すべての人の主 2007年5月20日(日曜 朝の礼拝)
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使徒言行録 10章34節~43節
聖書の言葉
10:34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。
10:35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
10:36 神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、
10:37 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。
10:38 つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。
10:39 わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、
10:40 神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。
10:41 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。
10:42 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
10:43 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」使徒言行録 10章34節~43節
メッセージ
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ペトロは、異邦人であるコルネリウスたちを前にして、こう語り出します。「神は人を分け隔てなさならいことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」
ここで、ペトロが「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」と語っているように、これまでペトロは、神が人を分け隔てなさるのかなさらないのか、よく分からなかったようです。もちろん、旧約聖書には、神は人を分け隔てなさらない。神は人を偏り見るお方ではないことが教えられています。例えば、申命記10章17節にはこう記されています。
「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」
しかし、ここで神は人を偏り見ずと言うとき、その人々とは、律法のもとにに置かれている同胞のユダヤ人のことであると理解されていたのです。神は御自分の民であるイエスラエルに連なる者を誰も偏り見られない。よって、イスラエルに属さない、異邦人にはこの神の態度は当てはならない、そう理解されていたのです。このことは、28節の「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」というペトロの言葉からも明かであります。そのような状態でしたから、ペトロは異邦人たちに福音を宣べ伝えてよいのかどうかが分からなかったのです。また、異邦人たちをキリスト教会にどのように受け入れればよいかが分からなかったのであります。しかし、そのペトロがここで、「神は人を分け隔てなさらないことがよく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と語るのです。ユダヤ人であるとか、ローマ人であるとか、神はそのようなことで人を偏り見るお方ではない。神は、人種や民族、国籍によって人を分け隔てなさるお方ではないのです。むしろ、神がご覧になるのは、その人の心であります。その人が神を畏れ正しいことを行う者であるかどうかであるのです。旧約聖書のミカ書6章8節に次のような有名な御言葉があります。「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」神は、どんな国の人であっても、正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むならば、受け入れてくださるのです。
ペトロは、このことを、天の幻を通して、また聖霊の導きによるコルネリウスとの出会いを通して、主なる神から教えられたのです。現にコルネリウスの前に天使が現れ、「あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた」と語ったのでありました。さらに天使は、コルネリウスと家族の救いのために、ヤッファにいるペトロを招くようにと命じられたのです。いわば、ペトロは神の導きによって、異邦人であるコルネリウスの前にキリストの福音を語るべく立てられているのです。ペトロ自らが望んだことというよりも、ここで貫かれているのは主なる神の御意志であります。ここでペトロは、ユダヤ人として身に付けてきた価値観を捨てて、主の御心に従っているのです。その主の御心を、ペトロは自分の心として受けいれたのであります。天の幻を示され、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と三度も拒んだペトロが、ここでは、神が清めたものを、清いものとして受け入れているのです。どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないということを、神の新たな御意志、いわば新しい律法としてペトロは受けとめ、異邦人であるコルネリウスたちにも、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたのです。
36節、37節をお読みいたします。
「神がイエス・キリストによって - この方こそ、すべての人の主です。 - 平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。」
