神が清めたもの 2007年5月06日(日曜 朝の礼拝)
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神が清めたもの
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- 村田寿和 牧師
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使徒言行録 10章1節~16節
聖書の言葉
10:1 さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、
10:2 信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。
10:3 ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。
10:4 彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。
10:5 今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。
10:6 その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」
10:7 天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、
10:8 すべてのことを話してヤッファに送った。
10:9 翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。
10:10 彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、
10:11 天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。
10:12 その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。
10:13 そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。
10:14 しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」
10:15 すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
10:16 こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。使徒言行録 10章1節~16節
メッセージ
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私たちは、主の日ごとに、使徒言行録から御言葉の恵みにあずかっています。使徒言行録を読み解いていくうえで、鍵となる言葉があります。それは、復活した主イエスが天に上げられる前に語られた言葉、1章8節であります。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
ここに、天に上げられた主イエスが、弟子たちを通して、どのように神の御業を続けられるかの筋道が示されています。ここに、教会の発展の道筋が、主イエスによって予め語られていると言えるのです。そして、使徒言行録を記しましたルカは、その主イエスのお言葉が実現される様子をこれまで記してきたのであります。例えば、6章7節のまとめの句には、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」と記されています。元来、死者の復活を信じていなかった祭司までが、主イエスの弟子に加えられたというのです。この6章7節までで、ルカは、エルサレムにイエスの証人が起こされたことを記しました。また、9章31節のまとめの句には、「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」と記されています。この9章31節までで、ルカは、ユダヤとサマリアの全土で、主イエスの証人が起こされたことを記しているのです。ですから、9章32節から終わりの28章31節までは、地の果てに至るまで、主イエスの証人が起こされたことを記していると言えるのです。しかし、ここで問題がありました。それは、教会がまだそのようには整えられていなかったということです。主イエスは、地の果てに至るまで、主の証人となることを望んでおられるのですけども、主の弟子たちの群れである教会が、その主の御心と必ずしも同じ心を抱いていたのではなかったということです。その教会の姿勢を変革するために、主イエスは、ペトロとコルネリウスの出会いを用意なされます。そして、ペトロとコルネリウスとの出会いを通して、これまでユダヤ人を対象としていた福音宣教が、異邦人にまで及ぶようにされるのです。
