異邦人のペンテコステ 2007年5月27日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

異邦人のペンテコステ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 10章44節~11章18節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:44 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。
10:45 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。
10:46 異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、
10:47 「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。
10:48 そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。
11:1 さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。
11:2 ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、
11:3 「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。
11:4 そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。
11:5 「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。
11:6 その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。
11:7 そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、
11:8 わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』
11:9 すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。
11:10 こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。
11:11 そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。
11:12 すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。
11:13 彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。
11:14 あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』
11:15 わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。
11:16 そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。
11:17 こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」
11:18 この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。使徒言行録 10章44節~11章18節

原稿のアイコンメッセージ

 今日は、教会の暦によりますと、聖霊降臨を記念するペンテコステの礼拝にあたります。そのペンテコステの礼拝にふさわしい御言葉が今朝与えられております。

 44節にこう記されています。

 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。

 ペトロがコルネリウスたちに説教をしている途中で、そのペトロの語る御言葉、神の言葉を聞いている一同の上に聖霊が降ったというのです。このことは、一体何を意味するのでしょうか。まず第一に、ペトロが説教の冒頭で語りましたように、「神は人を分け隔てなさらない」ということの確かなしるしであると言えます。ペトロは、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」と語り出しましたけども、異邦人にも聖霊がくだるということを通して、そのペトロの言葉が真実であることを神は確証なされたのです。また第二に、異邦人にも聖霊、主イエスの霊が注がれたということは、コルネリウスたちがペトロの語る言葉を受け入れ、イエス・キリストを主と信じたということであります。聖書に記されているペトロの説教の最後の言葉、43節は、「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」でありました。そのペトロの言葉を聞いて、イエスを信じた者たちが、罪赦された保証として聖霊を受けたのであります。ただ、ここで起こっていることは、ペトロがこれまで語って来た順序と少し違っております。例えば、2章に記されているペンテコステの説教でペトロはこう語っています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」ここでは、洗礼を受けたあとに、賜物として聖霊を受けると語られています。しかし、今朝の御言葉では洗礼を受ける前に、それもペトロが説教をしている途中で、その御言葉を聞いていたすべての者のうえに聖霊が降られたのです。このことは、私たちに聖霊のお働きは特定できない自由な、主権的なお働きであるということを教えています。聖霊のお働き特定できない自由なお働きであることは、私たち自身のことを考えてみればすぐに分かります。私たちが聖霊を受けたのは一体いつなのでしょうか。洗礼を受けてから聖霊が降ったのでしょうか。それとも、イエス様を信じよう決意した時でしょうか。さらには、教会に行ってみようと思った時でしょうか。このようにいつ聖霊が降ったのかを定めることが難しいように、聖霊は、自由に、また主権的にお働らきになるのです。イエス様が、仰せになったように、風は思いのままに吹くのであります。

 しかし、そもそもペトロの説教を聞いている者たち一同に聖霊が降ったことがなぜ分かったのか。45節、46節にこう記されています。

 「割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人も異言を話し、また神を賛美しているのを聞いたからである。」

