聖霊に遣わされて 2007年7月01日(日曜 朝の礼拝)
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聖霊に遣わされて
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- 村田寿和 牧師
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使徒言行録 13章1節~3節
聖書の言葉
13:1 アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。
13:2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
13:3 そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。使徒言行録 13章1節~3節
メッセージ
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今朝は、使徒言行録13章1節から12節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。
1節をお読みします。
アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。
今朝のお話の舞台は、アンティオキアへと移っております。アンティオキアは、ローマ帝国シリア州の首都であり、ローマ、アレクサンドリアに次ぐ、第三の都市でありました。人口は50万人を越え、国際色豊かな都市であったと言われています。そのアンティオキアに、はじめて異邦人を正式なメンバーとして含む教会が生まれたことを、私たちは11章19節以下で学んだのでありました。そのアンティオキアで指導的な立場にあった5人の名がここに記されています。この5人は、「預言する者や教師たち」と記されていますが、どうやらここで明確な区別はされていないようであります。第一コリント書の12章に、霊的な賜物について記されておりますけども、そこには「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、・・・」とこう区別されています。しかし、この時はまだ、それほど明確な区別はなかったのではないかと思います。言うなれば、この5人は、預言もしたし、教えもした、御言葉に仕える者たちであったと言えるのです。このリストの中で、初めに名前が挙げられているのは、バルナバであります。バルナバは、エルサレム教会から遣わされた聖霊と信仰に満ちた立派な人物でありました(11:24)。また、おそらくバルナバは、この5人の中で、最年長者であったと考えられています。それで、一番最初に名前が挙げられていると考えられるのです。また、サウロは、一番最後に名前が挙げられておりますが、これは逆にサウロが一番若かったからだと考えられています(7:58)。若かったと言っても、40代であったと思いますけども、この中では一番若かったと考えられるのです。バルナバとサウロの名に挟まれるようにして、3人の名が記されております。まず「ニゲルと呼ばれるシメオン」ですが、ニゲルとはラテン語で「黒い人」という意味だそうです。しかし、「シメオン」は歴としたユダヤ人の名前でありますので、この人は、黒人であり、ユダヤ教に改宗した人ではなかったか、と考えられているのです。次に「キレネ人ルキオ」でありますが、この人はおそらく、アンティオキアで、はじめてユダヤ人以外のギリシア語を話す人々にも福音を告げ知らせた、教会の創立者の一人ではなかったかと思います。11章20節を見ますと、「彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた」とありました。この内の一人が「キレネ人ルキオ」ではないかと考えられるのです。ちなみに、キレネは、地中海に面するアフリカ大陸の北岸に位置する町です。ですから、その前の「ニゲルと呼ばれるシメオン」も、ルキオと同じキレネ出身であったとすれば、シメオンの肌が黒かったというのも頷ずけるのではないかと思います。3人目は、「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」であります。領主ヘロデとは、洗礼者ヨハネを殺害し、主イエスを尋問したガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスのことであります。マナエンは、そのヘロデと共に、宮廷で教育を受けて育ったのです。ですから、マナエンが、地位の高い、裕福な家庭の出身であったことは明かであります。マナエンは、この地上の富よりも、主イエスに従うことを選んだ人物であったと言えるのです。サウロについてはもう説明する必要はないと思いますが、かつて教会の迫害者であり、ダマスコ途上において、栄光の主にまみえ、劇的な回心を遂げた人物でありました。このように、アンティオキア教会の指導者たちの顔ぶれは多種多様でありましたが、ここで一つ気が付くことは、この者たちが、おそらくすべてヘレニストのユダヤ人であったということです。つまり、ユダヤ以外の、外地で生まれ育ったギリシア語を母国語とするユダヤ人であったということです。バルナバは、キプロス島の出身でありましたし、「ニゲルと呼ばれるシメオン」はおそらく、アフリカ北岸のキレネの出身ではないかと考えられています。ルキオはキレネ人とありますように、キレネ出身です。マナエンについては、よく分からないのですが、王子ヘロデ・アンティパスと同じ教育を受けて育ったのですから、どちらにしてもヘレニズムの教育、ローマ、ギリシア文化の教育を受けていたと考えられます。また、サウロは、エルサレムで律法の教師ガマリエルのもとに学んでおりましたが、もともとはギリシア文化の栄えたタルソスの出身でありました。タルソスは、アテネ、アレクサンドリアに次ぐ、学問の中心地であったと言われています。サウロは、ユダヤの律法ばかりではなく、ヘレニズム文化にも精通していたわけです。このようなヘレニストのユダヤ人を指導者とするアンティオキアの教会は、ローマ・ギリシア世界に住む異邦人に福音を宣べ伝えるのに、まことにふさわしい教会であったと言えるのです。
2節から3節をお読みします。
彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
