主の選びの器 2007年3月18日(日曜 朝の礼拝)

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主の選びの器

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 9章10節~19節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。
9:11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。
9:12 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」
9:13 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。
9:14 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」
9:15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。
9:16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
9:17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」
9:18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、
9:19 食事をして元気を取り戻した。使徒言行録 9章10節~19節

原稿のアイコンメッセージ

 前回は、1節から9節よりお話ししましたので、今朝は10節から19節前半よりお話しをいたします。

 10節から12節をお読みします。

 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおりに見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」

 ダマスコ途上においてサウロに現れてくださった主イエスは、ダマスコのアナニアという弟子に、幻の中で語りかけます。ダマスコにどのようにしてキリストの福音が宣べ伝えられたのかは分かりませんが、このとき、すでにダマスコにも主イエスを信じる弟子たちの群れがあったようであります。ある研究者は、マタイによる福音書によれば、イエスが復活し、弟子たちに現れたのは、ガリラヤであるから、ガリラヤに誕生した教会が、ダマスコに行き、福音を宣べ伝えたのではないかと主張しています。ともかく、ダマスコには、イエスを主と告白する弟子たちがおり、アナニアは、幻の中で主が呼びかけても、それが主の御声であることを聞き分けることができたのです。アナニアは、主の「アナニア」との呼びかけに、「主よ、ここにおります」と答えました。これは、栄光の主イエスにまみえたサウルが「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねたのと鋭い対象をなしています。サウロは、自分に呼びかけるお方が誰であるか知りませんでしたけども、アナニアは、自分に呼びかける主が、イエスであることを知っていたのです。

 主は、アナニアをサウロのもとへと遣わそうとなさいます。それは、サウロになすべきことを知らせるためでありました。栄光の主は、サウロに「起きて町に入れ。そうすれば、あなたの為すべきことが知らされる」と言われましたが、そのなすべきことを知らせるために、主は弟子であるアナニアを遣わされるのです。

 また、主は、サウロが、「今、祈っている」ことを告げています。9節に、「サウロは、三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」と記されておりましたが、目が見えないサウロが、食べも飲みもせず何をしていたのかと言えば、それは祈りであったのです。その祈りに答えるかのように、主は、サウロにも一つの幻をお示しになられたのです。それが「アナニアという人が入ってきて自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれる」という幻でありました。それゆえ、主は、アナニアに、今からサウロのもとを訪ねよ、と言われるのです。

 しかし、アナニアはこう答えます。

 「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」

 このアナニアの言葉から、ダマスコの弟子たちの間で、サウロのことが事前に知れ渡っていたことが分かります。「サウロが、エルサレムで、あなたの聖なる者たちにどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞いた」とありますから、おそらく、エルサレムから多くの弟子たちがダマスコに逃れて来たのでしょう。また、「ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」と語っていますが、これはおそらく、ダマスコのユダヤ教徒たちから、そのことを脅し文句として聞いていたのではないかと思います。主の弟子たちに反対するダマスコのユダヤ人たちが、「もうすぐ最高法院から権限を与えられたサウロという男が来る。サウロが来たら、お前たちは捕らえられ、エルサレムへ引いて行かれるのだ」とダマスコの主の弟子たちを脅していたのではないかと思うのです。それゆえ、サウロのダマスコ入りは、主の弟子たちには、恐るべき日であり、主の弟子たちに反対するユダヤ人にすれば、待ちに待ったの日であったと言えるのです。しかし、実際、ダマスコに入ったサウロの姿を見て、ユダヤ人たちは幻滅したのではないでしょうか。サウロは、目が見えなくなっており、人々に手を引いてもらわなければ歩くこともできない者となっていたからです。主の弟子たちを脅迫し、殺そうと息をはずませていた男が、全く無力な男となってしまっていたからです。サウロにダマスコに到着するまえに、栄光の主イエスが現れ、勝負をつけてしまった。サウロに現れた栄光の主イエス、それは何より勝利者としてのイエスであります。それに対して、地に倒れ、目が見えず、人々に手を引かれてダマスコに連れて行ってもらったサウロは、敗北者であると言えるのです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけられた栄光の主イエスは、ダマスコの聖なる者たちをこのようにサウロの迫害の手から守られるのです。そして、このことを一番よく理解したのは、サウロの到着に戦々恐々としていたダマスコの主の弟子たちではなかったかと思います。彼らは、サウロが、目が見えなくなり、手を引かれてダマスコに入ったと聞いたとき、おそらく、喜んだと思います。これこそ、主の助けだと主に感謝の祈りをささげたかもしれません。自分たちを殺害しよう乗り込んできたサウロが、目の見えないものとなっていた。主が報復してくださったと考えても無理のないことであります。ですから、このアナニアの言葉は、これは困惑を越えて主への抗議であるとも読むことができるのです。そのことは、アナニアがここで、「あなたの聖なる者たち」という言葉を用いていることからも伺い知ることができます。「そのサウロという男は、エルサレムで、あなたの聖なる者たちに悪事を働いた者ではありませんか。そして、ここに来たのも、御名を呼び求める全ての人を捕らえるためではありませんか。そのような、あなたの敵と言える男を、なぜ元どおりに見えるようにされるのですか。」こうアナニアは主に問うているのです。

