神に栄光を帰せよ 2007年6月24日(日曜 朝の礼拝)
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神に栄光を帰せよ
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- 村田寿和 牧師
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使徒言行録 12章20節~25節
聖書の言葉
12:20 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。
12:21 定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、
12:22 集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。
12:23 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。
12:24 神の言葉はますます栄え、広がって行った。
12:25 バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。
使徒言行録 12章20節~25節
メッセージ
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今朝は使徒言行録12章20節から25節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。
20節をお読みします。
ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食料を得ていたからである。
今朝の御言葉には、前回に続いてヘロデ王が登場して参ります。このヘロデとは、前回もお話ししましたように、ヘロデ・アグリッパ一世のことです。ヘロデ・アグリッパ一世は、祖父のヘロデ大王と同様、パレスチナ全土を支配する、まさに王となりました。ヘロデ大王の死後、その領地は、三人の息子によって、分割統治され、三人の息子はそれぞれ領主となっていたわけでありますけども、ヘロデ・アグリッパ一世は、ローマ皇帝から王の称号をいただき、エルサレムを含むパレスチナ全土を治める王として君臨したのです。前回私たちは、そのことに伴って、エルサレム教会が迫害され、ヤコブが処刑され、ペトロは捕らえられるというお話しを学んだわけであります。 さて、今朝のお話の舞台は、エルサレムからカイサリアに移っております。カイサリアは、百人隊長コルネリウスが駐屯していた町でありますが、「小ローマ」と呼ばれるほど、ローマ風の都市でありました。そこは、皇帝礼拝の神殿、劇場、競技場、導水橋などがあったと言われます。
ヘロデ王がティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた理由は分かりませんが、そのため、ヘロデ王は、ティルスとシドンに食料を提供することを禁じていたようであります。それゆえ、ティルスとシドンの住民たちの代表団は王を訪ね、侍従ブラストに取り入って和解を願い出たのです。ティルスとシドン、これはフェニキア地方の二大都市であります。どちらも港町であり、自由都市でありました。旧約聖書の列王記上5章15節以下を見すと、ユダヤはソロモン王の時代から、ティルスに食料を提供していたことが分かります。ソロモン王は神殿建築のため、ティルスの王ヒラムに、レバノン杉や糸杉の木材を切り出すように願いました。それに対して、ヒラムはソロモンに食料を提供するように求めたのです。「こうしてヒラムはソロモンの望みどおりレバノン杉と糸杉の木材を提供し、ソロモンはヒラムにその家のための食料として、小麦二万コルと純粋のオリーブ油二十コルを提供した」のであります(列王記上5:24)。また、エゼキエル書の27章17節を見ましても、ユダとイスラエルの国が小麦、きび、蜜、油、乳香を、ティルスの物品と交換していたことが記されています。考えてみますと、約束の地カナンは「乳と蜜の流れる地」でありましたから、食物が豊かであったのはうなずけます。そうすると、おそらく、皆さんの中でおかしいなぁと感じる方がおられると思います。なぜなら、11章28節から30節には、こう記されていたからです。
その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると、霊によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた。
この続きとして、今朝の御言葉を読みますと、あれ、おかしいなと思うと思います。大飢饉が起こったのに、どうしてティルスとシドンに食料を提供することができたのだろうかと不思議に思うわけです。そして、ここからルカが、必ずしも年代順に記しているのではないことが分かるのです。現に、クラウディウス帝(在位41~54年)の時におこった大飢饉は、ユダヤ人の歴史家ヨセフスの記述によれば、46年に起こったものと考えられます。そして、ヘロデ・アンティパスが王として全パレスチナを統治したのは、41年から44年まででありました。ですから、年代順から言えば、大飢饉は、ヘロデ王の死後に起こったことになるのです。ルカはこの使徒言行録の前篇とも言えるルカによる福音書の冒頭でこう記しておりました。
そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
この言葉からも分かりますように、ルカが言う順序正しくとは、年代の順序というよりも、教育的な意図をもった順序のことであります。よって、年代において、多少前後していても私たちはルカを責めるべきではないのです。大飢饉がヘロデ王の死後であることが分かると、なぜ、バルナバとサウロが、援助の品を使徒たちではなく、長老たちに届けたのかが分かります。また、ルカは、「マルコと呼ばれるヨハネ」に言及することにより、13章からはじまる第1回宣教旅行への備えをしているのです。そして、おそらく、12章に記されているエルサレムの出来事は、このマルコから伝え聞いたことを元にして書き記したと考えられるのです。
21節から23節をお読みします。
定められた日に、ヘロデが王の服をつけて座に着き、演説をすると、集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。するとたちまち、主の天使がヘロデを打ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。
「定められた日」とは、侍従ブラストに取り入って叶えられた謁見の日、お目通りの日でありましょう。ヘロデは王の服をつけて座に着いて演説をするわけでありますが、これはおそらく、ティルスとシドンに食料を提供しようという内容の演説ではなかったかと思います。ヘロデの慈悲深さゆえに、食料を提供しようという、恩着せがましい演説ではなかったかと思います。それゆえ、集まった人々、つまりティルスとシドンの代表者たちは、ヘロデの演説を聞いて「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けたのです。このティルスとシドンのあるフェニキア地方は、これはユダヤ人からすれば、異邦人でありますから、このようなユダヤ人なら決してしない讃辞の言葉を送ったわけです。ちなみに、列王記上16章にでてくるアハブ王の后となったイザベルはシドンの王女とでありました。バアル礼拝をイスラエルの国教とし、預言者エリアを迫害したイザベルはシドンの王女であったのです。そのことを考えただけでも、ティルスとシドンが宗教的には暗い土地であったことが分かります。ヘロデの演説を聴いた人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けたのでありますが、ヘロデ王は、これらの者たちを叱りもしなければ、その言葉を神に対する冒涜の言葉として退けもしませんでした。むしろ、その人々の言葉を、心地よいものとして受け入れてしまったわけであります。これは、のちのパウロとバルナバの行動と鋭い対象となしております。14章8節以下に、パウロとバルナバがリストラを訪れたときの出来事が記されています。14章8節から15節までをお読みいたします(新約241ページ)。
リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩き出した。群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。使徒たち、すなわち、バルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んでいき、叫んでいった。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。
パウロとバルナバは、リストラの人々から、神々と呼ばれ、いけにえをささげられそうになると、服を裂いて、「わたしたちもあなたがたと同じ人間である」と叫びました。ここで、パウロとバルナバは、人々が自分たちを神格化し、礼拝の対象とすることを決して許しませんでした。それに対して、ヘロデ王はどうであったか。ヘロデはその言葉を否定するどころか、黙認してしまったのです。ヘロデ・アグリッパの急死については、ユダヤ人の歴史家ヨセフスも『ユダヤ古代史』の中で記しております。それによれば、ヘロデ王は、銀の糸だけで織られたすばらしい布地の衣装を身に着けていたため、朝日に映えて照り輝き、それを見た人々が畏敬の念を覚え、「ああ神なるお方よ」と呼びかけたと記されています。ヘロデが身に付けていたその光り輝く衣服自体が、ヘロデの驕り高ぶりというものをよく表していたのでありました。