キリスト教会がユダヤ教から、良いこととして積極的に受け継いだものが3つあると言われます。それは、施しと祈りと断食でありました。マタイによる福音書の5章から7章には、山上の説教と呼ばれる主イエスの教えが記されています。そこを読むと主イエスも、施しと祈りと断食について教えておられることが分かります(マタイ6:1-16)。ここでも彼らが断食していたことが記されています。ただし、ここで「彼らが主を礼拝し、断食していると」とあり、また「彼らは断食して祈り」とありますように、断食は、それ自体を目的として行うというよりも、礼拝や祈りのためでありました。断食とは、食を断つことでありますが、それは、自分の思いを神様に向けるためのものであったのです。食を断ち、自らの貧しさを覚え、祈りへと向かうとき、そこではじめて断食は意味を持つと言えるのです。この時がまさにそうでありました。彼らは主なる神へと思いを高めるために、主の御声をよく聞き分けるために断食し、主なる神を礼拝していたのです。ある人は、「断食は神の啓示を受けるための準備である」と言っておりますが、そのような彼らに対し、聖霊はこうお告げになるのです。
「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
ここで、「聖霊が告げた」とありますが、これはおそらく、天から声が響いて来たというよりも、預言する者の口を通して告げられたのでありましょう。聖霊は、主イエスの霊でもありますから、ここでは天におられる主イエスが、「バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」と仰せになられたとも言えます。そうすると、「前もって二人に決めておいた仕事」が何を指すのかが分かってきます。9章15節によれば、サウロは、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにイエスの名を伝えるための選びの器でありました。そして、そのサウロは、バルナバの執り成しを通して、エルサレム教会の使徒たちと自由に交わることができるようになり、そして今度は、タルソスからこのアンティオキアへと連れて来られたのでありました。このようなサウロとバルナバの二人の関係は、私たち人間の目からみれば、たまたまのことであったと言えるかもしれません。けれども、神様からすれば、すべては、この日のためであったと言えるのです。キリストの福音をギリシア世界で宣べ伝えるために、サウロは使徒として召され、バルナバと出会い、アンティオキア教会の一員とされたのです。そして、それが断食をし礼拝していた彼らに示された、教会が進むべき道であったのです。先程も見ましたように、アンティオキア教会には、5人の預言する者や教師たちがおりました。その内の2人を送り出すことは、教会にとって大きな痛手であったとも言えます。けれども、聖霊のお告げを受けた彼らは、再び断食して祈り、二人の上に手を置いて、出発させたのです。ここでも断食は祈りとペアとなっています。彼らは断食し、ひたすら心を神へと向けたのです。そして、彼らは、教会を代表して出発するバルナバとサウロのために主の恵みを祈り求めたのです。これからはじまる、いわゆる第1回宣教旅行は、13章、14章に渡って記されておりますが、14章26節にこのように記されています。
そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送りだされた所である。
ここから、二人を送り出すアンティオキア教会が、神の恵みを祈り求めたことが分かります。そして、そのことは、二人の上に手を置いたことによっても、よく表されています。来週から学ぶことになります4節以下には、バルナバとサウロが具体的にどのような働きをなしたかが記されています。けれども、今朝、私たちが心に刻みたいことは、バルナバとサウロの働きは、聖霊の召しと、教会の祈りによっていつも支えられていたということです。私は、今朝の御言葉を通しまして、自分が中会(教師と各個教会の代表である長老からなる集まり)の議場において教師に任職し、按手を受けたことを思い起こします。また、この教会を会場としまして、中会の特命委員により、東部中会から教師として、この教会に派遣されたことを思い起こしました。わたしは教会に住んでいますので、いつの間にか教会のぬしのように思われてしまうわけでありますけども、そうではないわけですね。私も、聖霊の召しと教会の祈りによって遣わされた者なのです。牧師招聘委員会からいただいた招聘状を、聖霊のお告げとして受け取り、この教会に遣わされた者なのであります。それゆえ、今朝改めてお願いしたいことは、私に前もって決められていた働きのために、どうか祈っていただきたいということです。
また、これは説教でありますので、ここにいる皆さん、一人一人に当てはめて語られねばなりませんが、キリストを信じるすべて者が、サウロとバルナバに身を置き換えて、今朝の御言葉を聞くことができると思います。サウロとバルナバは、まだ、まことの神様を知らない、異邦人宣教の働きに召し出されました。これは私たち一人一人に課せられております働きと同じであります。日本人のキリスト者人口は1%ほどであると言われますが、それは逆を言えば、それだけ、福音を宣べ伝える人がたくさんいるということであります。ちょうど、ギリシア世界の異邦人に福音を宣べ伝える器として、ヘレニストのユダヤ人が用いられたように、日本で福音を宣べ伝えるために、私たちがまず主を信じる者とされているのです。そのために、日本キリスト改革派教会が立てられているのです。
また、サウロとバルナバが主の導きによって出会い、交わりの中に置かれたように、ここに集う私たちも、聖霊の召しによって、主の御用をするために、出会い、主にある交わりの中に生かれているのです。私たちは、主が前もって決めておられた働きをなすために、一つの群れとされているのであります。そうであるならば、私たち一人一人が、兄弟姉妹の祈りを必要としているのです。ことに、牧師である私はそのために召されていると言っても過言ではないと思います。そして、その祈りは礼拝の最後の「派遣と祝福」に集約されていくと言えます。「派遣と祝福」を通して、礼拝に集う一人一人が、主の恵みにゆだねられ、それぞれの生活へと送り出されるのです。そのようにして、私たち一人一人が主の祝福の器となるのです。私たち一人一人が、聖霊の召しと教会の祈りに支えられて、主の祝福の器として遣わされるのです。
最後に、ヨハネによる福音書に記されている主イエスのお言葉を読んで終わりたいと思います。ヨハネによる福音書15章16節から17節。新約聖書の199ページです。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。