全ての者を義とする方 2007年8月05日(日曜 朝の礼拝)

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全ての者を義とする方

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 13章38節~41節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:38 だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、
13:39 信じる者は皆、この方によって義とされるのです。
13:40 それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。
13:41 『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、/お前たちにはとうてい信じられない事を。』」使徒言行録 13章38節~41節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝も御一緒にパウロの説教から御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。パウロは今、ピシディア州のアンティオキアで説教をしているわけですが、この16節から41節にわたるパウロの説教は、呼びかけの言葉に着目して3つに区分することができます。はじめの呼びかけは、16節の「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」であります。2番目の呼びかけは、26節の「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち」であります。3番目の呼びかけは、38節の「だから、兄弟たち」であります。この16節、26節、38節の呼びかけに着目して、パウロの説教を3つに区分することができるのです。そしてその主題は、16節から25節までの第一区分が「救い主の約束」であり、26節から37節までの第二区分が「救い主の到来」であり、38節から41節までの第三区分が「救いへの招き」であると言えるのです。そして、今朝は第三の区分、38節以下を学ぼうとしているわけであります。

 38節と39節をお読みします。

 だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法で義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。

 前回学んだことでありますが、パウロは、呪いの死から復活したイエスこそ、ダビデ契約を実現するメシア、救い主であると語りました。神はイエスを復活させ、もはや朽ち果てることがない永遠の王として、御自分の右に上げられたのです。そのようにして神は、詩編第二編の御言葉を実現してくださったのであります。また、「わたしは、ダビデに約束した聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える」という約束を実現してくださった。「だから、兄弟たち、知っていただきたい」こうパウロは38節以下を語りだしているのです。パウロは、そこで「この方による罪の赦し」と「信じる者は皆、この方によって義とされる」と語っています。「キリストによる罪の赦し」と「キリストによる義」。これこそ、パウロが宣べ伝えている福音であり、主なる神が、ダビデに約束してくださった聖なる確かな祝福にあずかるために必要なことであります。「聖なる確かな祝福」、この祝福は、46節では「永遠の命」と言い換えられています。46節でパウロは、神の言葉を信じようとしないユダヤ人に「あなたがたは自分自身を永遠の命に価しない者にしている」と言うのです。聖書において、「永遠の命」と同義語のように用いられるのは、「神の国」であります。神の国とは、神の王国、神の王的支配のことでありますが、「主なる神が、ダビデに約束した聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える」と言うときの、祝福は、「神の国」であったといった方がよく分かるかも知れません。なぜなら、神は、イエスを復活させ、朽ちることのない永遠の王とされたからです。そのようにして、神の国の祝福があなたたちに与えられた。「キリストによる罪の赦し」も「キリストによる義」も、この神の国に生きるために、必要な事柄であると言えるのです。このことは、「永遠の命」という言葉で説明した方が分かりやすいかも知れません。永遠の命とは、永遠に生きる神との交わりに生かされること、そのようにして神の命にあずかり生きることであります。その永遠の命という祝福に生きるために、まず人は罪を赦していだかなくてはならない。そして、それだけではなくて、神の御前に義としていただかなくてはならないのです。旧約聖書のはじめの方を見ますと、神が天地万物を力ある御言葉によって、6つの日に渡ってお造りになられたことが記されています。そして、そこには、神が人間をお造りになられたことについても記されています。神は人間を御自分に似せて、御自分との交わりに生きる者としてお造りになられたのであります。いわば、神は人を御自分との交わりに生きる者として、御自分を礼拝する者としてお造りになられたのです。しかし、エデンの園において、アダムとエバが罪を犯すことにより、この祝福は失われてしまったのでありました。人は産まれながらに罪を持つ者、神に背く者となってしまったのです。しかし、そのような人間を神はお見捨てにはならなかった。神は、堕落したばかりのアダムとエバに女の子孫から救い主を立ててくださることを約束してくださいました。そして、その約束を実現するために神はイスラエルを選び、ダビデの子孫から救い主イエスを遣わしてくださったのです。この方にあって罪を赦し、この方によって神の御前に正しい者とする道を備えてくださったのであります。そのようにして私たちに、聖なる、確かな祝福である神の国、永遠の命を与えようとしておられるのです。