コルネリウス、この人は、カイサリアに駐屯する「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長でした。のち後にペトロが、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と非難されているように、コルネリウスは、割礼を受けていない異邦人でありました。しかし、彼は、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」とありますように、神を畏れる人であったのです。神を畏れる人とは、割礼を受けて、ユダヤ教に改宗したわけではありませんけども、天地を造られた唯一の神を礼拝する者であったのです。このような神を畏れる人々は、安息日ごとに会堂で持たれる集会にも参加しておりました。13章には、「バルナバとサウロ、宣教旅行に出発する」というお話しが記されていますが、パウロがピシディア州アンティオキアの会堂で説教するとき、「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください」と呼びかけています。ディアスポラのユダヤ人の会堂には、ユダヤ教に改宗まではしませんが、ユダヤ教に同調していた神を畏れる人々も礼拝に参加していたのです。コルネリウスも、そのような神を畏れる人々の一人であったのです。ある人は、なぜ、コルネリウスは、ユダヤ教に改宗しなかったのだろうか、と問うかも知れません。しかし、これは少し考えてみますと、とても大変なことであることが分かります。割礼を受けるとは、契約のしるしを身に帯びることでありまして、すべての律法の軛を負うということでもありました。旧約聖書、特に最初の5つの書物、モーセ五書と呼ばれる書物を見ますとそこにはさまざまな掟が記されています。そこには、ペトロの幻にもありますように、食べてよい物と食べてはいけない物の区別まで記されています。そのようなすべての律法の軛を負うこと、つまり割礼を受けてユダヤ教徒となることは大変難しい、異教徒の中で生まれ育った者にとりましてほとんど不可能であったと思います。また、ユダヤ教に改宗することは、ユダヤ人になることでもありました。当時のユダヤにおいて、国家と宗教は一体的でありまして、神の掟である律法が、国家としてのイスラエルの法律でもあったわけです。ですから、ローマ人の百人隊長でもあったコルネリウスにとって、割礼を受けて、ユダヤ人になるということはやはり不可能なことであったと思います。しかし、そのコルネリウスのもとに、主なる神は天使をお遣わしになるのです。コルネリウスは、午後の3時に祈りを献げていると、天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきり見たのです。天使は、「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」と告げました。前回、私たちは、ペトロがヤッファでタビタを生き返らせるお話しを学んだわけでありますが、その9章43節に、ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在したと記されておりました。そのペトロのもとに人を送って、招きなさい、というのです。ヤッファは、カイサリアからおよそ50キロ離れたところにありました。その道のりは、出発してその翌日に到着するように、大変長いものであります。なぜ、それほど離れたヤッファに人を送って、ペトロを招かなければならないのか。ここにその理由は記されておりませんけども、11章14節を見ると「あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる」と記されています。コルネリウスは、あなたと家族の者すべてを救う言葉を聞くために、ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招くようにとのお告げを受けたのです。ここで私たちは、コルネリウスが祈っているときに天使が現れたこと。また、その天使が「あなたの祈りは聞き入れられた」と言ったことに注意を向けたいと思います。神の御前に届き、聞き入れられたと言われるコルネリウスの祈りはどのような祈りであったのか。いろいろ祈りの課題はあったと思いますけども、その一つは「自分と家族の救い」についてであったということです。コルネリウスは、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた人でありました。しかし、そのコルネリウスが、なおも祈り求めなければならなかったことは、神の救いであったのです。神の救い、それはイエス様のお言葉で言えば、神の国に入ることであり、永遠に命にあずかるということであります。この神の救いは、割礼を受けてユダヤ教に改宗すれば、得ることができるかというと実はことはそれほど単純ではありません。私たちは、子供の頃から律法を守ってきたある議員が、イエス様に「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたお話しを知っております(ルカ18:18以下)。また、イスラエルの人々が、神の支配を打ち立ててくださるメシア、救い主の出現を待ち望んでいたことも、知っております。ですから、神の救いにあずかるという願いは、ただ割礼を受けて、ユダヤ人になるだけでは解決しないわけです。しかし、このとき、主の天使は、ペトロと呼ばれるシモンが、「あなたとあなたの家族を救う言葉をあなたに話してくれる」と言うのです。それゆえ、コルネリウスは、二人の召使いと側近の部下で信仰心あつい一人の兵士とを呼び、すべてのことを話してヤッファへと送ったのです。コルネリスは一家そろって神を畏れる者でありましたから、この二人の召使いも、おそらく神を畏れる者たちであったと思います。もし、そうでなければ、コルネリウスが話したことを到底理解することはできなかったでしょう。
