宣教者サウル
- 日付
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 使徒言行録 9章19節~22節
9:19 サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、
9:20 すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。
9:21 これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」
9:22 しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。使徒言行録 9章19節~22節
19節の後半から20節をお読みします。
サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神のことである」と、イエスのことを宣べ伝えた。
主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んでいたサウロが、数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいたと記されています。ここでのダマスコの弟子たち、それはダマスコに住む主の弟子たちであります。サウロが、大祭司からの手紙を求めて、縛り上げ、エルサレムへ連行しようとしていた主の弟子たちとサウロは数日の間、一緒に過ごしたのです。なぜ、このような大きな変化が起こったのでしょうか。それは、栄光の主イエスがダマスコ途上において、サウロに現れてくださったからであります。天からの光がサウロを照らし、栄光の主イエスが「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」との御声を聞かせてくださったからであります。さらには、幻で見たアナニアという人を通して、再び目が見えるようにしていただくことにより、サウロは、イエスが主であることを教えられたのです。これまで大いに反対すべきと考えていたイエスが、実は、自分が熱心に仕えていた主であると知らされたとき、サウロは、新しい使命を主イエスから与えられるのです。主イエスは、幻の中で、アナニアに、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」と仰せになりました。そして、そのことは、アナニアの口を通して、サウロに語られたことでもあったのです。以前、サウロの回心の記事は、使徒言行録に全部で3回記されていると申しましたが、22章には、ユダヤ人に対する弁明の言葉として、パウロ自身の口から語られています。その12節以下に、サウロとアナニアとのやり取りがより詳しく記されておりますので、お読みしたいと思います。新約聖書の258ページです。12節から16節をお読みします。
ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」
ここで、アナニアは、サウロがすべての人に対してイエスの証人となるために選ばれたことを告げます。それゆえ、まずサウロ自身に、イエスの名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい、と言うのです。罪を洗い清めるとは、主イエスの名によって、罪の赦していただくということです。主イエスを信じるのであれば、どのような罪も赦していただけるのです。それゆえ、アナニアは、サウロに「今、何をためらっているのです。」と活を入れるのです。サウロはこの時、一体何をためらっていたのでしょうか。ダマスコ途上において、栄光の主イエスとまみえ、主から示された幻の通り、アナニアという人を通して、再び目を見えるようにしていただいたサウロにとりまして、イエスが主であるということは、もはや疑う余地のない、明かなことでありました。ですから、イエスが主であるということについては、サウロは何もためらってはなかったと思います。それでは、サウロは何をためらっていたのか。それは、主であるイエスを迫害していた自分、主の弟子たちを迫害していた自分の身の置き場についてではなかったかと思います。自分のような者を主は赦し受け入れてくださるのだろうか。また、主の弟子たちは、このような自分を赦し受け入れてくれるだろうか。そのためらいを、彼は自分がこれまでしてきたことをよく知っていたがゆえに、ぬぐいきれなかったのではないかと思います。そのようなサウロに、主イエスは、アナニアを遣わされるのです。サウロは、かつて自分が滅ぼそうとしていたアナニアの口から、「兄弟サウル」と呼びかけられ、主イエスの名による洗礼を受けることによって、罪の赦しいただくのであります。そのようにして、主イエスはサウロのためらいを取り除く、サウロを主にある兄弟として迎え入れる道筋を備えられたのです。
この22章12節のパウロの言葉によれば、アナニアは、律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でありました。アナニアは、サウロも主イエスを信じる者となったことを主の弟子たちに証しするのに十分ふさわしい人であったのです。今朝の御言葉が、「サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいた」と語るとき、その背後にアナニアの執り成しがあったことは、明かであります。アナニアが、ダマスコの弟子たちに、サウロに起こったことを聞かせ、ダマスコの弟子たちに、兄弟サウロとして迎え入れるように説得したのです。アナニアという名前は、「主は恵み深い」という意味だそうですが、主イエスは、かつて迫害者であったサウロに、まことに恵み深い、お取り扱いをなされていることが分かるのです。
さて、今朝の御言葉に戻りましょう。新約聖書の230ページです。
数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいたサウロは、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えました。これを聞いた人々は皆、非常に驚いてこう言いました。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」