 割礼を受けている信者とは、ヤッファからペトロと共に来た、ユダヤ人のキリスト者たちのことです。なぜ、彼らは驚いたのか。それは、聖霊が異邦人の上にも注がれたからです。ここで「聖霊の賜物」と記されていますが、これはむしろ「賜物としての聖霊」という意味であります。異邦人にも賜物として聖霊が注がれた。そのことが異邦人が異言を話し、異言で神を賛美し始めたことによって分かったと言うのです。聖霊が注がれるということ、これはペンテコステの日の説教でペトロが語った通り、旧約聖書のヨエル書の預言の成就でありました。「『神は言われる。/終わりの時に/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。」とヨエルは預言しました。その預言の成就として、主イエスを信じるイスラエルの民に聖霊が降ったのです。しかも、そのヨエルの預言が、神の契約と関わりのないと考えられていた異邦人の上にも実現しているのです。ヨエルは、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」とも預言しておりました。主の名を呼び求める者は皆、救われる。ここでの主は、言うまでもなく主イエス・キリストのことであります。ペトロがコルネリウスたちに告げたように、イエス・キリストこそ、すべての人の主であられるのです。その主イエスを信じるのであれば、誰でも聖霊を与えられ、主の民となることができるのです。聖霊を受けるとは、神の民となったことの保証であると言えるのです。聖霊、霊は、目に見えないものでありますから、異邦人に降ったことを現す確かなしるしが必要でありました。それが異言と呼ばれるものであります。異言とは文字通り、異なった言葉、人には理解することのできない言葉です。第一コリント書の12章では、異言は聖霊の賜物の一つとして記されています。主なる神は、異邦人が確かに聖霊を受けたことのしるしとして異言を伴わせたのでありました。異言が人には理解できない言葉であるなら、なぜペトロと一緒に来た者たちは、それが神を賛美する言葉であったと分かったのだろうと不思議に思う人もいるかも知れません。けれども、聖霊の賜物には、異言を解釈するという賜物もありますから、やはりここで異邦人が語ったのは文字通り異言であったと思います。ここが、ペンテコステの日のしるしと違う所ですね。今朝の御言葉は、説教題にも掲げましたように、「異邦人のペンテコステ」と呼ばれる個所であります。また、ペトロが11章15節で、「わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです」と言っているように、五旬祭の出来事を思い起こさせる光景でもあったわけです。けれども、五旬祭の日、聖霊が降った際、伴ったしるしは、異言ではなくて、多国語奇蹟でありました。異言は、人には理解できない言葉でありますけども、五旬祭の日、弟子たちは、様々な国の言葉で神を賛美したのであります。一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたのです。それは、教会の宣教が、全世界の民に及ぶこと、また全世界の民が主なる神を賛美するようになることの約束であり、幻でありました。ですから、異邦人であるコルネリウスたちが異言で神を賛美したということは、このペンテコステの日の約束が、今ここに実現しているとを現しているのです。神の契約と関わりのないと考えられていた異邦人、神の救いと関わりのないと考えられていた異邦人にも、神は主イエスを信じさせてくださり、聖霊を与えてくださった。そのような意味で、ペトロはここに、かつての自分たちがした経験を重ねて見て取ったのです。そのしるしは違いましても、主イエスを信じることによって、聖霊をいただいた。その一方的な神の恵みにおいては、同じであると言うことができるのです。主イエスは、弟子たちに「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供のには良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われました。この聖霊を賜る約束は、ユダヤ人だけではなく、異邦人にも与えられているのです。誰でも求めるならば、父なる神は、最も良い物、御自分の霊、聖霊を与えてくださるのです。

 コルネリウスたちが、異言で神を賛美しているのを聞いてペトロはこう言いました。「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けることを、いったいだれが妨げることができますか。」 

 ここでペトロは、「わたしたちと同様に」と言っています。ペトロは、神が聖霊を注ぐことによって、ユダヤ人と異邦人を隔てる壁を打ち壊し、まさに分け隔てなくのぞ臨んでくださることを理解しました。そして、イエス・キリストの名によって、洗礼を受けるように彼らに命じたのです。洗礼は、罪の洗い清めの象徴であり、キリスト教会への入会の儀式でもありました。ですから、ペトロは、異邦人であったコルネリウスたちを何の差別もなく、自分たちと同じ者として教会に受け入れたのです。当時のユダヤ人たちが、異邦人をある区別をもって受け入れていた、いわば二流市民として受け入れていたのに対して、キリスト教会は、異邦人をもユダヤ人と全く同じ、主の民として受け入れたのであります。そして、それは、聖霊が異邦人の上にも降るという、主なる神の御業によって引き起こされたことであったのです。どの民族であっても、主イエスを信じるならば、主にある兄弟姉妹であり、そこには何の差別もあってはならないのです。もちろん、異言は、使徒時代に限られた賜物でありますから、現在、私たちが異言で語り出すということはありません。現在も異言を語れるという人もおりますけども、それが使徒時代の異言と同じものなのかは誰も証明することはできませんので、基本的には現在、異言は止んでいると考えた方がよいと思います。もちろん、そう主張される方を否定するつもりはありませんけども、基本的には、異言は使徒時代に限られた賜物であり、現在は止んでいると考えたらよいと思います(ウ告1:1参照)。それでは、私たちに聖霊が注がれているかどうかはどうのようにして分かるのか。それは、その人が「イエス・キリストを主と信じているかどうか」であります。使徒パウロが第一コリント書の12章3節で言っているように、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」ですから、イエスを主と信じるならば、その人には聖霊が注がれていると言えるのであります。私は先程、私たちに聖霊がいつ降ったのか、その時を特定することは難しいと申しました。しかし、自分がどのようにして信仰告白へと導かれたかを思い起こしてみるならば、至るところに聖霊の導きとしか言いようのない体験をそれぞれがなされていることと思います。自分の信仰生活を振り返るならば、あのときにも主が共にいて導いてくださったのだなぁと思い浮かべることができると思います。自分のことを申し上げて恐縮なのですが、私がはじめて教会に行ったのは、二十歳ぐらいでありました。その時は、全然神様なんて信じられませんでした。しかし、休みながらも教会に通っておりました。礼拝に集う人々の間に身を置きながら、この人たちは、どうして神様を信じることができるのだろうと不思議に思っておりました。しかし、しばらくして、どうして他の人は神様を信じないのだろうと思うようになっていたのです。立場が逆になっていたのですね。これまでは、教会の人々を見て、どうして神を信じられるのかと不思議に思っていた者が、今度は教会に来ようとしない人々を見て、なぜ、教会に来ないのだろう。神様を信じないのだろうと不思議に思うようになっていたのです。今にして思えば、そのとき私に聖霊が働いてくださったのではないかと思うのです。