さて、お話しの舞台は、ヤッファへと移ります。翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がっておりました。時間は昼の十二時頃であったと記されています。これは、当時の祈りの時間でもありました。敬虔なユダヤ人は、9時、12時、3時と一日に三度祈ったと言われています。ここに、ユダヤ人としての習慣に生きるペトロの姿を見ることができます。ユダヤ人として生まれ育ったペトロは、祈りの習慣を身に付けていたのです。昼の12時ですから、ペトロは空腹を覚え何か食べたいと思いました。そのためであったかも知れませんけども、ペトロは、我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて地上に降りてくる幻を見たのです。大きな風呂敷や、大きなテーブルクロスなどを想像すると分かりやすいかも知れません。そして、その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、天から「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」という声がしたのです。しかし、ペトロは、こう言うのです。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」
先程も申しましたように、ユダヤ人として生まれ育ったペトロは、祈りの習慣というものをちゃんと身に着けておりました。そして、食べ物についても、食べてよい物と食べてはいけない物との区別をもユダヤ人として身に着けていたのです。旧約聖書のレビ記11章をみますと「清いものと汚れたものに関する規定」が記されており、そこには、食べてよい物と食べてはいけない物とが定められています。実際に開いて少し読んでみたいと思います。旧約聖書の177ページです。レビ記11章1節から8節までをお読みします。
主はモーセとアロンにこう仰せになった。
イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめは分かれていないから、汚れたものである。いわだぬき岩狸は反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。のうさぎ野兎も反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。いのししはひづめは分かれ、完全に反すうしないから、汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである。
このように地上の動物について言えば、食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものであったのです。それに当てはまらない、らくだ、いわだぬき岩狸、のうさぎ野兎、いのししは食べてはならなかったのです。ここでの「いのしし」には、豚も含まれます。ですから、ユダヤ人はいまでも豚肉を食べません。
ここで、清いとか汚れとか定められているわけですけども、その根拠はよく分かりません。無割礼のペリシテ人が豚肉を食べていたからであるとか、いろいろなことが言われるのですけども、よく分からないというのが本当のところのようです。昨年の2006年に、東京恩寵教会の牧師であられた榊原康夫先生の説教集『ルカ福音書講解』が出版されました。これは実際に東京恩寵教会の礼拝でした説教をテープ起こししたものでありますけども、その中で、この「汚れ」について大変分かりやすく説明しておりますので、少し長いですが、引用したいと思います。榊原先生は、ルカ福音書5章12節から16節までの、重い皮膚病を患った人をイエス様が触って清くされたというお話し中で、「汚れ」についてこう語っています。
この「汚れ」というものは、現代の日本人には非常に分かりにくい概念だと思うんです。ヘブライ語では「ターメイ」と言います。「あなたは汚れている。あなたはターメイである」。それに対して、「清い」。「ターホール」と言います。「ターメイ」か「ターホール」か、人間や事物にはこの二つの状態があるんですね。この区別は決して、衛生的でないとか、うつるんじゃないかとか、そういう意味のものではありません。レビ記13章12、13節まで読みますと、症状が全身に広がってしまうと、彼は「ターホール、清いのである」と宣言されるんですね。全身に及んでしまえば。
ですから、「ターメイ」「汚れ」と訳されておりますが、これは不衛生だとか、そういう意味は一切ありません。現に私たちは、ルカ福音書の2章22節で、モーセの律法に定められた「彼らの清め、ターホールになる」期間を過ぎて神殿に幼子イエスを連れて来たというところで学びましたように、産後1か月、2か月は、「ターメイ、汚れ」とされていました。そういう、子供が生まれた喜びでさえも「ターメイ」と定めているわけですから、これはまた、罪と罪の赦しという、次回学びます問題とも全然違うわけなんですね。「汚れ」とか「不浄」という日本語で訳すと、どうしても罪とか罪悪じみたものを感じますから、非常に分かりにくくなってしまうんですね。
罪というのは、本人が神様に近づこうとしない、あるいは神様に背く、こういうものが基本ですよね。それに対して「ターメイ」というのは、本人にそんな意識はないんです。けれども、神に近づいてはならないと神の方から指定された状態か身分。わたくしの考えでは、こうしか表現できないですね。神様の方から、ある人に対して、神との交わりに入ってはいけない、神や人との交わりをしてはいけない、そう禁じられる状態、あるいは事物、それを「ターメイ」と言います。
それに対して、神様との交わりを許され、人と人との交わりも許される状態、これを「ターホール、清い」と言います。ですから、同じ動物の肉でありましても、別に栄養価があるかなかとか、衛生的であるかないかとかいうこととは関係なく、ある種類の食物は「ターメイ、汚れている」と定め、ある食物は「ターホール、清い」と定められている。これは、神様との交わりというものは、こちらの気持ち以前に、まず神様が主権的に決める問題だということを教育するための一種の教育なんだと思いますね。現代人の化学的な理屈で、なぜこれとこれとは区別されるんですかと尋ねても、答えが分からない。
