孫であるユダヤ人のことを指すと考えられておりました。しかし、主イエスが永遠の王として君臨されてからは、神の民イスラエルとは、民族の区別なく、主イエスを信じる者たちのことを指すようになったわけです。神の右に座する主イエスの支配のもとに生きる者、それが神の民イスラエルであります。これまで持っていた言葉の概念が変わったこと。このことは異邦人においても同じことが言えます。これまで異邦人とは、ユダヤ人以外の民族を指す言葉として用いられておりました。しかし、主イエスが永遠の王として君臨されてからは、民族の区別ではなく、主イエスを信じない者たちのことを指すようになったのです。ユダヤ人であっても、主イエスを信じないならば、異邦人と見なされるわけです。このことは、ピシディア州のアンティオキアを追い出されたパウロとバルナバが、ユダヤ人に対して足の塵を払い落としたことに象徴的に表されております。前回申しましたように、足の塵を払い落とすという仕草は、足についた塵さえも持ち帰らないという決別を表す仕草であります。そしてそれは元来、敬虔なユダヤ人が異邦人の土地から出て行くときにした仕草であったわけです。ですから、パウロとバルナバが、自分たちを追い出すユダヤ人たちに対して足の塵を払ったということは、彼らを異邦人同然と見なしたということであったのです。そしてこのことは、主イエスが弟子たちをイスラエルの町々に遣わすにあたって命じられたことでありました。なぜ、主イエスは弟子たちにそのようにお命じになったのか。主イエスは弟子たちにこう仰せになっています。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」
イエス様が遣わされた弟子たちを拒むことは、イエス様を拒むこと。そして、イエス様を拒むことは、イエス様を遣わされた神を拒むことであると言うのです。これは、当時のユダヤ社会における一般的な考え方ですね。ある人から使者、名代として遣わされた人を拒むことは、そのある人を拒むことであります。ですから、イエス様が遣わされた弟子たちを拒む者は、弟子たちを遣わされたイエス様を拒むことであり、イエス様を拒むことは、イエス様を遣わされた神を拒むことであるのです。パウロとバルナバ、この二人は主イエスの霊である聖霊によって送り出された者たちでありました。イエス様は、地上を歩まれてとき、12人、さらには72人を2人ずつお遣わしになりましたが、これは旧約聖書に、真実は2人また3人の証言によって立証されなければならないと書いてあるからですね。パウロとバルナバの2人が聖霊によって送り出されたというとき、私たちは、地上を歩まれた主イエスが、弟子たちを二人ずつ遣わされたことを思い起こさなくてはなりません。12人、72人を遣わされた主イエスが、今、聖霊によってパウロとバルナバを遣わされているのです。そして、パウロとバルナバは、主イエスに遣わされた使徒であるとの認識に堅く立って、大胆に福音を宣べ伝えたのです。地の果てにまでも、救いをもたらす異邦人の光として勇敢に語り続けたのであります。
3節をお読みします。
それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。
ユダヤ人たちが異邦人をそそのかし、兄弟たちに悪意を抱かせたにもかかわらず、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語り続けました。ここで、「勇敢に」と訳されている言葉は、通常「大胆に」と訳される言葉であります。しかし、ここで「勇敢に」と訳されているのは、二人がユダヤ人たちや異邦人たちの悪意にさらされていたからでありましょう。語るのに、とても勇気が必要であったと考えられるのです。二人は、自分たちの語る言葉を喜んで聞く者たちに対してばかりでなく、自分たちの語る言葉に反対する者たちに対して恵みの言葉を語り続けたのです。パウロとバルナバが、そこに長くとどまり続けた理由、それはもちろん、生まれたばかりのキリストの教会の基礎を据えるためであったと言えますけども、自分たちに反対する、悪意を持つ者たちのためでもあったと言えるのです。そのような者たちに対しても彼らは恵みの言葉を語り続けた。そして、主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのです。主イエス御自身が、パウロとバルナバを通して、イコニオンにおいても宣教されているのであります。
パウロとバルナバは異邦人の悪意にさらされながら大胆に語り続けました。それは二人が主を頼みとしていたからであります。彼らは主イエスを頼みとしていたがゆえに、そこに長くとどまり、勇敢に語ることができたのです。そして、ここに、自分たちが主イエスから遣わされた者であるという二人の確かな自己認識を見ることができるのです。自分たちは、自分たちの思いだけで、勝手にこのイコニオンで福音を告げているわけではない。そうではなくて、主イエス・キリストからこのイコニオンに遣わされている。主イエスが私たちを通してこのイコニオンで働いてくださる。その自己認識に基づいて、彼らは何より主を頼みとし、勇敢に語ることができたのです。私たちもそうではないかと思います。私たちが恵みの言葉を大胆に語ることができるのは、私たちが主によって、そのような者として遣わされ、立てられているからであります。私たちは異邦人の光として定められた者たちなのです。このことを忘れますと、私たちは主に頼ることができなくなります。私たちを救い、その救いを宣べ伝えるように遣わされるのは主イエスであります。また、私たちを通して働いてくださるのも主イエスであります。この地に主イエスを信じる者の群れ、教会が立てられているのは、まだ救いにあずかっていない人々に恵みの言葉を宣べ伝えるという主イエスの御意志によるものなのです。私たち個人のことを考えてもそうであります。私たちが、家庭や学校や職場といった、それぞれの居場所で、主に依り頼み、大胆に福音を証しすることができるのはなぜか。それは、主の御意志によって、私たちがそこに遣わされていることを信じるからであります。主に遣わされている。この確かな認識、使命感が、私たちを主に依り頼む者とさせるのです。
