復活されたイエス 2016年3月06日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
復活されたイエス
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 28章1節~15節
聖書の言葉
28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
28:11 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。
28:12 そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、
28:13 言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。
28:14 もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」
28:15 兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。マタイによる福音書 28章1節~15節
メッセージ
関連する説教を探す
前回、私たちはイエス様の御遺体がアリマタヤのヨセフの手によって、新しい墓に丁重に葬られたことを学びました。また、祭司長たちとファリサイ派の人々が、イエス様の墓の石に封印をし、番兵をおいたことを学びました。今朝の御言葉はその続きであります。
安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行きました。安息日とは週の最後の日である土曜日のことであります。また、週の初めの日とは、日曜日のことであります。イエス様が十字架につけられて死んで葬られたのは、準備の日である金曜日でありました。安息日である土曜日は掟に従って休まなくてはなりませんでしたから、その次の日、日曜日の朝早く、マグダラのマリアともう一人のマリア(イエスの母マリア)は、イエス様の体が納められている墓を見に行ったのです。この二人のマリアは、イエス様の十字架の死の目撃者であり、また、イエス様の体が墓に納められたことの目撃者でありました。現代の日本では、火葬にして、骨だけをお墓の中に納めますが、当時のユダヤでは、遺体をそのまま墓の中に納めました。二人のマリアは、イエス様の死を悼むために、墓を見に行ったのでありましょう。とは言っても、墓の入り口には大きな石が転がしてありましたから、墓の中を見ることはできません。おまけに、墓の石には封印がされており、その墓の前にはローマの番兵が立っていたのです。
すると、大きな地震が起こりました。大きな地震は神様の御臨在を示す現象でありますが、主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座りました。墓の入り口には大きな石が転がしてあったのですが、主の天使はその石を転がして、勝ち誇るようにその上に座ったのです。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とあります(ダニエル10:6、7:9参照)。その主の天使の姿を見て、番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになりました。神様の御前に出ること、それは人間にとって、死を予感させる恐ろしいことであるのです。天使は婦人たちにこう言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。天使は婦人たちに「恐れることはない」と言っていますが、元の言葉には、「あなたがたは」という代名詞が記されています。「あなたがたは恐れることはない」と記されているのです。「番兵たちが恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったように、あなたがたは恐れることはない」ということであります。そして、十字架につけられたイエス様を求めて墓を訪れた婦人たちに、空の墓を見せて、「あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と告げるのです。婦人たちはイエス様と少しでも近くにいたいと思って墓を訪れたのですが、その墓にイエス様の御遺体はありませんでした。墓は空っぽであったのです。それは、イエス様がかねて言われていたように、復活なさったからであるのです。「復活なさった」と訳される言葉は、元の言葉を見ますと、受動態で記されています(エゲイローの三、単、受、過)。すなわち、神様によって復活させられたということであります。かつてイエス様は、弟子たちに御自分の死と復活について三度予告されました(16:21、17:22,23、20:18,19)。婦人たちも、そのイエス様の御言葉を聞いていたようであります。しかし、婦人たちはそのイエス様の御言葉を思い起こすことはできませんでした。婦人たちは、十字架につけられて死んだイエス様が、三日目に復活されたかどうかを確かめに墓に来たわけではないのです。婦人たちが捜しているのは、十字架につけられたイエス様、死んで墓に葬られているイエス様であったのです(ルカ24:5「なぜ、生きておられる方は死者の中に捜すのか。」参照)。しかし、主の天使は、墓の中は空っぽであり、イエス様はかねて言われていたように、神様によって復活させられたと言うのです。誤解のないように申しますが、天使はイエス様を墓から出すために、入り口の石を取りのけたのではありません。そうではなくて、婦人たちに空っぽの墓を見せるために、石を取りのけたのです。では、復活されたイエス様は、どのようにして、墓から出て行かれたのでしょうか?ヨハネによる福音書の20章に、復活されたイエス様が弟子たちに現れてくださったお話が記されています。弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけておりましたが、復活されたイエス様が来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。このことから、私たちはイエス様がただ息を吹き返したのではなくて、空間に制限されない栄光の体に復活されたことが分かるのであります(ルカ24:31「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」も参照)。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の15章で、復活の体は地上の体とは異なる天上の体であると教えています(一コリント15:40参照)。十字架に死んで葬られたイエス様は、ただ息を吹き返したというのではなくて、朽ちることのない天に属する体で復活させられたのです。そして、このことも、イザヤ書53章に預言されていたことでありました。イザヤ書53章には、主の僕の苦難と死だけではなくて、その復活と栄光も預言されていたのです。イザヤ書53章11節、12節にはこう記されております。旧約の1150ページです。
彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者たちのために執り成しをしたのは/この人であった。
ここには、主の僕が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたゆえに、戦利品としておびただしい人を受けることが記されています。死んだ人がおびただしい人を受けることはできませんから、ここには主の僕が復活させられることが預言されているわけです。また、主の僕が栄光を受けることについては、52章13節にはっきりとこう記されています。
見よ、わたしの僕は栄える。はるかに上げられ、あがめられる。
