神は約束に従って 2007年7月22日(日曜 朝の礼拝)

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神は約束に従って

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 13章13節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:13 パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。
13:14 パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。
13:15 律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。
13:16 そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。
13:17 この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。
13:18 神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、
13:19 カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。
13:20 これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。
13:21 後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、
13:22 それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』
13:23 神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。
13:24 ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。
13:25 その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』使徒言行録 13章13節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は使徒言行録13章13節から25節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 13節をお読みします。

 パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のぺルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。

 私たちは前回、キプロス島における宣教の様子を学んだわけでありますが、今朝の御言葉では、お話しの舞台が小アジアへと移っております。巻末の聖書地図の「7 パウロの宣教旅行1」を開いていただくと、今朝のお話の舞台がどこであるかがよく分かります。パウロとその一行は、キプロス島のパフォスから船出して小アジア南岸のペルゲへと渡り、内陸に160キロメートルほど進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着します。このピシディア州のアンティオキアで行われたパウロの説教が、今朝の御言葉に記されているわけです。

 13節は、「パウロとその一行は」と記しています。また、14節でも「パウロとバルナバは」と記されています。これまで「バルナバとサウロは」と記されていたのが、13節以降は、「パウロとバルナバは」と記されるようになります。そしてこのことは、これからの宣教旅行において、バルナバよりもパウロが指導権を取るようになったことを示していると考えられます。どちらが指導権を取るかということで争いがあったということではなくて、むしろ自然とパウロが指導権を取るようになったのではないかと思います。あるいは、バルナバの方から、パウロに指導権を委ねたのかも知れません。バルナバは、パウロのよき理解者であり、パウロが主イエスの選びの器であることを知っておりましたから、バルナバの方から、パウロに宣教旅行の指導的立場を譲ったのではないかと考えられるのです。そのためでしょうか。ペルゲにおいて、助手として連いてきたヨハネが一行と別れてエルサレムへと帰ってしまいました。コロサイ書の4章10節によりますと、マルコと呼ばれるヨハネは、バルナバのいとこでありました。ですからから、バルナバに代わってパウロが指導権を取ったことがおもしろくなかったのかも知れません。もちろん、これは一つの推測であります。ヨハネが一行と別れて、エルサレムに帰ってしまった理由については、小アジアへの宣教は初めの計画になかったからだとか、ヨハネが小アジアで被る危険に恐れを抱いたからだとか、いろいろ推測されるわけでありますけども、本当のところは分かりません。ともかく、これからはパウロとバルナバの二人で歩むことになったわけです。

 14節から15節までをお読みします。

 パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。

 ペルゲを出て、その地方の中心都市であったピシディア州のアンティオキアへ到着したパウロとバルナバは、安息日に会堂で持たれる礼拝へと出席をしました。当時の礼拝は、まず申命記6章4節、5節に記されているシェマー(ヘブライ語の「聞け」)を唱え、祈りと祝福がなされ、律法と預言者が読まれ、説教がなされたと言われています。使徒言行録の前篇とも言えますルカ福音書の4章16節以下には、イエス様が、故郷ナザレの会堂で説教をなされたお話しが記されております。それと同じように、ここで、パウロとバルナバは、勧めの言葉、説教をすることを求められたのでありました。その人選、誰に説教してもらうかは会堂長の決めることでしたが、おそらく、パウロとバルナバは、巡回教師、ラビであると思われたのでしょう。会堂長たちは人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせたのです。パウロとバルナバにとって、願ってもない宣教の機会が訪れたのです。そこで、パウロは立ち上がり、手で人を制して語り出すのです。 

 これから語られるパウロの説教は、16節から41節までの長いものでありますが、呼びかけの言葉に着目して、3つに区分することができます。はじめの呼びかけは、16節の「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」であります。2番目の呼びかけは、26節の「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち」であります。3番目の呼びかけは、38節の「だから、兄弟たち」であります。この16節、26節、38節の呼びかけに着目して、パウロの説教は3つに区分することができるのです。そしてその主題は、16節から25節までの第一区部が「救い主の約束」であり、26節から37節までの第二区分は「救い主の到来」であり、38節から41節までの第三区分は「救いへの招き」であると言えるのです。今朝は、その第一の区分、「救い主の約束」について学びたいと思います。

