異邦人の光 2007年8月12日(日曜 朝の礼拝)

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異邦人の光

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 13章42節~52節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:42 パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。
13:43 集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。
13:44 次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。
13:45 しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。
13:46 そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。
13:47 主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」
13:48 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
13:49 こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。
13:50 ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。
13:51 それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
13:52 他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
使徒言行録 13章42節~52節

原稿のアイコンメッセージ

 ピシディア州のアンティオキアにおけるパウロの説教を3回に渡って学びましたが、42節から43節には、その説教を聞いた人々がどのような反応を示したかが記されています。

 パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。

 この記述から、パウロの説教は、喜びをもって受け入れられたことが分かります。人々は、パウロの話をもっと聞きたいと願い、次の安息日にも同じことを話してくれるように頼みました。集会が終わってからも、「多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来た」。また、「二人は彼らと話し合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた」とあります。多くのユダヤ人が、神の言葉を受け入れ、イエス・キリストを主と信じる者となったことが分かります。兄弟であるユダヤ人たちが、イエス・キリストによって与えられた神の恵みの下に生き続けるようパウロは勧めたのです。

 44節と45節をお読みします。

 次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。

 44節から49節までは、一週間後の次の安息日の出来事が記されています。「ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」とありますが、これはいささか誇張であって、会堂に入りきれないほど多くの人が集まってきたということでしょう。なぜ、このような多くの人が集まってきたのか。聖書は「主の言葉を聞こうとして集まってきた」と記しています。ですから、パウロとバルナバは、次の安息日までの間にも、町中の人々にキリストの福音を宣べ伝えたと考えられるのです。もしかしたら、「もっと詳しく知りたければ、安息日に会堂に来なさい」と誘っていたのかも知れません。そのパウロが語る、主の言葉を聞きに、多くの人々が会堂に集まって来たのです。おそらく、ピシディア州のアンティオキアの会堂に、これほど沢山の人が集まったのは初めてのことであったと思います。そうであれば、ユダヤ人たちは喜んでもよさそうなものでありますが、しかし彼らを捉えたのは「ねたみ」でありました。なぜ、彼らはこの群衆を見て、ひどくねたんだのか。それは、ユダヤ人たちもこの地において、宣教に励んでいたからであります。マタイによる福音書の23章にイエス様が「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」というお話しが記されています。その15節でイエス様はこう言われていました。「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分よりも倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。」

