魔術師との戦い 2007年7月08日(日曜 朝の礼拝)

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魔術師との戦い

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 13章4節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:4 聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、
13:5 サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。
13:6 島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。
13:7 この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。
13:8 魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。
13:9 パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、
13:10 言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。
13:11 今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。
13:12 総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。使徒言行録 13章4節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、御一緒に、使徒言行録13章4節から12節を中心にして御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 4節から5節をお読みします。

 聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下さり、そこからキプロス島に向けて船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。

 私たちは、前回、アンティオキア教会から、聖霊の召しと教会の祈りによってバルナバとサウロが出発した、その様子を学びました。それは、聖霊のお告げにありましたように、主イエスが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるためであったのです。そもそも、かつて迫害者であったサウロが栄光の主イエスにまみえ使徒とされたのは、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにイエスの名を伝えるためでありました。二人は、その働きのために主の恵みにゆだねられ出発したのであります。今朝の御言葉の4節にも「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは」と記されています。13章、14章に渡って、いわゆる第一回宣教旅行について記されておりますが、それは人間の企てと言うよりも、聖霊の企て、主なる神のご計画であったということです。バルナバとサウロが向かったところ、それはキプロス島でありました。パウロの宣教旅行については、聖書の巻末に聖書地図がありますので開いてみたいと思います。「7 パウロの宣教旅行1」という所です。この地図を見ますと、バルナバとサウロが歩んだ道筋というものがよく分かります。バルナバとサウロは、アンティオキアから港町セレウキアに下り、そこからキプロス島のサラミスに出発したのです。使徒言行録に戻りましょう。新約聖書の238ページです。

 バルナバとサウロは、聖霊によって送り出され、キプロス島に向けて船出したわけでありますけども、そこは、バルナバの生まれ故郷でもありました。バルナバは、キプロス島生まれのユダヤ人であったのです(4:36)。ですから、最初の宣教地としてキプロス島は最適であったと言えます。バルナバはキプロス島の地理に詳しかったでしょうし、そこにはバルナバの親族や知人たちがいたと考えられるからです。また、「サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた」とありますように、キプロス島には昔から多くのユダヤ人が住み着いておりました(一マカバイ15:23)。

この「ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせる」という仕方は、これからの宣教旅行におきましても、パウロの基本的な方針、伝道戦略でありました。パウロがまずユダヤ人の会堂で神の言葉、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたのには、何よりイエス・キリストの福音が、神の契約の民であるイスラエルに対しての良き知らせであったからです。私たちは、パウロの書簡から、何よりもパウロは異邦人の使徒であると考えるのですが、使徒言行録に記されておりますパウロの宣教の手法、方針によれば、その土地にユダヤ人の会堂があればまずそこを訪れ、福音を語るということでありました。9章に記されているサウロについての主イエスのお言葉を読んでも「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と記されています。サウロは、異邦人だけではなく、イスラエルの子らに主イエスの名を伝えるための選びの器であったのです。また、バルナバとサウロが、ユダヤ人の諸会堂で、イエス・キリストの福音を告げ知らせたのは、イエス・キリストの出来事が、神の民イスラエルに対する神の約束の実現であったからです。2章に記されているペンテコステの説教でペトロはこう語っておりました。2章38節から39節。新約聖書の216ページです。

 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

 このペトロの説教の聴衆は「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」でありますから、すべてユダヤ人、イスラエルの民であります。ペトロはユダヤ人に対して、「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子孫にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と語っているのです。ですから、ここでの「遠くにいるすべての人」とは、「遠くにいるすべてのユダヤ人」、離散のユダヤ人のことを第一義的に指しているわけであります。もちろん、「わたしたちの神である主が招いてくださるならだれにでも」とありますように、ここに異邦人が含まれると読むことはできますけども、イエス・キリストの福音というものは、何より契約の民イスラエルにまず伝えられるべき良き知らせであったのです。バルナバとサウロが、まずユダヤ人の諸会堂で神の言葉を語ったことは、そのことを二人がちゃんと弁えていたということであります。また、ユダヤ人の会堂には、ユダヤ人だけではなく、神を畏れる人々もおりました(使徒13:16)。神を畏れる人々とは、割礼を受けてはいませんが、天地の造り主なる唯一の神を畏れる異邦人たちのことであります。ですから、ユダヤ人の会堂で神の言葉を語ることは、契約の民であるユダヤ人にまず福音を告げ知らせるだけではなく、そこに集う異邦人にも福音を告げ知らせることになったわけです。それも、その異邦人たちは、聖書、旧約聖書についての何らかの知識を持っていたわけでありますから、イエス・キリストの福音を受け入れやすいわけでありますね。バルナバとサウロが、ユダヤの諸会堂で福音を告げ知らせたことは、契約の民であるユダヤ人にまず福音を告げるという方針と、その会堂に集う神を畏れる異邦人に宣教するという目的に適った、効率的な方法でもあったわけです。このように考えますと、ユダヤ人の会堂、シナゴーグは、キリスト教会誕生の母体となったとも言えるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の238頁です。6節から8節をお読みします。 