長く引用しましたが、よくお分かりいただけたのではないかと思います。つまり、清いとか汚れているとか、私たちはそこに倫理的な問題や衛生上の問題などを持ち込んで、その根拠を探ろうとするのですけども、汚れと訳されるターメイや、清いと訳されるターホールはそのような問題は持ち合わせていない。もし、なぜ、この動物は汚れているのかと言えば、神様がそのように定められたからであるとしか言いようがない。実際にそれが汚れているからというよりも、神様が汚れていると定められたから、あなたたちにとって汚れている、禁じられているというのです。そのことは、レビ記の記述からも実はうかがい知ることができます。例えば、4節に「らくだは反すうするが、ひづめは分かれていないから、汚れたものである。」とありますが、この「汚れたものである」の前には、元の言葉には「あなたがたには」という言葉が記されているのです。ですから、口語訳聖書、新改訳聖書は、「あなたがたには汚れたものである」とはっきりと記されています。榊原先生も仰っているように、その肉が、栄養価が高いとか、衛生的であるとかの問題ではなくて、主なる神が、これは食べてよし、これは食べてはだめ、そう決められたから、その主の民であるあなたがたには、それはターメイであり、食べてはならないと言われているのです。そして、イスラエルの民は、主なる神が定められたこの食物規定に従うことによって、日常生活においても自分たちが主の民であることを証ししたのです。食物規定は、ユダヤ人のアイデンティティーと深く結びついていたのであります。
このことを確認した上で、再び使徒言行録に戻りたいと思います。新約聖書の232ページです。
ペトロが、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」と答えると、また天から声が聞こえてきました。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
神が清めた物、こう聞くと、私たちは主イエス・キリストの十字架を思い起こします。実は、私もこの説教を準備する前、ここに主イエス・キリストの十字架の贖いの御業を見ておりました。しかし、先程学んだレビ記における汚れターメイとか、清いターホールのことを思い起こすならば、ここにイエス・キリストの十字架の贖いを見出すことは間違いであることが分かります。なぜなら、ラクダやいわだぬき岩狸やのうさぎ野兎やいのししは、他の動物よりも罪深いとは言えないからです。また、このペトロが見た幻は、28節にありますように、神がペトロにどんな人をも清くないとか、汚れていると言ってはならないことを教えるためのものでありましたが、このことからも、ここにイエス・キリストの十字架の贖いを見出すことは間違いであることが分かります。異邦人にはキリストの贖いが必要であるが、ユダヤ人には必要でないということは、聖書の教えに反するからです。ですから、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という天からの声は、これはレビ記に定められた区分が取り除かれたということであります。すべてが清い物、食べることのできるもの、神との交わりに生きるものとなったということです。神がすべてのものを清いとされたゆえに、その神の民であるペトロもそれを清くないなどと言ってはならないのです。このようにして、神はレビ記に記された食物規定を廃棄されたのであります(ウ信仰告白一九3参照)。そして、それは主イエスがすでに語っておられたことでもありました。マルコによる福音書の7章18、19節で、イエス様は弟子たちにこう仰せになりました。
イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
主イエスは、外から入るものは人を汚すことはない。人を汚すのは、人の心の中から出て来るものである、と教えることによって、どんな食べ物でも清いと宣言されたのです。口語訳聖書、新改訳聖書を見ますと「イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた」とはっきりと記されています。おそらく、ペトロもこの主イエスの言葉を聞いていたはずでありますけども、ペトロは、幻と天からの声を通して、神がすべてのものを清められたことを教えられるのです。
今朝の御言葉の最後16節には、「こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた」と記されています。三度も主イエスは、ペトロに「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」と言われたのです。このことは、それが神の確かな御旨であることを教えています。そして、同時に、ペトロがこれまで身に付けてきた価値観を変えるのがどれほど難しことであったかを教えています。ペトロは、3度も主の言葉を否定したのです。ペトロは最後まで、神が清めた物を清くない物として断ったのであります。しかし、そのペトロを、主イエスは大変深い配慮をもって導いておられます。今朝の御言葉の中心には、姿こそ見えませんけども、ペトロを忍耐強く諭し導く主イエスがおられます。そして今朝、主イエスは、すべての者は清い、すべての者が主の救いに招かれていると仰せになるのです。それゆえ、私たちは、どうせあの人はイエス様を信じないだろうと勝手に決めてしまってはならないのであります。主なる神がすべての者はきよいと仰せになるのですから、私たちは選り好みせず、どのような人にも福音を宣べ伝える義務があるのです。そのことによって、私たちは自分たちが主の民であることを大胆に証しして行きたいと願うのであります。