 このイエス様のお言葉から、ユダヤ人も改宗者を得ようと熱心に宣教していたことが分かるのです。このことを私たちに置き換えて考えてみますとどういうことになるのか。いつも私が講壇に立って説教させていただいておりますけども、外から他の説教者を招いて集会をもった。そうしたら、この会堂に入りきれない人が集まったということでしょうか。しかし、もしそのようなことが起こっても、私たちはねたまないでしょう。私個人は複雑な気持ちになるかも知れませんが、皆さんは喜びに溢れて、主に感謝をささげると思います。ですから、自分たちがいつも伝道しているよりも、たくさんの人が会堂に集まったということだけでは、このユダヤ人たちの「ねたみ」を正しく理解したことにはならないと思います。ひどくねたんだユダヤ人たちはどうしたか。彼らは「口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」のであります。これは、おかしなことですね。先程見ましたように、その前の週、多くのユダヤ人がパウロの説教を聞いて、イエスを救い主として信じたわけであります。「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」このパウロの言葉を喜んで受け入れたわけであります。ですから、次の安息日にもう一度同じ話しをしてほしいと頼んだわけです。ユダヤ人の方から、パウロにお願いしたのです。しかし、その彼らが、口汚くののしって、パウロの話すことに反対したのです。パウロは前の安息日と同じことを語ったにも関わらず、彼らはそれを口汚くののしり反対したのです。ですから、これは語られたメッセージの問題ではなくて、それを聞く側の問題なのですね。語っていることがおかしくなったのではなくて、聞くほうがもうそれを素直に聞くことができなくなっているということです。そして、それこそ彼らの心がねたみにとらわれていたことをよく表しているのです。ここで「口汚くののしって」と訳されている言葉は、「冒涜して」とも訳すことができます。彼らはパウロが宣べ伝えるイエスを冒涜したのです。どうして、このような変化が起こったのだろうか。一週間前は、喜んでパウロの説教を聴いていたのにも関わらず、なぜ、彼らはイエスを冒涜し、パウロの話すことに反対するようになったのか。その答えを見つけるために、再び「ユダヤ人たちはこの群衆を見てひどくねたみ」という言葉に戻りたいと思います。ここで「群衆」とありますように、この会堂に集まってきたのは異邦人たちです。ユダヤ人からすれば、神の契約の外に生きる人たちです。その多くの異邦人と共に、もう一度パウロが語る福音を聞いたのです。そのとき、おそらくユダヤ人たちの心に、様々な思いが浮かんできたのだと思います。パウロは、前の週に、「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。」と呼びけて語りだしました。このパウロの説教は3つの呼びかけの言葉があり、それに着目して3つに区分することができると申しましたが、2つ目の呼びかけも「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち」であります。つまり、前の週の説教において、会堂に集っていたのは、おもにユダヤ人であったわけです。神を畏れる人たちと呼ばれる異邦人はおりましたけども、彼らは聖書の教えに同調する、いわゆる求道者であったわけです。さらに、3つ目の呼びかけになりますと「兄弟たち」とユダヤ人だけへの呼びかけとなっております。そのような聴衆を前にして、この38節、39節をパウロが語ったとき、ユダヤ人たちはすんなりと受け入れることができたのですね。けれども、多くの異邦人たちを前にして、この38節、39節の言葉が語ったときに、ユダヤ人たちはそれを素直に受け入れることができなかったのです。それは彼らにしてみれば当然のことであったかも知れません。ユダヤ人たちは、自分たちは神に選ばれた、神の民であるとの誇りがありました。自分たちが神の民であることのしるし、そは何と言っても、モーセの律法、割礼であります。私は、先程ユダヤ人たちも宣教に熱心であったと申しましたが、そのときユダヤ人が宣べ伝えるのは、律法であり割礼であります。割礼を受けて、律法に従って歩む。そのようにして、あなたも神の契約の民して生きることができる。そのように彼らは教えていたのです。けれども、パウロは、律法を知らず、割礼を受けていない異邦人たちにも、「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」と語ったのであります。それならば、律法はどうなってしまうのか。また、神の民としての自分たちの誇りはどうなってしまうのか。神の民としての特権が失われてしまうのではないかと考えたわけです。その危機意識が、口汚くののしって、パウロの話すことに反対したという行動によって表れたのです。ですから、ここでユダヤ人たちがひどくねたんだのは、自分たちと異邦人を差別なく救う神の善意に対してでありました。神は、御子イエスを救い主として遣わし、十字架の死から三日目に復活させ、天へと上げられることによって、このイエス・キリストによって、全ての者の罪を赦し、正しい者として受け入れることをよしとされました。しかし、その絶大なる神の恵みを、ユダヤ人たちはひどくねたんだのです。「この群衆をひどくねたみ」とは、「異邦人をもそのままの姿で救われる神をひどくねたんだ」ということであります。そして、このことを大変よく教えているのが、イエス様がマタイによる福音書の20章でお語りになった「ぶどう園の労働者」のたとえであります。新約聖書の38ページです。

 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中と同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたには不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。

 このイエス様のたとえ話を読むとき、ユダヤ人たちがひどくねたんだ理由がよく分かるのではないかと思います。そして、そのねたみが何よりも気前のよい神に対するものであったことが分かるのです。神は、イエス・キリストを信じる者を、ユダヤ人、異邦人の区別なしに、等しく救ってくださいます。パウロが宣べ伝えた福音、イエス・キリストが実現してくださった救いはそのような福音でした。朝早くから、丸一日働いた者にも、一時間しか働かなかった者にも同じ祝福をもって報いてくださる気前のよい主人、それがイエス・キリストを遣わしてくださった神であります。神は、アブラハムの子孫であるユダヤ人ばかりではなくて、異邦人をも神の国の祝福に等しく生かしてくださるのであります。しかし、ユダヤ人たちはその神の気前のよさをねたむのです。異邦人をもユダヤ人と同じく祝福に生かしてくださる、その神の気前の良さをねたむのです。