 また、アナニアにしてみれば、サウロが再び目が見えるようになれば、自分たちを迫害するのではないかという心配もあったと思います。今は、目が見えなくなって、迫害の手は止まっているけども、また、再び目が見えるようになったら、何をしでかすか分かったものではない。そのような者の目を再び見えるようにしたら、果たしてどうなるのか」そのような心配もあったと思います。

 しかし、もしアナニアがそのようなことを心配していたならば、彼はサウロに起こった出来事が、目が見えなくなるという肉体的なことだけでなく、主を迫害する者から主に祈る者となっているという回心にあったことを見落としていると言えます。主は、「今、サウロは祈っている」と仰せになりました。サウロは誰に祈っていたのか。それは他でもない、主イエスに祈っているということです。御名を呼び求める者を捕らえるために、ダマスコに来たサウロ自身が、主の御名を呼び求める者と変えられているのであります。

 主は、アナニアの言葉を押しのけるようにして、言われます。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」。

 アナニアは、サウロのことを、御名を呼び求める人をすべて捕らえるために、祭司長たちから権限を受けた者といいましたが、主は、そうではない。わたしが権限を与えて、わたしの名を伝える者として遣わすのだ、と言われるのです。迫害の危機にさらされていたアナニアにとって、サウロが、目が見えなくなり、迫害の手が止まったことで、主の正しさは満たされたように感じたかも知れません。しかし、主の正しさは、逆らう者の足を止めるだけではなく、さらにその足を、御自分に仕える者として、御名を宣べ伝える者として進ませるのであります。迫害者であったサウロをも、主の命に生かすこと。それが、主イエスの正しさなのであります。

 そこで、アナニアはでかけて行って、ユダの家に入り、サウロの上に手をおいてこう言うのです。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」

 ここで、アナニアは、サウロを「兄弟」と呼びかけました。アナニアは、主イエスのお言葉を受け入れ、迫害者であったサウロを、兄弟サウルと呼びかけるのです。そして、自分は、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスによって遣わされたこと。そして、それは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようになるためであると告げるのです。この「聖霊でみたされるようになるため」とは具体的に言えば、主イエスの名によって洗礼を授けるためであると言えます。主イエスは、サウロを正式に主の弟子にするために、また、教会の仲間に加えるために、アナニアを遣わされたのです。

 アナニアがこう言い終わると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、元どおり見えるようになりました。ここで、「元どおり見える」と訳されている言葉は、直訳すると「再び見える」と訳すことができます。私は、「再び見えるようになった」と訳した方がよかったのではないかと思います。なぜなら、再び目が見えるようになったサウロが目にした光景は、これまで見ていたのとは、まるで違っていたと思うからです。このとき、サウロの目には、世界が新しいものとして見えていたのではないか。主イエス・キリストに結ばれ、新しく造られた者として、いわば生まれ変わった者としてこの世界を見たのではないかと思うのです。そして、サウロは、主イエスに結ばれて、新しく造られた者として、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻したのであります。ここで、「身を起こして」とありますから、おそらく、サウロは床に伏せていたのではないでしょうか。自分が熱心に仕えていると思っていた主が、実は、自分が迫害していたイエスであったという衝撃は、それほど大きなものであったと思うのです。もしかしたら、彼は、主からの幻が示されるまで、意気消沈していたのではないか、茫然自失であったのではないかと思うのです。しかし、今や、サウロは、公に主イエスの名を呼び求めて、洗礼を受けたのです。また、ここでの食事は、聖餐を含むものではなかったかと考えられています。初代教会において、聖餐は、食事の前後に、食事と一体的に行われていましたから、その可能性は大いにあると思います。そのことを考えますとき、サウロが元気を取り戻したということが、ただ久しぶりに食事をしたからというだけではなく、自分も主イエスの弟子となり、教会の一員とされたからであることが分かるのです。19節の後半に、「サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいた」とありますように、アナニアによって、洗礼を受けたサウロは、ただ一人取り残されたのではなく、ダマスコの主の弟子たちに、兄弟として迎え入れられたのでありました。そして、ここに、主がわざわざアナニアをサウロのもとに遣わされた理由があったのです。主はアナニアを通して、サウロの目を再び見えるようにし、洗礼を授けることによって、サウロを教会の交わりの中に生きる者とされたのであります。主は、そのようにして、サウロにとっても、アナニアが兄弟であることを教えられるのです。アナニアは、サウロを「兄弟サウル」と呼びましたけども、サウロにとってもアナニアは「兄弟アナニア」なのであります。また、主は、このようにしてサウロに、自分が赦されていることを具体的に教えられたのです。自分が殺害しようとしていた相手から兄弟と呼ばれ、目が見えるようにされるほどに、サウロは赦されたのであります。主イエスと出会い、主イエスを信じた者は、決して一人で生きるのではありません。主イエスと出会い、主イエスを信じた者は、主の弟子たちの群れに自分の居場所を与えられ、主にある兄弟姉妹と共に生きるようになるのです。主の日の朝に、礼拝に集い、共に罪の赦しを受ける。ここに主イエスが備えてくださった私たちの居場所があるのです。

  

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