わたしの教会を建てる 2014年12月07日(日曜 朝の礼拝)
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わたしの教会を建てる
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 16章18節~20節
聖書の言葉
16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。マタイによる福音書 16章18節~20節
メッセージ
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先程は、マタイによる福音書16章13節から20節までをお読みしましたが、前回、13節から17節までを学びましたので、今朝は、18節から20節までを学びたいと思います。
前回にお話ししたことを少し振り返っておきますと、イエス様が弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねると、シモン・ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。メシアとはヘブライ語でありますが、そのギリシャ語訳はキリストであります。メシア、キリストとは「油を注がれた者」という意味であります。その昔、イスラエルにおいて、王や祭司や預言者がその職務に就くとき、頭に油を注ぐという儀式を行ったのです。頭に油を注ぐことによって、神様の聖霊が注がれることを目に見える仕方で表したのであります。イエス様の時代、一人で王、祭司、預言者の務めを果たす究極的なメシア、救い主の出現が期待されておりました。ペトロは、イエス様をそのメシアであると告白したのです。また、それだけでなく、イエス様を生ける神の子と告白したのです。当時の人々が期待していたのは、自分たちと同じ人間のメシア、救い主でありました。しかし、ペトロは、イエス様が生ける神様と特別な親しい関係にある「生ける神の子」と言い表しのです。ここで、ペトロがどれほどの意味を込めてイエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したかは定かではありませんが、しかし、イエス様はこのペトロの信仰告白を大変喜ばれました。そして、イエス様は、自分に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したペトロにこうお答えになったのです。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ここで、イエス様は、「幸いなるかな、あなたはシモン・バルヨナよ」と言われました。イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白することができることは、イエス様から「あなたは幸いだ」と言っていただけるほどに大きな祝福であります。なぜなら、それはイエス様の父なる神の啓示によるものであるからです。父なる神様が、現してくださって初めて、人間は、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰を言い表すことができるのです。私たちが、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白することができるのは、私たちにも、父なる神がそのことを一方的な恵みによって示してくださったからであるのです。
さて、ここまでが前回お話ししたことでありますが、続く18節でイエス様はこう言われております。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」。シモン・バルヨナが、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのを受けて、イエス様は、「わたしも言っておく。あなたはペトロ」と言われます。ペトロとは、「岩」という意味であります。イエス様は、続けて、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われましたが、ここでの岩は「ペトラ」でありまして、ペトロは女性名詞であるペトラ、岩を男性名詞にしたものであるのです。ちなみに、ペトロは、他の所で「ケファ」と呼ばれていますが、これはイエス様が話されていたアラム語であります。(一コリント9:5、15:5、ガラテヤ2:9,11参照)。ですから、イエス様が話されたアラム語では、「あなたはケファ、わたしはこのケファの上に」となるわけですが、新約聖書の原文であるギリシャ語には名詞に性がありますので、「あなたはペトロ、わたしはこのペトラの上に」と記されているのです。イエス様は、御自分に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したシモン・バルヨナを「ペトロ」「岩」と呼ばれ、そのペトロの上に、わたしの教会を建てると言われたのであります。イエス様は、山上の説教の終わりに、岩の上に自分の家を建てた賢い人についてお話になりました。愚かな人が砂の上に家を建てたのに対して、賢い人は岩を土台として家を建てました。それゆえ、賢い人の家は、雨が降り、川があふれ、風が吹いても倒れることはなかったのです。イエス様は、御自分に対して「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したペトロを土台として、わたしの教会を建てると言われたのであります。ここで教会と訳されている元の言葉は、「エクレーシア」という言葉であります。エクレーシアの元々の意味は、「呼び出された者の集い」という意味であります。私たちは教会と聞きますと、すぐに建物のことを思い浮かべてしまうのですが、教会、エクレーシアとは、「呼び出された者の集い」を意味するのです。その「呼び出された者の集い」である教会を、ここでイエス様は建物にたとえておられるのです。ここでイエス様は、「わたしの教会を建てる」と言われました。他の誰でもない、わたしの教会をわたしが建てると言われたのであります。イエス様はペトロの信仰告白を受けて、「わたしはこの岩(信仰告白したペトロ)の上にわたしの教会を建てる」と決意表明をなされたのです。私たちはイエス・キリストの名によって、まさにイエス・キリストの教会として集まっているわけですが、その始まりは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白するペトロを土台として、イエス様が始めてくださったのです。