イエスはどのような救い主か 2014年12月14日(日曜 朝の礼拝)

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イエスはどのような救い主か

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 16章21節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」マタイによる福音書 16章21節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書16章21節から23節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 21節にこう記されています。

 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。

 「このときから」とありますが、「このとき」とは、「ペトロが弟子たちを代表してイエス様に『あなたはメシア、生ける神の子です』と告白したときから」ということであります。イエス様は、弟子たちが御自分に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したときから、御自分がどのようなメシア、救い主であるのかを打ち明け始められたのです。

 また、「このときから」という言葉は、4章17節に対応する言葉であります。4章17節にこう記されておりました。「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」。この御言葉に続いて、マタイ福音書は、イエス様が四人の漁師を弟子にされたお話を記しております。イエス様は、弟子たちを従えながら、ガリラヤ地方を中心に宣教をされたわけですが、それは同時に、御自分が何者であるのかをお示しになる弟子訓練の期間でもありました。イエス様は、権威ある教えと力ある業によって、御自分が何者であるのかを弟子たちにお示しになられたのです。そして、16章に至りまして、ペトロは弟子たちを代表して、イエス様に対し「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白することができたのであります。ですから、ペトロの信仰告白は、4章17節から記されていたイエス様のガリラヤ宣教の最高潮、クライマックスと言えるのであります。その最高潮、クライマックスの後で、マタイ福音書は、「このときから、イエスは」と新しい区切りを付けるのです。いわば、今朝の16章21節から第二部が始まったと言えるのであります。また、ある研究者は、16章21節は、マタイ福音書の転換点、ターニングポイントであると言っております。イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した弟子たちは、このときから、自分たちの描くメシア像の大転換を求められるのです。

 イエス様は、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると弟子たちに打ち明け始められたわけですが、ここで、「必ず何々することになっている」と訳されている言葉は、神様の御計画の必然を表す言葉であります(デイ)。イエス様は、エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することが実現すべき神の御意志であると言われたのです。少し細かいことを申しますが、「長老、祭司長、律法学者たち」はいずれも、元の言葉を見ますと複数形で記されています。また、元の言葉を見ますと、この三者は一つのまとまりとして記されています。イエス様の時代、ユダヤの国は、ローマ帝国の支配下に置かれていましたが、自治権は与えられておりました。その自治権を行使していたのが、長老たち、祭司長たち、律法学者たちの71人からなる最高法院であったのです。ですから、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され」るとは、「ユダヤの国の最高法院から多くの苦しみを受け殺される」ということであるのです。また、イエス様は、御自分が「三日目に復活することになっている」とも言われました。「復活することになっている」とありますが、元の言葉ですと受動態で記されています。ですから、イエス様は、「三日目に復活させられることになっている」と言われたのです。誰によってかは記されておりませんが、それは言うまでもなく神様によってであります。イエス様は、御自分が必ずエルサレムへ行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、神様によって三日目に復活させられることになっていることと言われたのです。ここでイエス様が言われていることは、実際に、イエス様の身に起こったことであります。そして、そのことは、イエス様にとって想定外のことではなく、むしろ、御自分が実現すべき神の御計画であったのです。イエス様は、そのことを弟子たちが後になって思い起こすことができるように、前もって、弟子たちに御自分の死と復活について予告なされたのであります。

