異邦人を癒し、養うイエス 2014年11月16日(日曜 朝の礼拝)
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異邦人を癒し、養うイエス
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 15章29節~39節
聖書の言葉
15:29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。
15:30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
15:31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」
15:33 弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」
15:34 イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。
15:35 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、
15:36 七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
15:37 人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。
15:38 食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。
15:39 イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。マタイによる福音書 15章29節~39節
メッセージ
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前回、私たちは、イエス様がカナンの女の願いどおりに娘の病気を癒されたお話を学びました。イエス様は、カナンの女の信仰、「あなたによってもたらされる祝福はイスラエルの民を超えて異邦人にまで及ぶほど豊かなものである」との信仰に応えて、彼女の娘を癒されたのです。
さて、それに続く今朝の御言葉にも、イエス様が異邦人を癒し、養われたことが記されています。14章13節以下に、イエス様が病人を癒し、五千人以上の人を養われたお話が記されておりましたが、今朝の御言葉も内容から言えば、ほとんど同じことが記されています。しかし、大きく異なる点は、14章13節以下に出て来る群衆がイスラエルの民であったのに対して、今朝の御言葉に出て来る群衆が異邦人であるという点であります。そのことを御言葉から確認をしつつ、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
イエス様は、ティルスとシドン地方を去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれました。イエス様は、異邦人の地を去って、ユダヤ人の地に戻られたように読むことができますが、実はそうではありません。と言いますのも、マルコ福音書の並行記事を見ますと、こう記されているからです。「イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」。このような順路によれば、イエス様が行かれたガリラヤ湖のほとりとは、ガリラヤ湖の東側であり、そこはまだ異邦人の地であるのです(8:28の「ガダラ人の地方」参照)。イエス様は異邦人の住むガリラヤ湖東岸の山に登って座っておられたのです。ですから、イエス様のもとに、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来た大勢の群衆とは、神様の祝福とは関係ないと考えられていた異邦人であったのです。彼らは、神の契約とは関係のない異邦の民でありますが、イエス様なら自分たちの愛する者を癒してくださるに違いないと信じて、イエス様の足もとに病人を横たえたのです。そして、イエス様は、異邦人である彼らをも癒されたのです。そのことは、ルカ福音書で、「良きサマリア人のお話」をされたイエス様ならば当然のことかも知れません。イエス様は自分の足もとに横たえられた、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を御覧になって放っておくことはできませんでした。イエス様は、良きサマリア人として、イスラエルの民であるか、異邦人であるかに関わらず、癒してくださったのです。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美しました。ここに描かれているのは、イザヤ書35章に預言されていた光景であります。そこにはこう記されておりました。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」。群衆は、イエス様がイザヤ書の預言どおりのお方であることを見て、イスラエルの神を賛美したのです。「イスラエルの神を賛美した」とありますが、ここにも、群衆が異邦人であると考えられる一つの根拠があります。異邦人たちは、イエス様の癒しの御業を通して、イエス様を遣わされたイスラエルの神の御名をほめたたえたのです。そして、イエス様のもとに留まり続けたのであります。と言いますのも、32節にこう記されているからです。「イエスは弟子たちに呼び寄せて言われた。『群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない』」。ここで、イエス様は、群衆が「もう三日もわたしと一緒にいる」と言われております。ですから、イエス様の癒しの業を見て、イスラエルの神を賛美した群衆は帰ることなく、そのままイエス様と一緒に居続けたのです。その三日の間に、イエス様は異邦人である群衆に、御国の福音を宣べ伝えられたかも知れません。