キリスト教会の誕生とその成長については、使徒言行録を通して知ることができますが、その2章を見ますと、弟子たちが聖霊を与えられたこと、そして、ペトロが十一人と共に立って説教したことが記されています。その説教の中で、ペトロは、こう語っております。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。また、ペトロはこのようにも語っています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。このペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日三千人ほどが仲間に加わったのでありました。イエス様の聖霊が、ペトロの語る説教を有効に用いてくださり、その日三千人もの人々を仲間に加えてくださったのです。そのようにして、イエス様は、御自分に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したペトロの上に、御自分の教会を建ててくださったのです。そして、今も、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白する私たちを土台として、御自分の教会を建ててくださっているのです。私たちの教会は、牧師の教会でも、長老の教会でもなく、イエス・キリストの教会であるのです。そして、教会を建て上げてくださるのもイエス・キリストであるのです。そのことを、私たちは今朝の御言葉からもう一度確認したいと思います。
私たちはイエス・キリストの教会として、今このところに集まっております。私たちはイエス・キリストに呼び出された者として、今朝、このところに集っているのです。そして、それゆえに、私たち教会には「陰府の力も対抗できない」のです。「陰府」とは、死んだ人が行くところ、死者の領域のことであります。また、「力」と訳されている元の言葉は、「門」という言葉です。要塞化された町の最も堅固な場所が門であります。それゆえ、門は力をも意味するのです。陰府の力、死の力ほど強いものはありません。私たち人間は死の力に怯え、死の力を恐れて生きています。死んだら終わりだと思って生きているのです。それこそ、死者の領域である陰府に行けば、もう二度とその門を開けることはできないと考えているのです。しかし、イエス様はその陰府の力も、私たち教会に打ち勝つことはできないと言われるのであります。それはなぜでしょうか?それは教会の頭であるイエス・キリストが十字架の死から三日目に朽ちることのない栄光の体で復活されたからです。イエス様は十字架の死から復活されることにより、陰府の門を打ち破り、死の力に打ち勝たられたのであります。それゆえ、復活されたイエス・キリストを信じる私たちは、死の力に怯え、死の力を恐れてはなりません。復活し、今も活きているイエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白する私たちは、死に打ち勝つ復活の命をいただいているのです。
イエス様は、「陰府の力もこれ(教会)に対抗できない」と言われましたが、これは言い換えれば、教会は死を超えて続いていく集まりであるということです。この世には、いろいろなエクレーシア、いろいろな集会、団体があります。しかし、死の力に打ち勝ち、死んだ後も続いていくのは、イエス・キリストの教会だけであります。それゆえ、イエス様は、19節で、ペトロにこう言われるのです。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。ここで、イエス様はペトロに天の国の鍵を授けると言われておりますが、これはペトロ個人というよりも、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白する教会に対してであります。すなわち、イエス様をメシア、生ける神の子と告白する私たち教会に対して、イエス様は天の国の鍵を授けると言われてたのです。ここで、「つなぐ」とか「解く」とか言われておりますが、「つなぐ」とは「禁じること」、「解く」とは「許すこと」を意味しております。ですから、イエス様は「あなたが地上で禁じることは、天上でも禁じられる。あなたが地上で許すことは天上でも許される」と言われているのです。何を禁じられ、許されるのかと言えば、天の国、神の国に入ることであります。すなわち、教会とは天の国の出張所であり、天の国の門であるのです。天の国である天上の教会と地上の教会とはつながっているのです。ですから、地上の教会に入れられている私たちは、天上の教会に入れられていると考えてよいのです。私たちは地上でイエス・キリストの父なる神を礼拝しているように、天上においても、イエス・キリストの父なる神を礼拝することになるのです。
では、イエス様が御自分の教会に授けられた「天の国の鍵」とは何のことでしょうか?結論から申しますと、「天の国の鍵」とは、「イエス・キリストの福音」であります。そのことは、私たち自身のことを考えてみればよく分かります。私たちはキリストの教会として、呼び出され集っておりますが、どのようにして、呼び出されたのでしょうか?それは、イエス・キリストの福音を聞くことによってであります。イエス・キリストの福音を聞いて、そして信じて、キリストの教会として主の日ごとに集う者たちとされたのです。それゆえ、イエス・キリストの福音こそ、教会に授けられている天の国の鍵であるのです。先程、わたしは使徒言行録2章に記されているペンテコステのペトロの説教についてふれましたが、そこで、まさにペトロはイエス様から授けられた天の国の鍵を用いたわけです。そして、ペトロの語ったイエス・キリストの福音という天の国の鍵によって、その日、三千人もの人々が仲間に加わったのです。彼らは、地上の教会の仲間に加わったばかりでなく、天上の教会の仲間にも加えられたのであります。
キリストの教会として集まっている私たちにも、イエス・キリストの福音という天の国の鍵が授けられております。教会は、主の日の礼拝ごとに、それを用いているのです。そして、それは言うまでもなく、多くの人々に天の国に入っていただくためであるのです。イエス様はそのことを願って、私たち教会にイエス・キリストの福音をゆだねられたのであります。それゆえ、私たちは、折りがよくても悪くても、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていかなければならないのです。イエス・キリストを信じる者は、天の国に入ることができる。天の国の祝福をこの地上で味わうことができる。そのことを、私たちはキリストの教会として、身をもって証ししていきたいと願います。