 このイエス様の御言葉を聞いて、ペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってなりません」。ここでもペトロは弟子たちを代表するものとして振る舞っています。「いさめ始めた」とありますが、「いさめる」とは、「(おもに目上の人に対して)それは悪い事だから、やめるようにと注意する」という意味であります(『新明解国語辞典』)。イエス様が、「わたしは、必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活させられねばならない」と言われたのに対して、ペトロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と、神様によって定められたイエス様の歩みを、悪い事だからやめるようにと注意したのです。そのようなペトロに、イエス様は振り向いて言われました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。ここで、イエス様は、ペトロのことを「サタン」と呼ばれました。「サタン」とは、神の敵である悪魔のことであります。マタイ福音書は4章で、イエス様が荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたことを記しておりますが、イエス様はペトロの言葉に、サタンの誘惑と同じ響きを聞き取られたのです。すなわち、イエス様はペトロの言葉に、苦難と死を経ずして、栄光へ至る誘惑を聞き取られたのであります。それゆえ、イエス様はペトロを「サタン」と呼び、「引き下がれ」と言われたのです。ここで「引き下がれ」と訳されている言葉は、直訳すると「わたしの後ろに行け」という言葉であります。この時、ペトロはイエス様の前にいたようです。イエス様をわきへお連れしたわけですから、ペトロはイエス様の前に立っていたようであります。しかし、イエス様はそのペトロに対して、「わたしの後ろに行け」と言われたのです。これは、「弟子としての正しい位置に戻れ」ということであります。弟子とは師匠に従う者でありますが、ペトロは、師匠であるイエス様の前に立って、その歩みを指図しようとしておりました。ペトロは、イエス様を「主よ」と呼んでおりますが、神様の恵みを持ち出して、そんなことがあってはならないと、イエス様を神様が定めた道からわきへ連れだそうとしたのです。しかし、そのようなペトロを、イエス様は「サタン」と呼ばれ、「わたしの後ろに行け」と言われるのであります。そして、イエス様は、ペトロに、「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われるのです。ここで「邪魔をする者」と訳されている言葉は、「つまずき」とも訳される言葉であります。イエス様は、「あなたはわたしのつまずきである」と言われたのです。イエス様は、御自分に対して「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したシモン・バルヨナをペトロ、岩と呼ばれましたけれども、ここでのそのペトロがつまずきの岩(石)となっているのです。なぜ、イエス様は、ペトロを「サタン」と呼び、さらには「あなたはわたしの邪魔をする者」と言われたのでしょうか?それは、ペトロが、「神のことではなく、人間のことを思っている」からです。ペトロは、イエス様から「わたしは必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と聞いたとき、ペトロは人間のこと、すなわちイエス様のことを思って、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめたのです。しかし、イエス様はそうではありませんでした。イエス様は、人間のことよりも、神のことを思って歩まれているのです。すなわち、イエス様は人間としての自分の意志よりも、神様の御意志のことを思っておられるのです。イエス様は、弟子たちに、「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と言われましたが、このことは、イエス様にとってもできれば避けたいことでありました。そのことは、イエス様が十字架につけられる前夜になされたゲツセマネの祈りからも明かであります。イエス様は、ゲツセマネにおいて、「父よ、できることなる、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と三度祈られました。イエス様もできれば、最高法院によって苦しみを受けて殺されたくはなかったのです。しかし、イエス様は人間としての自分の意志よりも、神様の御意志がなることを第一として歩まれたのです。それゆえ、イエス様は最高法院によって苦しみを受けて殺されるために、さらには、神様によって復活させられるために、エルサレムへと行かれるのです。

 「神のことを思わず、人間のことを思っている」。このイエス様の御言葉は、もう少し丁寧に翻訳すると次のようになります。「あなたは神の事柄を思わず、人間の事柄を思っている」。わたしは先程、「神のこと」を「神の御意志」として、また、「人間のこと」を「人間の意志」として解釈しましたが、ここでの「神のこと」は「神の事柄」でありまして、「神が与えようとしている救い」を指すとも解釈できます。また、「人間のこと」は「人間の事柄」でありまして、「人間が求める救い」とも解釈できるのです。ペトロは、神様が与えようとしておられる救いよりも、人間が求める救いを思っていた。それゆえ、イエス様から死と復活の予告を聞いたときに、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言ったのです。ペトロを初めとする弟子たち、また当時のユダヤ人たちが思い描いていた救いは、神の民であるイスラエルが異邦人であるローマ帝国の支配から解放され、神の王国が樹立されることでありました。人々は神の救いを、地上の事柄として具体的に、考えていたわけです。しかし、イエス様は、そのような人間が求める救いよりも、神様が与えようとしておられる救いに心を向けておられるのです。神様が与えようとしておられる救い、それはあらゆる悲惨の源である罪からの救いであります。イエス様は、神様が与えようとしておられる罪からの救いを実現するために、エルサレムに行き、最高法院によって苦しみを受けて殺され、三日目に復活させられるのです。

 さて、私たちはどうでしょうか?神様が与えてくださっている救いに先ず目を向けているでしょうか?自分が求める救いを実現してくれないと言って、不平を述べていることはないでしょうか?もし、私たちが、生き生きとした信仰生活、喜びと感謝に満ちた信仰生活を送れていないとすれば、私たちが「神のことよりも、人間のことを思っている」からではないかと思わされるのです。神様がイエス・キリストにあって、私たちに何をしてくださったのか。どのような救いを与えてくださったのか。そのことにまず心を向けて、この新しい週も、主イエス・キリストの後について行きたいと願います。

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