ともかく、イエス様は、弟子たちを呼び寄せて、「群衆がかわいそうだ」と言われたのです。ここで「かわいそうだ」と訳されている言葉は「腸(はらわた)がちぎれる想いがする」とも訳せる言葉で、イエス様の深い憐れみを表す言葉であります(岩波訳参照)。イエス様はユダヤ人の群衆を深く憐れまれたように、異邦人の群衆をも深く憐れまれるのです(9:36「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」参照)。そして、「もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない」と言われるのです。それに対して、弟子たちはこう言いました。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか」。私たちは、この弟子たちの言葉を聞いて不思議に思うのではないでしょうか?なぜなら、弟子たちはすでに、イエス様が五つのパンと二匹の魚で五千人以上を満腹させられた奇跡を体験していたからです。しかし、弟子たちは、その体験を忘れてしまったかのように、「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか」と言うのです。そもそも、イエス様が五千人以上に食べ物を与えたときには、弟子たちの方から、群衆の食べ物のことを言い出しておりました。14章15節を見ますと、「夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう』」とありますように、ここでは、先ず弟子たちが群衆の食べ物のことを心配しているのです。しかし、今朝の御言葉では、群衆が三日もイエス様と一緒におり、食べ物がないにも関わらず、弟子たちは群衆の食べ物について何も言い出さないのです。イエス様から「空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない」と言われても、素っ気なく、「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるパンが、どこから手に入るでしょうか」と答えるのです。なぜでしょうか?それは、弟子たちが自分たちは神の契約の民イスラエルであり、群衆は神の契約と関係のない異邦人であったからです。弟子たちは、自分たちが体験したイエス様の食べ物を与えるという奇跡に、異邦人である群衆をあずからせたくないのです。なぜなら、イエス様が食べ物を与えるという奇跡は、終末の祝福である、メシアの祝宴を前もって表すものであるからです。かつて、イエス様は、異邦人の百人隊長の信仰に感心してこう言われました。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(8:11,12)。ここで、イエス様は「天の国での宴会」について言われていますが、この「天の国の宴会」こそ、世の終わりにもたらされるメシアの祝宴であるのです。そして、イエス様が食べ物を与えられるという奇跡は、このメシアの祝宴のひな型であったのです。ですから、弟子たちは、異邦人の群衆が、イエス様の食べ物を与える奇跡にあずかることはふさわしくないと考えたのです。そのような弟子たちに、イエス様は、「パンはいくつあるか」と言われます。弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えました。そこで、イエス様は地面に座るよう群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになったのです。ここで、私たちが思い起こすべきは、主の晩餐の場面であります。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である』」と言われました(一コリント11:23)。イエス様はここでも、パンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちに与えられたのです。そして、弟子たちを通して、群衆に配られるのです。そのようにして、イエス様の祝福はイエス様に依り頼む異邦人にも及ぶのであります。そのことを弟子たちは体験として教えられるのです。救い主であるイエス様がもたらしてくださる祝福は、異邦人の群衆が皆食べて満腹し、残すほどに豊かであるのです。カナンの女は、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と答えましたが、パン屑どころではない、異邦人も主の食卓にあずかる者とされているのです。
今朝の御言葉で、イエス様は異邦人をも癒し、食べ物を与えて満腹させられました。このことはイスラエルの民である弟子たちにとって、おもしろくないことであったと思います。イエス様が神の契約の民イスラエルと、神と関わりのない異邦人とを同じように扱われたことに不満を覚えたのではないかとさえ思います。しかし、イエス様に依り頼んで多くの病人を連れて来た群衆、そして、イエス様の癒しの業を見て、イスラエルの神を賛美した群衆、さらにはお腹を空かせながらも、イエス様と三日も一緒に居続けた群衆は、果たして、本当に異邦人と言えるのでしょうか?旧約の区分から言えば、契約のしるしである割礼を受けていない彼らは異邦人であります。しかし、新約の区分から言えば、イエス様を信じ、イスラエルの神を賛美する彼らは神の民イスラエルであるのです(使徒3:22,23「モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』」参照)。それゆえ、イエス様は彼らを癒し、彼らを養われるのです。旧約の区分から言えば異邦人である彼らに、メシアとして食事をふるまわれるのです。イエス様は十字架の死から復活してから、はじめて異邦人に心を向けるようになられたのではありません。イエス様は復活される前から、異邦人を癒し、養われるメシア、救い主であるのです。そして、今も、イエス様は、私たちを癒し、養ってくださるのです。主の晩餐の礼典を通して、私たちをメシアの祝宴にあずからせくださるのであります。