 45節に聖霊の賜物とあるように、聖霊は神様からの無償のプレゼントであります。私たちが優れているから、私たちがそれにふさわしいから、神は私たちに聖霊を与えてくださったわけではないのです。それはひとえに神の自由な恵みによる賜物なのです。神様はイエス・キリストを信じる信仰さえも、私たちに与えてくださったのです。私たちは、自分で決断して教会に来て、イエス・キリストを信じたと思うのでありますけども、実は、それも神様の導きによるものであり、神の恵みによるものなのです。人は、聖霊によって、初めてイエスを主と告白することができるのですから。そして、その神の恵みへの応答として、人は洗礼を受け、主イエスに従う生活を営むように導かれるのです。

 11章に進みますと、ペトロを除く使徒たちとユダヤにいる兄弟たちが、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にしたと記されています。また、エルサレムに上って来たペトロに、割礼を受けている者たちが「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と非難したことが記されています。ここで、まず問題とされていることは、ペトロが割礼を受けていない異邦人を訪問し、一緒に食事をしたということであります。この非難は、10章28節のペトロの言葉を思い起こすならばよく分かります。そこでペトロは「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」と語っておりました。外国人が会堂を訪れるというのは認められておりましたけども、ユダヤ人の側から、外国人を訪問したりすることは律法で禁じられていたのです。割礼を受けていない異邦人と一緒に食事をするなどもっての他と考えられていたのです。しかし、どうも彼らが本当に問いただしたかったことは、ペトロが異邦人の家を訪れたとか、数日滞在している間に食卓を共にしたということよりも、割礼を受けていない異邦人に、洗礼を授けて自分たちと同じキリスト者として受け入れたことにあったようです。ペトロを非難しましたのは、割礼を受けた者たちであったと記されています。これは、よく考えればユダヤ人の男子であれば誰でもそうであるわけですね。ユダヤ人の男子は生まれてから8日目に包皮の一部を切り取るという割礼の儀式を受けていたのです。ですから、ここで「割礼を受けている者たち」と言及されているのには、特別な意味が込められていると考えられます。口語訳聖書は、このところを意訳しまして「割礼を重んじる人たち」と訳しています。つまり彼らは、異邦人が教会に加わるには、まず割礼を受けて、それから洗礼を受けるべきであると考える者たちであったのです。この問題は、少し先の15章においても取り扱われます。15章1節、2節に、「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロとバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた」と記されているように、すでに11章において、異邦人が教会に加わるには、まず割礼を受けるべきであると考える人々がいたのです。ユダヤ人と異邦人とを明確に区別する人々がいたのであります。しかし、これは少し前のペトロの姿でもありました。ペトロも天の幻や、聖霊のお告げ、コルネリウスとの出会いを体験する前は、異邦人を汚れた者として区別していたのです。そして、それが主なる神の御心であると考えていたのであります。しかし、神はそのペトロの語る御言葉を通し、コルネリウスたちに聖霊を注ぐことによって、すべての者が今や清い者、神との交わりに生きる者とされたことを確証なされたのです。つまり、主イエスを信じるならば、何の差別もせずに、教会は受け入れねばならないことを教えられたのです。ここに、イエスを主と呼び求める者はだれでも救われる、新しい時代、恵みの時代が到来したのであります。