 イエス・キリストを信じる者は、なぜ罪赦され、また義とされるのか。それは、この方が、私たちに代わって刑罰としての呪いの死を死なれ、そして三日目に復活されたからです。私は前回、パウロが29節で「こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した」と語るとき、その頭の中にあった預言とは、イザヤ書53章の主の僕の預言に違いないと申しました。そして、それはイエスご自身を源とする、使徒たちが共有していた理解であったのです。39節の「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」という言葉を読むとき、多くの研究者が言っていることは、後に「ガラテヤの信徒への手紙」や「ローマの信徒への手紙」において展開される信仰義認の教えを見ることができるということです。確かにそうでありましょう。しかし、もっと遡るならば、パウロが「キリストを信じる者は罪赦され、義とされる」と告げるとき、その根拠となる御言葉はやはりイザヤ書53章であったと思うのです。パウロは、イザヤ書53章の預言を念頭に置きながら、イエスの呪いの死と葬り、三日目の復活について語りました。神はイエスを復活させ、朽ちることのない永遠の王として御自分の右に上がられたと語ったのであります。そして、今朝の御言葉では、そのイエスを信じる者は皆、罪赦され、神の御前に正しい者として受け入れられると語るのです。なぜ、信じる者は罪赦され、義とされるとのか。それは、イエス・キリストが、イザヤが預言した主の僕であったからです。神は罪のないイエスを呪いの死に引き渡し、三日目に復活させ、高く上げることによって、イザヤが預言した主の僕こそイエスであると確証されたのです。そうであるならば、イエスの死はどのような効力があるのか。パウロは、イエスを信じる者たちの罪を赦し、そして、その者たちを神の御前に正しい者とする力を持つと言うのです。イザヤ書53章を開いていただきたいと思います。旧約聖書の1149ページです。

 例えば、イエス・キリストによる罪の赦しについては、5節をその根拠としてあげることができます。5節。「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

 主の僕が、私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの咎のために打ち砕かれる。それによってわたしたちに神と平和が与えられるのです。この預言の言葉に、イエス・キリストによる罪の赦しが宣言される、その根拠があるのです。

 またイエス・キリストによる義については、11節をその根拠としてあげることができます。「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」

 「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」ここに、信じる者は皆、イエス・キリストによって義としていただける、正しい者とされる、とパウロが告げる根拠があるのです。