 島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。魔術師エリマ - 彼の名前は魔術師という意味である - は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。

 当時のキプロス島は、ローマの元老院の直轄州であり、地方総督によって治められておりました。その地方総督の行政所在地が、パフォスでありました。そのパフォスで、二人は、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会います。のちに、「魔術師エリマ」と呼ばれる人物が出てきますが、これはおそらく同一人物であろうと考えられています。バルイエスとは、ユダヤ系の名前でありまして、「イエスの子」という意味です。バルとは「何々の子」という意味ですから、バルイエスは「イエスの子」「救いの子」を意味します。そして、エリマとは、魔術師という意味であると解説されておりますが、これはギリシア系の名前であったと考えられるのです。バルイエスは、魔術師とも偽預言者とも記されておりますが、これはルカの筆によるものでありまして、バルイエス自身は、自分を預言者であり、賢い者、賢者であると吹聴していたことでありましょう。ある人は、バルイエスは、地方総督お抱えの、宮廷魔術師であったと言っています。その昔、バビロンの王が、占い師や祈祷師や賢者たちを召し抱えていたように、バルイエスは、総督セルギウス・パウルスの相談役ではなかったかと考えられるのです。このようなことは、現代においてもうわさに聞くことでありまして、政治家の中には、いわゆる霊能力者と呼ばれる人たちにお伺いをたてる者がいると聞きます。また、テレビをつければ、芸能人がいわゆる霊能力者と呼ばれる人に相談し、教えを受けている様子を見ることができます。ですから、魔術師と聞きますと、いかにも古代世界のお話しであって、現代の科学の時代に生きる我々には関係がないと思われるかも知れませんけども、決してそうではないわけです。聖書が教えているように、人は誰も神のかたちに似せて造られているのであって、いつの時代においても、人は宗教的な存在であるわけです。朝のニュース番組では、毎日占いのコーナーが放映されているわけです。けれども、これは言うまでもないことでありますけども、イエス・キリストを信じる私たちが、そのような占いや魔術ということに心ひかれるということがあってはなりません。天地を創造し、御心のままにこれを保ち統べ治めておられる神様を信じながら、占いなどのたぐいを信じることがあってはならないことです。そのことは、旧約聖書にもはっきりと記されています。申命記の18章9節から15節までをお読みします。旧約聖書の309ページです。

 あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない。あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたがたは彼に聞き従わねばならない。

 あえて、新共同訳の区分を越えて、15節までをお読みしました。それは、14節と15節を続けて読むべきであると考えたからです。主なる神は、あなたがたの中に、占い師、卜者、易者、呪術師に伺いを立てる者があってはならない。そのようなことをお許しにはならないと仰せになりました。それでは、イスラエルの民は一体誰に伺いを立てればよいのか。それは、主が立てられる預言者であるということです。あなたの同胞の中から立てられるモーセのような預言者、つまりイエス・キリストにこそ、あなたがたは聞き従わねばならないと申命記は記しているのです。それゆえ、イエス・キリストを信じる者が、占い師に伺いを立てることは決してあってはならない。そして、ここに、主イエスの使徒サウロが魔術師エリマと対立せざるを得ない根本的な理由があるのです。

 使徒言行録に戻ります。新約聖書の238ページです。9節から12節をお読みします。

 パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。

 ここで、使徒言行録において、初めて「パウロ」という名が出て来ます。サウロはユダヤ系の名前で、このパウロはローマ系の名前であったと言われています。当時、このように二つの名前を持つことは珍しいことではありませんでした。そして、使徒言行録ではこの時を境として、サウロはパウロと呼ばれるようになります。それは、これからローマ・ギリシア世界において宣教するにあたり、ユダヤ系の名前よりもローマ系の名前の方が通りが良かったからだと考えられます。しかし、おそらく、サウロにとっても、このパウロという名前の方が、今の自分にふさわしい名前であると考えたに違いないのです。サウロとは、旧約聖書に出て来る、イスラエルの最初の王となったサウル王を思い起こさせる名前であります。サウロは、このサウル王と同じベニヤミン族の出身でありましたから、おそらく、このサウル王にあやかって、両親はサウロと名付けたのではないかと思います。けれども、パウロという名前は、これは「小さな者」という意味なのです。サウロとパウロ、一字の違いでありますけども、その意味するところは王様と小さな者でありますから、対極の意味を持っていたわけです。のちにパウロ自身が、コリントの信徒への手紙一の15章9節、10節でこう記しています。新約聖書の320ページです。

 わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒の中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。