 使徒言行録に戻ります。新約聖書の240ページです。

 口汚くののしり、反対するユダヤ人に、パウロとバルナバは勇敢に語ります。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。」

 神の言葉、イエス・キリストの福音は、まず神の契約の民であるあなたがたユダヤ人に語られるはずでありました。神様のご計画にはちゃんと順序がありまして、まず契約の民であるユダヤ人に、神は永遠の命という祝福を与えようとなされたのです。しかし、あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命に値しない者にしているとパウロは言うのです。この「値しない者としている」と訳されている言葉は、「判決を下す」とか「判断する」とも訳すことができます。そして、この言葉は、27節、「イエスを罪に定めることによって」の「定めた」と訳されている言葉と同じ言葉なのです。神の言葉を拒むこと、そこで語られるイエス・キリストを拒むことは、それはイエスを罪に定めることであると言えます。復活を否定し、イエスの十字架の罪をイエス自身に帰すること。それは、イエスを処刑したエルサレムの指導者たちの側に自らを置くことであります。しかし、そのとき、実は、自分自身を永遠の命に値しない者として判断していると言うのです。イエスは呪いの死を死んで当然であったと判断することによって、実は、自分自身を永遠の命に値しない者として判断しているのだというのです。

 パウロは、続けてこう語ります。「見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしにたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」

 神の言葉は、まずユダヤ人に語られるのが、神様のご計画でありました。しかし、それをユダヤ人が拒んだとき、その神様の言葉は行き場を失ってしまうのかと言えば、そうではありません。パウロは「わたしは異邦人の方に行く」とはっきりと語ります。そしてイザヤ書49章6節の御言葉を引用するのです。旧約聖書1142ページ。イザヤ書の49章1節から6節をお読みします。

 島々よ、わたしに聞け/遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしの名を呼び/母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き/わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して/わたしに言われた。あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集まるために/母の胎にあったわたしを/御自分の僕として形づくられた主は/こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 この御言葉は、小見出しに「主の僕の使命」とありますように、4つある主の僕の歌のうちの1つであります。第二の歌です。主の僕と聞きますと、私たちは、イエス・キリストを指すと解釈しますが、当時のユダヤ人たちは、この僕を自分たちイスラエルのことであると解釈しました。そして、それはどちらも正しい解釈であると言えるのです。主の僕は、個人を指すのか(個人説)。それとも、集団を指すのか(集団説)という議論があります。しかし、どちらか一方ではなくて、個人でもあり、集団でもあるというのが正しい解釈であると考えられています。主の僕を理解しますときに、個人とも集団とも理解できるそのように流動的に解釈できるということであります(流動説)。このことをイギリスの旧約学者ヘンリー・ホイラー・ロビンソンという方が「ヘブル人の集合人格概念」という言葉で言い表しています。ロビンソンは、『旧約聖書の集団と個』という書物の中で、主の僕がだれかを取り上げて、次のように記しています(H・W・ロビンソン著、船水衛司訳、『旧約聖書における集団と個』、1972年、教文館、43頁)。 

 詩編の『わたし』について言われたことは、もちろん第二イザヤにおける『ヤーウェのしもべ』は誰かという、さらに激しく議論されてきた問題にもみなあてはまる。著名な学者たちが抱いてきた見解が多種多様で、しかも、これらの学者たち自身の見解も少なからず動揺していることは、思考を刺激してやまない。集合的解釈と個人的解釈との間に戦わされる論争の中心は両者を対立的に見ている点であり、それは現代人には間違いのない考えであっても、古代人の考え方では誤りなのではなかろうか。たしかにわれわれには、『しもべの歌』の中に文脈から離れてみても、両方の見解に論拠があるようにおもわれる。しかしわれわれが見てきたのは、集合人格というヘブル的概念が両者を和解させうるし、またわれわれには不自然に思われる移行の流動性ということで、何の説明も明確な指示もなしに、一方から他方への移行が可能だということである。この概念に照らしてみればヤーウェの苦難のしもべは国民の代表者としての預言者自身(個人)でもあれば、また国民(集団)でもありうる。そして、その国民の固有の使命は、ただその預言者と、また彼と見解を共にできる後継者集団によって実現されつつあるのである。