サウロが、会堂を訪れたとき、人々は、サウロが祭司長の権限によって、イエスの名を呼び求める者たちを捕らえ、連行するためにやってきたと思っておりました。しかし、そのサウロから発せられた言葉は、イエスを冒涜する言葉ではなく、「この人こそ神の子である」という言葉であったのです。エルサレムにおいて、イエスの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男、またダマスコに、イエスの弟子たちを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するために来た男が、ここでは、ユダヤ人の予想、期待を裏切って、「イエスこそ、神の子である」と宣べ伝えるのです。そのようなサウロを目の当たりにして、ユダヤ人は当然反対したと思います。あなたは何を言っているのか。今、あなたが言っていることは、これまでのあなたの主張と全く矛盾するではないか。一体あなたはどうしてしまったのか。サウロに様々な罵声、ののしりの言葉が浴びせられたことは想像に難くありません。しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせたのです。ここでの力は、言うまでもなく、上からの力、聖霊の力のことであります。さらに言えば、聖霊による確信とも言えます。人々の反対する声に圧倒され、飲み込まれてしまうことなく、サウロはイエスがメシアであると語り続けることができた。それは、サウロの心のうちに宿ってくださった聖霊が、イエスは主であるとの確信をサウロの心に、大きく響かせてくださっていたからです。このことは、私たち自身のことを考えるのであれば、よく分かるのではないかと思います。私たちが、それぞれの生活において、耳にする言葉は、主イエスを認めない言葉です。直接、そのように言わなくとも、その言葉の背後には、イエスが主であることを認めない思想、考え方が横たわっています。しかし、そのような中にあって、イエスを主と告白し続け、歩むことができるのは、これは、その人々の声に勝る、主の聖霊の証しが私たちの心に与えられているからであります。聖霊によって、与えられた「イエスは主である」との告白が、人々の不信仰の叫びに、いや、自分自身の不信仰の叫びにも打ち勝つのです。最近、私は自分の内にある罪のことを思うのですが、自分自身の信仰生活を妨げるのは、他ならない自分自身であるということを思わされるのです。自分自身の心の深いところから出てくる言葉、それがどれほど聖書の教えからかけ離れているかを思わされるのです。しかし、そこで、私は改めて思い直す。私が耳を傾けるべきは、自分の言葉ではない。主イエスの聖霊の言葉であると。私の心にいつも浮かんでくる2つの問いがあります。1つは、自分は生きている意味があるのか。2つ目は、この世界は、果たして生きる価値があるのか、ということです。この問いは、まぎれもなく私の問いなのです。その問いに私はどのようにして答えるのか。また、説き伏せるのか。それは、聖霊によっていただく主の御言葉によってであります。わたしの心の底から出てくる言葉、それは罪人の言葉、破滅へといざなう言葉です。しかし、その自分の言葉に、「だまれ、お前は間違っている」と言えるのは、聖霊が主の言葉を、自分の言葉よりも真実なものとして、心の内に響かせてくださるからなのです。そして、その主イエスの光に照らして、自分を見つめるところに本当の自分がいるのです。自分の目に映っている自分や世界が真実の姿を映し出しているのではない。ただ、主イエスの目に映る自分と世界が、真実の自分と真実の世界を映し出すのです。その事実に気づき、主イエスのまなざしで、自分と世界を見つめ直すことが、どれほど大切であるかをいつも思わされるのです。
サウロは、ますます聖霊の力を得て、イエスがメシアであることを論証したのありますが、それは「論証した」とありますように、自分の思い込みからではなく、旧約聖書の預言に基づいてでありました。この「論証した」と訳されている言葉は、「結び合わせる」とも訳すことができます。サウロは、旧約聖書に預言されていたメシア預言とイエスを結び合わせることによって、つまり、メシア預言がイエスにおいて成就したことを論証することにより、イエスがメシアであることを告げ知らせたのです。サウロに与えられた聖霊の力は、旧約聖書を、イエスを証しする書物として読み解く新しい光をもたらしたのです。サウロを照らした天からの光は、その肉体ばかりではなく、心のうちをも照らしたのです。後にパウロが言っているように、「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださったのです。サウロばかりではない。今、イエスを主と告白する私たちにも、その光が与えられているのです。深い暗闇を持つ私たちの心に、イエス・キリストの光を与えてくださったのであります。その光の中で、聖書を読むとき、私たちはいよいよイエスが主であることを確信することができるのです。そして、その確信が喜びの歌として口から溢れでるのです。
ダマスコに住んでいるユダヤ人は、どうやらサウロを説き伏せることはできなかったようであります。サウロは、誰よりも律法に熱心な者でありましたから、サウロのファリサイ派としての知識が、ここではイエスを論証するという仕方で発揮されたのだと思います。それゆえに、ダマスコに住んでいるユダヤ人たちをうろたえさせたと考えられるのです。しかし、私は、このとき、ダマスコのユダヤ人たちが、言い返すことができず、うろたえるしかなかったのは、それだけではなかったと思います。それは、何よりサウロが主イエスに出会い、救われた喜びに満ちあふれていたからではないかと思うのです。その圧倒的な喜びに溢れて、かつての自分と同じように、主イエスを敵視している人たちに、「この人こそ神の子である」と宣べ伝える、そのサウロの姿を見て、うろたえるしかなかったのではないかと思うのです。なぜ、サウロは喜びに溢れたのか。それは、イエス・キリストにおいて、サウロは神を愛なるお方として知ったからであります。敵であった自分を赦し、生かしてくださるお方として知ったからであります。その主の愛に生きる教会を通して、自分の生きる居場所を見出したからであります。イエスの弟子を滅ぼそうとするユダヤ人の会堂が、もはや自分の居場所ではない。イエスを主と信じる教会こそが、自分の居場所であるとサウロは悟ったのです。それゆえ、サウロは、あちこちの会堂でイエスのことを宣べ伝える前に、ダマスコの弟子たちと一緒に過ごす時を持ったのであります。ここで、サウロは、ただ一人で、宣教しているのではありません。主の弟子たちの群れから、遣わされてる主の選びの器として、イエスのことを宣べ伝えるのです。私たちも、そうであります。私たちは、週の始めの日、主の弟子たちの群れである教会に集う、そこで、主が立てられた説教者を通して、主の言葉を聞き、その主の言葉を携えて、祝福を受けて、この所からそれぞれの生活へと遣わされて行くのです。この礼拝の延長線上に、私たちの主イエスを伝える伝道の働きもあるのです。
願わくは、私たちが聖霊の光のうちに聖書を学び、いよいよ主イエスを信じ、救われた喜びに生きるものでありたいと思います。そのことにより、まだ、主イエスを知らない人びとに、良き証しを立てていきたいと願うのであります。