 16節から25節までをお読みします。

 「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、それからサウルを退けてダビデを王の位につけ、彼に次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネは言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない。』」

 ここで、パウロは、「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。」と呼びかけ、イスラエルの歴史を語りだします。私たちは、7章でステファノの説教を学びましたが、そこでもステファノは、イスラエルの歴史を語っておりました。しかし、そのステファノの説教と比べてすぐに気づきますことは、パウロの説教は、イスラエルの歴史の大枠を示すだけで細々としたことは語っていないということです。また、ステファノの説教がイスラエルの罪を強調していたのに対して、パウロの説教には、そのことが全く語っておりません。そこには、王を求めた人々の不信仰も、サウルの罪も全く触れられていないのです。むしろ、パウロがイスラエルの歴史を語る、その語り口は、神がイスラエルにおいて、どのように恵み深く臨んでくださったか。神がイスラエルの歴史において、どのように救いの御業を成し遂げてくださったかにあるのです。ここで、パウロは、一貫して神を主語として、イスラエルの歴史を語っているのです(17、18、20、21、23節)。神は先祖アブラハムを選び、その一人の人からイサク、ヤコブ、12人息子たちと70人からなら大家族を形成され、エジプトにおいては、壮年男子だけで60万人にもなる部族へと成長させたのでありました。そして、神は奴隷状態にあったイスラエルの民を高く上げた御腕をもって、救い出してくださったのです。そればかりか、神はイスラエルの民の不信仰を耐え忍び、カナンの地を相続させてくださったのでありました。このことは、すべて神の約束の実現によるものであります。神はアブラハムに、「あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう」と約束してくださいました。また、神はアブラハムに、「この土地(カナンの土地)をあなたとあなたの子孫に与える」と約束してくださいました。ですから、壮年男子だけで60万人にもなったイスラエルの民が、カナンの地に定住できたことは、アブラハムへの神の約束が空しいものとならず、実現したことを雄弁に物語っているわけです。

 20節に「これは、約四百五十年にわたることでした。」とありますが、この450年の内訳は、エジプトに寄留していたのが400年、荒れ野を彷徨っていたのが40年、カナンの地に定住するまでが10年であると考えられています。

 カナンに定住したイスラエルは、部族ごとに領土を与えられ、ゆるやかな連合体を形成しておりました。その時も神は、裁く者たち、士師をお立てになり、イスラエルを危機的状況から救い出されました。そして、サムエルの時代、人々が王を求めた際には、神は40年間、サウルを王としてお与えになったのです。これによって、イスラエルは国家となったわけです。神はアブラハムに「王となる者たちがあなたからでるであろう」と約束されましたが、その約束がここで実現したと言えるのです。神は、サウルを退けてダビデを王の位につけます。ダビデは、「わたしの思うところをすべて行う」と言われるほど、主のみこころに適う人物でありました。そして、神はこのダビデと一つの約束、契約を結ばれるのです。それが、サムエル記下の7章に記されているダビデ契約と呼ばれるものです。主なる神は、預言者ナタンを通して、ダビデにこう仰せになりました。旧約聖書490ページです。7章8節から16節までをお読みします。

 わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に圧迫されることもない。わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」

 神は、ダビデに、「あなたの身からでる子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」と約束してくださいました。そして、この約束は、ダビデ個人への約束に留まらず、イスラエルの民への希望の約束となったのです。ダビデ契約は、いつしかダビデの子孫から救い主、メシアがお生まれになるという約束として理解されるようになったのでありました。使徒言行録に戻ります。新約聖書の238ページです。

 パウロは、ここで、ダビデからイエスへと結びつけ、その約束の実現を強調しておりますが、実はこのダビデとイエスの間にはおよそ1000年の時の隔たりがあるわけであります。そして、その間には、イスラエル王国の分裂、アッシリア帝国による北王国イスラエルの滅亡、バビロン帝国による南王国ユダの滅亡、バビロン捕囚とその帰還と様々なことがありました。それはイスラエルの苦難の歴史であったと言えるのです。しかし、そのような苦難の時にありましても、このダビデ契約は、イスラエルの民に希望を与えるものとして、その実現が待望され続けたのです。例えば、捕囚の地、バビロンにおいて活動したエゼキエルは、次のように預言しています(34:23-25a)。

 わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。

 主なる神は、捕囚の民イスラエルに対して、「わが僕ダビデを君主として立てる」、そして「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ」と仰せになりました。この預言の背後にあるものは、先程のダビデ契約であります。ダビデの子孫から救い主がお生まれになる。この約束は、捕囚の地にあるイスラエルの民をも慰め、力づけたのでありました。そして、それは、ローマ帝国の占領下にあった、パウロの時代においても同じであったのです。来るべきメシアが「ダビデの子」と呼ばれたように、当時のイスラエルの民も、ダビデの子孫から生まれる救い主の到来を持ち望んでいたのです。そして、パウロは、神はその約束を今や実現してくださった。その約束に従って、神はダビデの子孫から救い主イエスを送ってくださったと語るのです。主イエスが、ナザレの会堂で、イザヤ書の御言葉を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語り、御自分が主から遣わされたメシアであることを宣言されたように、パウロは、イエスこそが、救い主であると告げるのです。主イエスにおいて、神の約束は実現された。神はイエスにおいて、ダビデの王座をとこしえに堅く据えるという約束を実現してくださったのです。そして、ここに、神の恵みは最高潮に達したのであります。神はイスラエルの民をエジプトから導き出すために、モーセを立てられました。また、カナンの地で七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させるために、ヨシュアを立てられました。また、カナンの地に定住した後は、必要に応じて裁く者である士師たちを立てられました。さらに人々が王を求めると、サウルを与え、それからダビデをお与えになったのであります。これらの指導者は、神が御自分の民イスラエルにお与えになった恵み、賜物であると言えます。神様は御自分の民を、その約束に従って祝福し、その時代、時代に指導者を与えになり彼らを守り導かれたのです。そしてそれは、神様にそうしなければならない義務があったからではなくて、神様の全く自由な御意志によるものであったのです。人間の理屈から言えば、神様は、不信仰なイスラエルを耐え忍ぶことなく、いつでも捨てることができたのです。しかし、神様はそれをしませんでした。いやできなかったのです。ホセア書11章に、神を親にたとえ、イスラエルを子にたとえた「神の愛」についての美しい記述があります。そこで、神はバアルに犠牲をささげ、偶像に香をたくイスラエルを見捨てることができないと言われるのです。エジプトから導き出し、わが子としたイスラエルが、自分のもとから去っていき、偶像に仕えるようになる。そのような民は滅ぼしてしまえばよいではないか。私たち人間ならそう思うのであります。けれども、神は、それができない。なぜなら、わたしは神であり、人間ではないからだと主なる神は語られるのです。自分に背き続けるイスラエルに対して、「わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる」と語るのです。その神様の憐れみ、その憐れみゆえに、神はダビデとの約束を実現してくださり、ダビデの子孫からイエス・キリストを遣わしてくださったのであります。ダビデの子孫であるヨセフのいいなずけマリアの胎に聖霊によって宿るという仕方で、神の御子がこの地上にお生まれになられたのです。神は、独り子を世にお与えになることによって、イスラエルとの約束を実現してくださったのです。

 24節、25節には、洗礼者ヨハネのことが記されています。ヨハネは、主イエスに先立って活動し、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた預言者でありました。そしてそれは、来るべきメシアの到来に備えるためであったのです。人々が神へと立ち帰り、主から遣わされるメシアを迎え入れることができるように、ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのです。なぜ、パウロはここで洗礼者ヨハネについて語り出すのか。それは、小アジアの、離散のユダヤ人の間にも、洗礼者ヨハネのことが伝わっていたからでありましょう。19章には、同じ小アジアのエフェソに、ヨハネの洗礼を受けた、ヨハネの弟子たちがいたことが記されています。パウロは、そのヨハネが、予告していたメシア、救い主こそ、イエスであると語るのです。神は、主イエスの出現に先立ち、洗礼者ヨハネをお遣わしになりました。そして今、神はパウロをピシディア州のアンティオキアにお遣わしになり、イエスこそ、神の約束を実現する救い主であると告げのです。そして今朝、神はこの礼拝に集う私たちにも、イエスこそ、神の約束を実現する救い主であると仰せになるのです。

 かつて神はアブラハムに、「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」と約束なさいました。神はすべての人を祝福するために、イエス・キリストを遣わしてくださったのです。イエス・キリストこそ、すべての人の主であられます。イエス・キリストを信じるとき、私たちも神の祝福にあずかる主の民として生きることができるのです。

 

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