主の天使はたちまちヘロデを打ち倒すのですが、ここで「打ち倒す」と訳されている言葉は、7節の「天使はペトロのわき腹をつついて」の「つついて」と訳されている言葉と同じであります。もとの意味では「打つ」という意味です。同じ主の天使が、ペトロを開放するために打ち、ヘロデを滅ぼすために打ったのです。ヘロデが主の天使に打ち倒された理由、それは「神に栄光を帰さなかったからである」と記されています。神に栄光を帰さなかったからである。これは大変良い翻訳だと思います。なぜなら、この言葉のうちに本来、栄光がどこにあるべきかが言い表されているからです。「きす」とは「かえす」ことでありまして、本来、すべての栄光は神を源とするものであるのです。しかし、このとき、ヘロデは栄光を神に帰すことができませんでした。そのことは、ヘロデが真実に天地を造られた主なる神を畏れる者ではなかったことを教えています。一説によると、ヘロデ自身が律法に熱心なユダヤ教徒であったといわれますけども、今朝の御言葉はそうではなかったことを教えているのです。そもそも、人を人とも思わないヘロデが、唯一の神である主を信じていたとは考えられません(ルカ18:2参照)。ヘロデは、ユダヤ人への迎合政策として、ヤコブを剣で殺し、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、ペトロを捕らえ、殺害しようとした男でありました。また、主の天使によってペトロが牢からいなくなると、番兵たちを処刑してしまう男であったのです。全ての人の命がヘロデ王の手の中にあるとさえ言えたわけです(箴言16:4,5、コヘレト8:3,4を参照)。ヘロデは怒りのゆえに、シドンとティルスに食料を提供することを止め、その住民を飢餓に追い込むこともできたわけであります。そのような意味で、ヘロデはまさに神のように振る舞っていたのです。人の命を握っている神のように自分を考えていたのであります。そのようなヘロデが、人々の「神の声だ。人間の声ではない」と叫びを否定せず、むしろそれを受け入れてしまったのは当然のことであったと言えるのです。しかし、それをお許しにならない方、裁かれるお方がおられるのであります。それは、唯一の真の神、主であります。私たちはこのことから、主なる神ご自身が、御自身の名に、御自身の栄光に並々ならぬ熱心を持っていることを改めて教えられます。例えば、旧約聖書のイザヤ書42章8節には、次のように記されています。
わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
また、48章11節にはこう記されています。
わたし自身のために、わたし自身のために/わたしは事を起こす。わたしの栄光が汚されてよいであろうか。わたしはそれをほかの者には与えない。
この神の熱心に呼応するかのように、詩編115篇には次のような神の民イスラエルの言葉が記されています。
わたしたちではなく、主よ/わたしたちではなく/あなたの御名こそ、栄え輝きますように/あなたの慈しみとまことによって。
全ての栄光は神を源とするものであります。そして、そのことを証しするのが、神の民とされた私たちが第一に願い求めるべきことなのです。それゆえ、私たちの生活の規範である十戒は、その第一戒で「あなたはわたしの他に何者をも神としてはならない」と命じ、祈りの規範である主の祈りは、その第一の祈願で「御名をあがめさせたまえ」と祈ることを教えているのです。
さて、「ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた」とありますが、ヨセフスによりますと、ヘロデは、心臓に刺すような痛みを覚え、しかも、その激しい痛みは全身に広がり、ついで締めつけるような痛みが胃を襲い、五日間に渡り腹部の痛みに消耗し切って死んだと記されています。しかし、ルカは「蛆に食い荒らされて息絶えた」と記しました。これは、主なる神に敵対する者への裁きとしての死を表す決まった言い回しであります。生きている間に蛆が沸いたと記すことによって、その死が主なる神の裁きによるものであったとルカはここで言っているのです。この地上のことだけを考えますと、王は最高権力者であるわけでありますけども、しかし、聖書は、その王に権能をお与えになった神がおられることを教えているのです。人間の歴史において、指導者や国家そのものが神格化され、栄光化されることがしばしば起こりましたし、これからも起こる可能性があります。けれども、私たちは、今朝の御言葉を通して、自分の命を握っているように思えるほどの権力者であっても、決して神としてはならないことを覚えたいと思います。そして、人が神の栄光を奪うとき、そこに、神の厳しい裁きが待っていることを覚えたいと願います。
最後にヨハネの黙示録19章1節から10節までをお読みいたします(新約475ページ)。
その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちの流した血の復讐を、彼女になさったからである。」また、こうも言った。「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ」また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、わたしたちの神をたたえよ。」わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」
それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」
エルサレム教会を迫害し、ヤコブを殺害したヘロデの死は、このヨハネの黙示録の預言の先取りであったと言えます。主は、ヘロデを滅ぼすことによって、教会を救われたのでありました。そのようにして、神の言葉がますます栄え、広がっていくのです。イエス・キリストを通して、神を神として礼拝するところに、神は栄光を表してくださいます。その栄光を見て、私たちは力を与えられ、喜びに満たされて生きることができるのです。