ここで、ぜひ御一緒に読みたい御言葉があります。パウロが記したコリントの信徒への手紙二の1章8節から10節までです。新約聖書325ページです。
兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちにとって死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださるでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。
ここで、パウロは、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになったと語っています。「死者を復活させてくださる神」と言うとき、その「死者」は何よりイエス・キリストのことでありましょう。けれども、もちろん、この「死者」はイエスお一人に限られてはおりません。パウロは、この「死者」の中に、主イエスを信じる自分を含めているわけです。死の宣告を受けたとも言える厳しい苦難を被ったとき、そのとき頼りとなるのは、死んでしまう自分ではなくて、その自分をよみがえらせてくださる神であることが分かったというのです。主を頼みとすること。それは、この復活の希望と一体的な関係にあるわけですね。私たちが死の宣告を受けるような苦難を前にしても、主に依り頼むことができるのはなぜなのか。それはその主が、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださった神であるからです。主イエス御自身が、死の力に打ち勝ってくださり、朽ちることのない栄光の体でよみがえってくださったお方であるからです。その主を頼みとするとき、パウロとバルナバは勇敢に語り続けることができたのです。自分を頼みとしている間は勇敢にはなれないわけですね。死すべき自分、それを頼みとしている間は勇敢になることはできません。死者を復活させてくださる神、この私をキリストと共に復活させてくださる神、この神に依り頼むときに、私たちは大胆に語ることができるのです。
使徒言行録に戻ります。新約聖書の241ページです。
4節から7節までをお読みします。
町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。そして、そこでも福音を告げ知らせていた。
パウロとバルナバがどのくらいの間、イコニオンに留まっていたかは分かりませんけども、イエス・キリストを巡る議論は、町全体を二つに分けるにまで広がっておりました。パウロとバルナバが語った言葉は、3節では「恵みの言葉」と言われています。それは二人が宣べ伝えた福音が、神が遣わされ、復活させられたイエス・キリストを信じる者は皆、罪を赦され、義とされるという神の一方的な恵みを内容とするものであるからです。ですから、ユダヤ人側についた者たち、これは神の恵みを拒んだ者たちであると言えるのです。先程の第二コリント書の言葉を用いれば、彼らは主ではなくて自分を頼みとしたのです。自分たちの力で、主の救いを得ることができると考えたのです。それに対して、使徒たちの側についた者たちは、神の恵みを素直に感謝して受け入れた者たちと言えます。それは自分自身ではなく、主を頼みとして生きることを教えられた者たちです。そして、この神の恵みを拒絶する者たちは、ついには神の恵みの言葉を告げ知らせるパウロとバルナバをこの地上から除いてしまおうとするのです。かつて、エルサレムに住む人々や指導者たちが、異邦人であるローマ人と一緒になって主イエスを殺してしまったように、イコニオンに住むユダヤ人たちは異邦人と手を組んで、イエスの使徒であるパウロとバルナバを殺そうとしたのです。そのようにして、今も生きて働いておられる主イエスに背いているわけです。ですから、主イエスを信じるか、信じないかは、2000年前のエルサレムにタイムスリップして、はじめて分かることではありません。今、天におられるイエス・キリストが召してくださり、遣わしてくださった私たちが宣べ伝える福音に対してどのような反応を示すか。そのことによって、その人の心の思いがあらわにされるのです。そのようなまことに大きな使命を、私たちキリストの教会は主イエスからゆだねられているのであります。そして、主イエスは今も、聖霊と御言葉によって信じる者を起こし、恵みの言葉を証ししておられるのです。主イエスは今も、教会を通して御自分の御業を進めておれれます。私たちは、主に召された者として、ただ主を頼みとし、恵みの言葉を告げ知らせてゆきたい。そのようにして、私たちの使命を全うさせていただきたいと願うのであります。