 この「小さな者」こそ、パウロという名の意味するところでありました。サウル王がダビデを迫害したように、サウロは主イエスを迫害しておりました。しかし、栄光の主イエスにまみえ使徒とされたとき、自分が、小さい者、パウロであることがよく分かったのです。そして、その小さい者に、主イエスがどれほど大きな恵みを注いでくださったのかが分かったのであります。ですから、パウロは、その手紙においては、サウロという名前を一度も用いておりません。そして、使徒言行録においても、これからはサウロではなく、パウロと呼ばれるようになるのです。もしかしたら、パウロの方から、自分をサウロではなく、パウロと呼んでくれと周りの人々に願ったのではないかとさえ想像できるのです。

 少し話しが逸れましたが、今朝の御言葉に戻ります。新約聖書238ページです。

 パウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけたわけでありますが、これは、魔術師エリマが、二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとしたためでありました。ここに鋭い対立が描かれています。つまり、先程の申命記の御言葉にもありましたように、人はこの世の惑わす霊の働きである占い師や卜者、易者、呪術師に聞き従うか、まことの神が立てられた預言者、主イエスに聞き従うかのどちらかしかないのです。そこには妥協は許されないわけであります。それゆえ、パウロは魔術師をにらみつけ、激しい言葉を投げかけたのです。そしておそらく、私たちの注意を引くのは、この激しいパウロの言動が、「聖霊に満たされ」てのものであったということです。聖霊に満たされるというと、私たちは柔和とか寛容とか忍耐という人柄を思い浮かべるわけでありますが、ここでパウロを捉えましたものは、むしろ怒りであります。それは、パウロの言葉に、「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか」とありますように、主への熱心によるものでありました。ここに描かれておりますことは、福音宣教とは、真理の戦い、霊的な戦いであるということです。のちに、パウロは、エフェソの信徒への手紙6章10節から12節でこう語っております。新約聖書の359ページです

 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

 福音を宣べ伝える、そしてそれを聞いて信じる者が起こされるということは、悪の諸霊の支配下にあった者が、神の霊、聖霊の支配下に生きるようになることであります。福音宣教には、このように目に見えないところの戦い、霊的な戦いという視点が不可欠であるのです。それゆえ、パウロは、続けて13節以下でこう記すのです。

 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

 パウロは、このような神の武具こそが、霊的な戦いを勝利するために必要であると教えています。そして、何よりパウロ自身が、そのような神の武具を身に着けて、福音宣教の戦いを戦い、勝利したことを私たちは今朝の御言葉から教えられるのです。

 使徒言行録に戻ります。新約聖書の238ページです。

 聖霊に満たされたパウロは、魔術師を「悪魔の子」と呼んでおります。これは、ちょとした皮肉ですね。魔術師は、「バルイエス」「救いの子」という名前でありましたけども、パウロは、それを皮肉って、「お前は救いの子ではなくて、悪魔の子だ」と言うのです。パウロは、ここでバルイエスの正体を、聖霊によって的確に言い当てているわけです。そしてさらにパウロは、「今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」と語るのです。目が見えなくなること、これは主の御手によることでありますが、「時が来るまで」とありますように、限られた時間のことでありました。その時とは、魔術師エリマが、主イエス・キリストに聞き従うようになる時であります。「魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した」と記されておりますが、これは私たちに、かつてのサウロ、パウロの姿を思い起こさせる記述であります。おそらく、パウロ自身も、その魔術師の姿を見て、かつての自分の姿を思い起こしたのではないでしょうか。そして、かつて自分がアナニアを通して、主イエスへと導かれたように、この魔術師を、誰かが主イエスのもとへと導いてくれることを祈り願ったのではないだろうかと思わされるのです。そのときこそ魔術師は、エリマという名前を捨てて、文字通り、バルイエス、救いの子となることができるのです。このように考えますと、聖霊に満たされたパウロの怒りは、相手を滅ぼすことを目的とした怒りではかったことが分かります。聖霊に満たされたパウロの怒りは、相手を救うことを目的とする、愛を源とする怒りであったのです。

 福音が魔術に勝利したことは、この出来事を見た総督が、主の教えに非常に驚き、信仰に入ったことによく表されています。ただし、ここで誤解してはならないことは、総督が「主の教えに」非常に驚いてと記されていることです。そもそも総督が、バルナバとパウロを招いたのは、「神の言葉を聞こうとした」からでありました。神の言葉こそが、福音宣教という霊の戦いを勝利するための最大の武器なのです。現代の私たちは、誰かの目を一時的に見えなくするといった不思議な業をすることはできません。けれども、パウロとバルナバを遣わし、共に働かれる聖霊と同じ聖霊をいただいて、その導きのもとに私たちも歩んでいるのです。そして、パウロとバルナバが語った同じ神の言葉、イエス・キリストの福音を私たちは聖書を通して、礼拝を通して与えられているのです。それゆえ、私たちは、今朝の御言葉から大きな励ましを与えられ、福音宣教という霊的な戦いを立派に戦い抜いてゆきたいと願うのであります。

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