 このことをイザヤ書49章で説明すると、例えば3節に「あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。」とあります。これだけ読むと、主の僕は、イスラエルという集団を表していると読むことができます。しかし、その主の僕に与えられた使命は、5節によれば、「ヤコブを御もとに立ち帰らせ、イスラエルを集める」ことでありました。これは、主の僕を集団としてのイスラエルと考えると意味が分からなくなります。ですから、ここでの「わたし」は集団としてのイスラエルではなくて、あなたこそイスラエルと呼べる個人であると言えるのです。しかしそのとき、その個人は集団を代表する個人であるがゆえに、そこで集団的な解釈は排除されず、同時に成り立つのです。パウロは、6節の「わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」というこの「わたし」を、直接自分たちに適用して語りました。同じユダヤ人を前にして、パウロはそのように語ることができたのです。なぜ、そのように語ることができたのか。それは3節の「あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる」と言われるイスラエルこそが、パウロが宣べ伝えるイエス・キリストであったからです。そのイエス・キリストに召され、遣わされたパウロは、救いを地の果てまでももたらすという使命を、キリストと共に担っているのです。 

 このイザヤ書に記されている主の僕、イスラエルの使命を考えましても、会堂に集った多くの異邦人を見て、ねたみを燃やしたユダヤ人はイスラエルとしてまことにふさわしくなかったことが分かります。彼らは、神が異邦人を自分たちと同じように救ってくださることを驚きを持って受け入れ、喜ぶべきであったのです。先程の「ぶどう園の労働者」のたとえで言えば、一日中働いた人は、一時間しか働かなかった人にも自分と同じ一デナリオンが与えられたことを喜ぶべきであったのです。あなたも私と同じ恵みにあずかれて良かったねと喜ぶべきであった。そのような気前の良い主人をほめたたえるべきであったのです。しかし、彼らはそれを喜べませんでした。そればかりか、そのような救いを実現してくださった主の僕イエスを冒涜してしまったのです。そのとき、彼らは、もはや自らをイスラエルの中から閉め出してしまったわけです。「わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てにまで、もたらす者とする」この使命を主の僕イエスを拒絶することによって彼らは捨ててしまったのです。そして、それを実現するのは、主イエス・キリストを信じる真のイスラエル、キリストの教会なのであります。

 使徒言行録に戻ります。新約聖書240ページです。

 48節にこう記されています。「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。」

 ここに全く不思議なことが起こっています。今朝の御言葉の初めには、ユダヤ人がパウロの説教を受け入れたことが記されていました。しかし、ここではユダヤ人たちが神の言葉を拒み、異邦人たちが主の言葉を賛美しているのです。もちろん、すべての異邦人ということではありません。聖書は「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」と記しています。異邦人だから、誰もがイエス・キリストを信じたのではなくて、永遠の命を得るように定められていた者が信仰に入ったのです。イエス・キリストを信じることによって、その人が永遠の命に定められていたことが明かとなったのです。隠されていた神様の永遠の選びが、メシアであるイエスを信じることによってあらわにされたのです。このようにして、神の輝きは現れ、神の救いはもたらされたのであります。ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から追い出してしまいました。彼らは二人が主の言葉を拒むだけではなく、その宣教をも妨害したのです。二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンへと向かいます。この足の塵を払い落とすというジェスチャーは、その足についた塵さえも持ち帰らないということです。それは強い決別を表すものであります。ユダヤ人は、異邦人の土地から去るとき、足の塵を払い落としたと言います。ですから、ここで二人が足の塵を払い落としたということは、神の言葉を拒み、イエス・キリストを信じないユダヤ人たちを異邦人同然と見なしたということであるのです。パウロとバルナバが、ピシディア州のアンティオキアにやって来て、イスラエルであるユダヤ人にイエス・キリストの福音を宣べ伝えた。そして、二人が去っていったときは、ユダヤ人たちは異邦人となっており、異邦人たちが真のイスラエルとなっていたということであります。そしてそれは、神が遣わし、復活させてくださったイエス・キリストを信じるか、信じないかのただ一点にかかっているのです。イエス・キリストを信じるならば、ユダヤ人であっても異邦人であっても神の民とされ、救っていただけます。この絶大なる神の恵みを、私たちも賛美をもって受け入れさせていただきたいと願うのであります。

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