このように、イザヤ書53章は、主の僕の苦難と死だけではなくて、死からの復活と栄光をも預言しているのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の59ページです。
天使は婦人たちにこのようにも語ります。7節です。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」。神様から遣わされた天使は、婦人たちを弟子たちのもとへ遣わします。婦人たちは、イエス様が死者の中から復活されたことを弟子たちに伝える者となるのです。天使は婦人たちに、「イエス様が弟子たちより先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかれる」と告げるように命じましたが、このことは、かつてイエス様が仰せになったことでもありました。主の晩餐を終えて、オリーブ山へ出かけたその時、イエス様は弟子たちにこう言われました。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。ガリラヤは、イエス様が天の国の福音を宣べ伝えられた所でありました。そのガリラヤからイエス様と弟子たちはユダヤのエルサレムへと旅をして来たわけです(19:1参照)。イエス様は復活された後、あなたがたより先にガリラヤへ行くと言われていたのです。そのことを思い起こさせるように、天使たちは婦人たちに語るべき言葉を伝えたのです。
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行きました。イエス様が死者の中から復活された。ガリラヤで再びお会いすることができる。この良き知らせを、弟子たちに伝えようと婦人たちは走って行ったのですが、思いがけないことが起こります。復活されたイエス様が行く手に立っていて、「おはよう」と言われたのです。ここで「おはよう」と訳されている元の言葉は、「喜びなさい」という言葉であります。ローマ・ギリシャ世界では、「喜びなさい」と挨拶を交わしておりました。それで、新共同訳聖書は朝の挨拶の言葉として、「おはよう」と訳したわけです。復活されたイエス様が、いつものように「おはよう」と親しく挨拶してくださったことも感慨深いことでありますが、「喜びなさい」と言われたことも覚えておいてよいのではないかと思います。死者の中から復活されたイエス様が婦人たちに語られた最初の言葉は、「喜びなさい」という言葉であったのです。それは、イエス様の復活が弟子である彼女たちの先取りとしての復活であるからです。使徒パウロは、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と記しました(一コリント15:20)。イエス様は御自分の民である私たちに先立って、その保証として復活してくださったのです。復活されたイエス様が、弟子である私たちに、「喜びなさい」と言われるのは、私たちもイエス様と同じように復活させられるからであるのです。イエス様の復活を喜ぶことは、その弟子である私たち自身の復活を喜ぶことでもあるのです。
婦人たちは近寄り、イエス様の足を抱き、その前にひれ伏しました。イエス様は触れることのできる体をもって、確かに復活されたのです。イエス様はこう言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。ここでイエス様が言われていることは、天使が告げたことと同じであります。ただ一つ違う点は、「彼の弟子たち」が「わたしの兄弟たち」と言われている点であります。イエス様は、御自分を見捨てて逃げてしまった弟子たちを、「わたしの兄弟たち」と言われるのです。また、御自分との関係を三度否定し、呪いの言葉さえ口にしたペトロをも「わたしの兄弟たち」と言われるのであります。かつてイエス様は、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、母である」と言われたことがありました(12:50)。イエス様は、御自分を見捨てた弟子たち、御自分との関係を三度否定した弟子をも、天の父の御心を行う御自分の兄弟と見なしてくださるのです。復活されたイエス様の方から、私たちに、「あなたたちは、わたしの兄弟姉妹である」と言ってくださるのです。私たちの罪と弱さをご存じであり、そのために十字架について死んでくださり、復活されたイエス様は、そのようなお方であるのです。ですから、私たちはイエス様にお会いするために、週の初めの日ごとに、教会に集うことができるのであります。復活されたイエス様から「わたしの兄弟姉妹たち」と呼んでいただき、「そこでわたしに会うことになる」との招きをいただいて、週の初めの日に、礼拝に集うのであります。そのようにして、私たちは、「十字架につけられたイエスは復活なさった」と宣べ伝えているのです。
11節以下に、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになっていた番兵のことが記されています。婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告しました。祭司長たちもローマの番兵たちの口を通して、墓が空であり、イエス様が復活されたことを聞いたわけです。しかし、彼らはイエス様をメシアとして信じませんでした。神様はイエス様を死から三日目に復活させることにより、この方こそ、約束のメシア、救い主であることを示されたわけですが、祭司長たちは信じませんでした。信じないどころか、兵士たちに多額の金を与えて、「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言うように命じるのです。イエス様の死からの復活は、神様がイスラエルに与えてくださったしるしでありました(12:39、40「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」参照)。しかし、そのヨナのしるしを祭司長たちと長老たちはなかったことにしようとするのです。「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」とありますが、マタイによる福音書が記された紀元80年頃には、「イエス様の墓が空っぽであったのは、弟子たちがその死体を盗んだからだ」というデマが広まっていたようです。このことは、空っぽの墓そのものが、必ずしも、イエス様の復活を信じさせるものではないということを教えています。そこには、弟子たちが死体を盗んだのだという解釈も成り立つということです。しかし、この解釈はやはり受け入れがたいと思います。イエス様を見捨てて逃げてしまった弟子たち、また、イエス様との関係を三度否定して呪いの言葉さえ口にした弟子が、危険を冒してまで、死体を盗みに来たとは到底考えられません。また、もし、そうであるならば、イエス様が本当は復活していないことを知っていたのは、誰よりも弟子たちであったことになります。その弟子たちが、命がけでイエス様が復活されたことを宣べ伝えるようになったとは到底考えられません。散らされた弟子たちが、ふたたび一つの群れとなり、イエス・キリストの復活を宣べ伝えるようになったのは、聖書が教えているように、神様がイエス様を栄光の体で復活させられて、弟子たちがそのイエス様とお会いしたからであるのです。私たちが、イエス様が復活されたと信じているのは、復活され、今も活きておられるイエス様が私たちと出会ってくださったからであるのです。目には見えませんけれども、御言葉と聖霊において、私たちの心に触れてくださり、人格的に出会ってくださったのであります。そして、私たちに、死からの復活という希望を与えてくださったのです。「死んだら終わりだ。どうせ、死ぬなら、なぜ生きるのか」と空しさの中にあった私たちに、死を越える命、永遠の命をイエス様は十字架と復活によって与えてくださったのであります。私たちだけではありません。イエス様は御自分を信じるすべての者たちに、恵みとして、復活の命を与えてくださるのです。