ここで、「あなたがたはご存じでしょう」とありますように、ペトロはコルネリウスたちがイエス・キリストについてある程度の知識を持っていることを前提にしています。ですから、おそらくこの時コルネリウスは、ペトロがイエスの使徒であることを知っていたのではないかと思うのですね。それゆえ、コルネリウスは、親族や親しい友人たちを呼び集めて、ペトロの到着を待っていた。それゆえ、コルネリウスは、到着したペトロの前にひれ伏し拝んだのではないかと思います。コルネリウスがどのようにイエス・キリストについて聞いていたのか。それは分かりませんが、おそらく、ユダヤ人から伝え聞いていたのではないかと思います。コルネリウスは、神を畏れる者としてユダヤ人の会堂に出入りしていました。また、すべてのユダヤ人から評判の良い人でした。それゆえ、ユダヤ人からイエスについて聞いたことがあったのではないかと思うのです。また、8章40節を見ますと、七人の一人であったフィリポが、「すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った」と記されていますので、フィリポからイエス様について聞いていたのかも知れません。そうであれば、コルネリウスは、ペトロの来訪を本当に喜んだと思います。そもそも、使徒言行録において、異邦人に福音が公に宣べ伝えられるのは、ここが初めてであります。もちろん、フィリポがエチオピア人の宦官に、福音を告げ知らせ、洗礼を授けたことはありましたが、それはどちらかというと個人的な、求道者クラスのようなものでありました。しかし、ここではユダヤ人と異邦人からなる礼拝がささげられ、使徒であるペトロによって、説教が語られているのです。キリスト教会において、異邦人をどのように取り扱い、位置づけるのか。これは真に大きな問題でありました。ユダヤ教の会堂、シナゴーグにおいては、もうはっきりしておりまして、異邦人であっても、天地を造られた唯一の神を畏れ、聖書の教えに同調する者たちを神を畏れる人々と呼び、ある区別をもって受け入れていたのです。いつかも申しましたように、割礼を受けるということは、すべての律法の軛を負い、ユダヤ人になるということでもありましたから、そこにはユダヤ人であるかないかの明確な区別があったのです。このことは、エルサレム神殿のことを考えればすぐ分かります。神殿の一番外側、神が臨在されると信じられていた至聖所から一番遠い所が、異邦人の庭と呼ばれておりました。異邦人はそこを越えて神殿に近づくことは決して許されていなかったのです。もし、それを破るならば、誰でも死刑に処せられると警告されていたのです。このようにユダヤ教、当時のイスラエルの宗教において、ユダヤ人と異邦人との明確な区別が存在していたのです。それでは、生まれたばかりのキリスト教会はどうであったか。それは、この10章に至るまではっきりしていなかったのです。使徒たちが宣教の対象としていたのは、依然としてユダヤ人だけでありまして、おそらく異邦人には積極的に福音を語っていなかったのです。ペトロがリダを訪れヤッファに滞在したことを学びましたが、この時もおそらく、ペトロが福音を告げ知らせたのは、リダとヤッファに住むユダヤ人に対してであったと思います。しかし、このことはよく考えてみるとおかしなことですよね。ペトロは、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」とまで語りながら、異邦人に宣教することをためらっていたのですから。そもそも異邦人と交際できない、訪問できない、食卓も共にできないでは、異邦人に福音を宣べ伝えることは土台無理なことではないかと思います。しかも、それが神の掟である律法によって定められていたというのですから、やはりペトロにとって、頭を悩ませる難しい問題であったと思うのです。そのペトロに、主なる神は、キリスト教会に異邦人を分け隔てせず受け入れなさいと仰せになるのです。その主の御心が示されたのが、10章に記されているコルネリウスの物語なのであります。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる。これが、ペトロに示された教会が取るべき姿勢であったのです。そして、それは神が遣わされたイエス・キリストが、すべての人の主であるという厳粛な事実に基づいているのです。このところの繋がりは少し分かりづらいかも知れません。神を畏れて正しいことを行う人は神に受け入れられるならば、わざわざ神はイエス・キリストを遣わす必要はなかったのではないかと考えてしまうのです。けれども、事実は逆であります。神は、どんな国の人でも御自分を畏れ正しいことを行う人を受け入れるというその御心を実現するために、すべての人の主としてイエス・キリストをイスラエルの民に遣わされたのでありました。すべての人を清い者、神との交わりに生きる者とするために、すべての人の主としてイエス・キリストを遣わされたのです。そして、このイエス・キリストが、今や父なる神の右に座し、すべての人の主となられたがゆえに、神は「どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない」と言われたのです。マタイによる福音書28章の言葉で言えば、復活された主イエスは、天と地の一切の権能を授けられているがゆえに、その弟子たちは、すべての民をイエスの弟子とし、彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなければならないのです。神がイエス・キリストをイスラエルの子らに遣わされた目的、それはすべての人に平和を告げ知らせるためでありました。イエス・キリストの福音を告げるとは、平和を告げることであるのです。
旧約聖書のイザヤ書52章7節から11節に次のような御言葉が記されています(旧約1148頁)。
いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と。シオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりにみる/主がシオンに帰られるのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。
この平和を告げ、救いを告げ、あなたの神は王となられたと告げる伝令の姿に私たちは地上を歩まれた主イエスのお姿を見ることができます。主イエスは、神の国の福音を宣べ伝えました。神の国とは、神の王国、神の王的支配のことであります。神が王となられたということであります。そして、真の平和とは、神が王として支配してくださるところにあるのです。神はそのような平和をすべての人にお与えになるために、イエス・キリストを聖霊と力によって油注がれた者、救い主、メシアとなされました。そして、神が共におられたがゆえに、主イエスは人々を助け、悪魔に苦しめられていた人たちをすべて癒すことがおできになったのです。そして、そのことをペトロをはじめとする使徒たちは、自分の目で目撃したのでありました。12使徒たちは、イエス様が何をなされたのか、どのような救い主であられたのかの証人として選ばれ、イエス様と生活を共にしていたのです。しかし、人々はイエス様を木にかけて殺してしまった。木にかけて殺すとは、呪って殺すということであります。神が遣わされた救い主であるイエス様を、人々は事もあろうに呪い殺してしまったのです。十字架につけて殺してしまったのです。何の罪もないイエス様が、罪人として呪いの死を死なれたこと。このことも実はイエス様が告げ知らせた平和と深い繋がりがあります。なぜなら、真の平和は、イエス・キリストの十字架の死によってもたらされたからです。主イエスについて預言しているイザヤ書53章4節から6節にこう記されております(旧約1149頁)。
彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいたのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
平和を告げ知らせたイエスは、自ら十字架にかかり、私たちの身代わりとして呪いの死を死んでくださいました。そのようにして神との平和を実現してくださったのであります。そして神は、このイエスを三日目に復活させ、あらかじめ証人として選んでおられた使徒たちの前に現してくださったのです。そのことにより、イエスを信じる者は、もはや罪に定められず、死んでも生きる、永遠の命に生かされていることを確かなこととして示されたのです。そして、復活の主イエスは使徒たちに一つの使命を与えられました。それは「御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神に定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しする」ということであります。このことは、イエスがすべての人の主であるということと一体的な関係にあります。なぜなら、聖書は、神がお造りになったこの世界と歴史には終わりがあり、その終わりは、主なる神の裁きによってもたらされると教えているからです。この世界と歴史の総決算とも言える主の日の到来を聖書は教えているのです。そして、神はその審判を主イエス・キリストに委ねられたのであります。イエス様がすべての人の主であるということは、イエス様がすべての人の審判者であるということなのです。「イエスは主である」と告白する私たちキリスト者は、その神の真実を真実として認めているに過ぎないと言えるのです。そして、イエス様が主であるということを、すべての人が認めざるを得なくなる日がくる。それが、終末における主イエス・キリストの再臨の日なのであります。そのとき、誰が主の裁きに耐え得るか。もし、自分の正しさによって、義と認めていただこうとするならば、人は誰も神の裁きに耐えることはできません。コルネリウスのように、神を畏れて正しい人であったとしても、イエス・キリストを信じないのであれば、誰も神の御前に義としていただくことはできないのです。ペトロは、今朝の御言葉の最後43節で、「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」と語っています。神がすべての人に備えてくださった救いの道、罪の赦しはただイエス・キリストを信じるという信仰によって与えられるのです。なぜ、イエス・キリストを信じるならば、罪を赦していただけるのか。神の御前に義なる者、正しい者として受け入れられるのか。それは、イエス・キリストが、私たちの身代わりとして、刑罰としての呪いの死をすでに死んでくださったからです。神の裁きは、およそ2000年前の、イエス・キリストの十字架においてすでに行われたと言えるのです。福音書を見ますと、イエス様が十字架につかれた時、全地は暗くなり、太陽は光を失っていたと記されています。それは旧約聖書のアモス書に預言されている主の日を思い起こさる記述であります。アモス書5章20節には、「主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない」と記されています。ですから、主イエスの十字架において、主の日はすでに来たとさえ言えるのです。主イエスは、十字架において全人類の罪を背負い、全人類の呪いをその身に引き受けてくださったのです。そして、すべての者に代わって、その十字架の上から「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。イエス様を主と信じるとは、このイエス様の死が自分の身代わりの死であったことを信じることです。十字架につけられて死んでしまわれるイエス様に、自分自身の姿を見ることであります。そして、それゆえに、私たちは自分が今、罪赦されていることを信じることができるのです。イエスが復活されたように、この私も復活することを信じることができるのであります。イエス・キリストを信じる者にとって、終末の主の日は、もはや恐ろしい日ではありません。裁き主であるキリストを主と信じる者にとりまして、審判の日は、罪から完全に解き放たれ、公に無罪と宣言され、神に受け入れられる日、主イエス・キリストとまみえる喜びの日なのであります(小教理問38参照)。
イエス・キリストがすべての人の審判者として神から定められたことを宣べ伝え、力強く証しすること。このことは、私たちにも命じられていることであります。けれども、私たちはこのことについて消極的ではなかったかと思います。未信者の多い日本においては、どうしても気が引けてしまうということがあると思います。けれども、私たちは救いについてだけではなく、滅びについても語らなければならないのではないかと思うのです。イエス・キリストを主と信じるということは、この地上でより良い生活を送るためだけではありません。イエス・キリストを信じないのであれば、その人は自らの罪のゆえに滅んでしまうのです。何十年かのこの地上の生涯が、永遠を決めてしまうのです。もちろん、福音は、喜びの知らせであり、救いのおとずれであります。しかし、滅びを語らずして、本当に救いについて語ったことになるのだろうかとも思うのです。イエス・キリストの十字架と復活、そこに滅びから命へのみちすじ道筋が示されています。どうか、一人でも多くの方が、イエス・キリストを信じ、罪の赦しにあずかっていただきたいと願います。私たちは主の日の礼拝ごとに語られる罪の赦しの宣言を、終末の審判の先取りとして聞くことができるのです。罪の赦しのあるところに、まことの平和があります。その神との平和に生きる者たちでありたいと願います。