 使徒言行録に戻ります。新約聖書の240ページです。

 パウロは、キリストを信じる者は皆、罪赦され、神の御前に正しい者として受け入れられると語ったのでありますが、これは先程も申しましたように、神の国に入り、永遠の命にあずかるために必要な事柄でありました。神の国に入り、永遠の命にあずかるには、罪を赦していただき、神の御前に義としていただかなければならないわけであります。「罪の赦し」と「神の御前に義としていただくこと」、この2つは切り離して考えることはできませんが、少し意味合いが違います。神との交わりを回復するためには、まず罪を赦していただき、さらに進んで、正しい者として受け入れていただかなくてはならないわけです。いわば神との交わりに生きるための第一段階が、罪を赦していただくことであり、第二段階が、正しい者として受け入れてもらうことであると言えるのです。この「信じる者は皆、イエス・キリストによって義とされる」という教えは、これまで使徒言行録に記されてきた説教にはなかった視点です。罪の赦しについてはペトロも語りましたけども、「信仰によって義とされる」ことは、ここでパウロがはじめて語っているのです。ここにかつて律法に熱心であったファリサイ派らしいパウロの言葉が記されていると言えます。当時のユダヤの指導者たち、律法学者やファリサイ派の人たちは、どのようにすれば神に義としていだけると考えたか。それは、律法を守ることによってでありました。神の掟である律法、この律法を守ることによって、神に義としていだける、そう彼らは考えたのです。おそらく、このピシディア州のアンティオキアの会堂に集まっていたユダヤ人たちも同じであったと思います。しかし、パウロは言うのです。信じる者は皆、この方によって、つまりイエス・キリストによって義とされるのだと。当時のユダヤ人たちは、神様との間に、貸借表のようなものがあると考えておりました。神の掟を守ればプラスとなり、神の掟に背けば、マイナスとなる。そして決算のとき、少しでもプラスが多ければ神の御前に義としていただける、そのように考えたのです。しかし、パウロははっきりと言います。「あなたがたはモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。この所を岩波書店から出ている翻訳聖書は、こう訳しています。「モーセの律法では義とされることができなかったあらゆることから、信じる者はすべてこの方によって義とされるのです」。ギリシャ語の原典を見ましても、モーセの律法では義とされなかった「あらゆることから」と記されています。つまり、パウロはあなたがたは全く律法を守ることができないと言っているのではなくて、あなたがたが守れないものを、神はキリストにあって、義としてくださると言うのです。パウロがここで問題としていることは、プラス、マイナスの問題ではなくて、落ち度なく守るという完全性の問題なのであります。後にパウロは、ガラテヤ書3章10節、11節でこう語っています。

 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべてのことを絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってだれも神の御前で義とされないことは明らかです。なぜなら「正しい者は信仰によって生きる」からです。

 先程も申しましたように、当時のユダヤ人たちは、神様との関係を貸し借りのように考えていました。神の掟を守ることは、神に貸しができることであり、神の掟を破れば、借りが増える。そして、主の裁きの日、決算の日に少しでも貸方がプラスであれば義としていただける。そう考えたのです。しかし、パウロは聖なる神に義としていただくということはそのようなことではない。「律法の書に書かれているすべてのことを絶えず守らない者は皆、呪われている」と律法自体に書いてあるではないかと言うのです。生まれてから死ぬまで一つの罪をも犯さない人などいません。ですから、パウロは「律法によってだれも神の御前に義とされないことは明らかです」と語るのです。そして、「正しい者は信仰によって生きる」と語るのであります。

 パウロは律法の書、それ自体に、「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあると申しました。しかし、これは裏を返せば、もし律法の書に書かれているすべての事を絶えず守る者がいるならば、その者は祝福の源となるということであります。そして、パウロが今朝の御言葉で、「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」と語ることができたのは、イエス・キリストだけが律法の書に書かれているすべてのことを絶えず守られたお方であったからです。パウロは、22節でこう語っておりました。「それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見出した。彼はわたしの思うところをすべて行う。』

 ここで、ダビデは、神のみこころに適う者、神の思うところをすべて行う者と言われています。神のみこころに適う者、神の思うところをすべて行う者、その者こそ、神の掟を落ち度なく守ることができるはずであります。けれども、私たちはそのダビデでさえも、ウリヤの妻バト・シェバと姦淫の罪を犯し、ウリヤを戦いの最前線に送り出すことによって殺させるという罪を犯したことを知っております。ダビデでさえも、神の掟を落ち度なく守ることはできなかったのです。けれども、神が遣わしてくださった救い主イエス・キリストは違います。この方こそ、神のみこころに適う、神の思うところをすべて行う神の御子であったのです。それゆえ福音書は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとき「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえて来たと記すのです。そして神は、イエスがその生涯において御自分の心に適う者として歩まれたゆえに、イエスを復活させ、天へとあげられたのであります(フィリピ2:8、9)。