 ペトロは事の次第を順序正しく説明するわけですが、ここに記されていることは、これまで学んできたことであります。ですから、今朝もう一度語り直すということはいたしません。しかし、ただ一つのことにだけ触れておきたいと思います。それは、コルネリウスたちが聖霊を受け、異言で神を賛美しているのを見て、ペトロが主イエスのお言葉を思い出したということです。それは、「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける」という主の御言葉でありました。この主イエスの御言葉は、1章5節に記されています。復活された主が天に上げられる前に弟子たちに語った言葉であります。なぜ、ペトロは異邦人に聖霊が注がれる光景を見て、この主イエスのお言葉を思い出したのか。それは、「あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける」という「あなたがた」の中に、ユダヤ人である自分たちだけではなくて、異邦人をも含まれていたことに、ペトロはこのとき気づいたからであります。おそらく、ペトロは、これまで、この主のお言葉は、自分たちユダヤ人を対象とした約束であったと理解していたのでしょう。よって、ペトロにとってこの約束はすでに実現した、成就した約束であったのです。しかし、かつての自分たちのように、聖霊が異邦人の上にも注がれるのを目の当たりにして、この約束はまだ続いていることに気づいたのです。私たちがイエス・キリストを信じ、洗礼を受け、教会に連なる者となるとき、その私たちの上にも、この主イエスのお約束は実現したのであります。そして、これからも、主イエスは、私たちの教会を通して、この約束を実現し続けてくださるのです。ペトロは17節でこう語っています。「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」

 この17節は、とても大切なことを教えています。ペトロをはじめとするユダヤ人の弟子たちが、聖霊を受けたのはなぜか。それはひとえにイエス・キリストを信じることによってであったのです。割礼に象徴される律法を落ち度なく守ったから、神は自分たちに聖霊を与えて、主の民としてくださったのか。そうではない。ただイエス・キリストを信じることによってであったと言うのです。そして、それは私たちばかりではなく、異邦人においても同じことであるというのです。私たちがただイエス・キリストを信じることによって罪を赦され、聖霊をいただいたように、神は異邦人にも、同じように、ただイエス・キリストの信じることによって、罪を赦し、聖霊をお与えになったのです。ここに、後にパウロが明確に教えるところの信仰によって義とされるという信仰義認の教えを見ることができます。神がお求めになること、それは割礼を受けて、神の掟を落ち度なく守るということではありません。もしそうであるならば、誰も神の民としていただくことはできないのです。神がお求めになるのは、ただ一つ、主イエス・キリストに対する信仰であります。イエスは、私たちに代わって律法を落ち度なく守ってくださいました。それゆえ、私たちには、そのイエスを主として迎え入れることだけが求められているのです。そして、18節によれば、それすらも神の恵みなのであります。ペトロの話しを聞いて静まった人々は、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って神を賛美しました。口語訳聖書、新改訳聖書は、このところを「神は異邦人にも命に至る悔い改めを与えてくださった」と訳しています。命と悔い改めが別々のことではなくて、結びつけられて「命に至る悔い改め」と言われているのです。そして、それは神が与えてくださったというように、聖霊のお働きによる神の賜物なのです。神は自分たちユダヤ人だけではない、異邦人にも命に至る悔い改めを与えてくださった。そのことが分かったとき、割礼を受けていた弟子たちは、割礼を受けていない弟子たちの救いを本当に喜び、神をほめたたえることができたのです。今朝の御言葉で改めて教えられますこと、それは救いは徹頭徹尾神の恵みによるものだということです。そして、その神の恵みは、割礼のあるなしに関わらず、豊かに注がれるということであります。そのようにして主イエスは、「あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける」という約束を、今も実現してくださるのであります。

関連する説教を探す関連する説教を探す