 「あなたがたはモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」

 この真理をパウロはどのようにして知ったのか。それは、あのダマスコ途上において栄光の主イエスに出会ったからであります。ある人は「人生は出会いによって決まる」と申しましたが、その通りでありましょう。イエス・キリストとの出会いは、パウロの人生を決定的に変えました。パウロは、栄光の主イエスに出会うことによって、その人生を180度転換させられたのです。パウロは、かつて主への熱心からイエスを信じる者たちを迫害しておりました。しかし、栄光の主にまみえ、イエスこそが主であることを知ったとき、パウロはキリストの福音を宣べ伝える者へと変えられたのです。かつてパウロもピシディア州のユダヤ人と同じく、律法によって義とされると信じておりました。そして、その律法をないがしろにするキリスト者たちを滅ぼそうとしていたのです。しかし、パウロが栄光の主イエスと出会い、そこで体験したことは、罪を赦され、正しい者として受け入れられるという体験であったのです。パウロは、キリストの教会を迫害していた者でありますから、滅ぼされても当然の身でありました。しかし、主イエスは、そのパウロを赦し、かえって福音宣教の器として用いられるのです。パウロ自身が、イエス・キリストによって神との交わりに生かされ、その保証である聖霊をいただき、神の国、永遠の命に生きる者とされたのです。それは、パウロが律法を守っていたからかというとそうではありません。それは、イエス・キリストによって与えられる神の一方的な恵みであったのです。一方的にイエス・キリストはパウロをとらえてくださり、罪を赦し、義なる者として受け入れてくださったのであります。ですから、このパウロの言葉は、体験者の言葉です。すでに罪赦され、義とされている者の言葉なのです。栄光の主に出会った出来事、あの出来事からパウロは「信じる者は皆、この方によって義とされる」という真理を発見したのであります。「その真理に、どうかあなたがたも生きてもらいたい」、そうパウロはすべての者を招いているのです。パウロは「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」と語りました。ここでの「この方」は、言うまでもなくイエス・キリストを指しています。それでは、パウロが「信じる者は皆」と言うとき、何を信じる者は皆と言っているのでしょうか。それは、イエスを遣わし、イエスを復活させ、天へと上げられた神様です。言うなれば、イスラエルの歴史を貫く神の真実、誠実であります。神は先祖に与えられた約束を最終的に実現するために、救い主イエスをダビデの子孫としてお遣わしになりました。そして神は、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、すべての信じる者に罪の赦しと神の義を与えてくださるのです。ある人は、「イエス・キリストを信じて義としていただくことは、イエス・キリストを遣わしてくださった神を義とすることである」と申しました。イエス・キリストを信じることは、私たちが義としていだくことでありますけども、同時にそのイエス・キリストをお遣わしくださった神を正しいお方とすることでもあるのです。イエス・キリストを信じるということは、神がイスラエルの歴史において実現してくださった神の救いの業を、そのまま受け入れることであります。恵みを恵みとして受け入れることであります。それがイエス・キリストへの信仰というかたちで表されるのです。

 パウロは最後、40節と41節でこう警告しています。  

 「それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つのことを行う。人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない事を。』」

 ここで教えられますことは、イエス・キリストを遣わし、復活させた神を信じないのは、神の言葉を侮っているからであるということです。侮るとは、軽く見て、バカにすることです。神の言葉という本来、誰の言葉よりも重んじなければならないものを軽んじるのです。そのとき、イエス・キリストの出来事は人がいくら説明してもとうてい信じられない事となるのです。しかし、そこで待っているのは滅びであります。そうなってはならない。どうか、あなたも、イエス・キリストにおいて語られた神の言葉を重んじていただきたい。そして、神を何より恵みの神として知っていただきたい。この厳しい警告の背後にはパウロのそのような熱い思いがあるのです。そして、神は今朝もこの礼拝を通しまして、私たちをイエス・キリストにある祝福へと招いておられるのです。イエス・キリストを信じること、それは神を正しいとすることです。どうぞ、イエス・キリストを信じ、恵み深い神に出会っていただきたいと願います。

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