何が人を汚すのか 2014年11月02日(日曜 朝の礼拝)

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何が人を汚すのか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 15章10節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:10 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
15:11 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
15:12 そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。
15:13 イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。
15:14 そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」
15:15 するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。
15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。
15:17 すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。
15:18 しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。
15:19 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。
15:20 これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」マタイによる福音書 15章10節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、1節から20までを読んでいただきましたが、前回、1節から9節までを学びましたので、今朝は10節から20節までをご一緒に学びたいと思います。

 イエス様は、前回学んだ1節から9節で、エルサレムから来たファリサイ派の人々と議論しておりましたが、10節では、群衆を呼び寄せてこう言われました。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」。ファリサイ派の人々は、2節にありますように、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」と言ってイエス様を非難しました。ここでは、パンを食べる前に手を洗うことが問題とされていますが、これは衛生面から言われているのではありません。そうではなくて、宗教的な儀式としてパンを食べる前に手を洗うべきことが言われているのです。そのファリサイ派の人々の言葉を背景として、イエス様は群衆に、「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」と言われたのです。このイエス様の御言葉については、15節以下で、ペトロの質問に答える形で教えられておりますので、後でお話したいと思います。

 イエス様が群衆を呼び寄せて、「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出るものが人を汚すのである」と言われたそのとき、弟子たちが近寄って来て、こう言いました。「ファリサイ派の人々が御言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」。ここでファリサイ派の人々が聞いてつまずいたイエス様の御言葉とは、10節の御言葉ではなく、3節から9節に記されている御言葉であります。そこで、イエス様は、ファリサイ派の人々が昔の人の言い伝えを神の掟と同じように重んじることによって、神の掟を破っていると非難いたしました。イエス様は、ファリサイ派の人々が昔の人の言い伝えのために神の言葉を無効にしていると言われ、さらには、ファリサイ派の人々を「偽善者たちよ」と呼び、イザヤ書に記されている預言はあなたたちのことだと言われたのです。このイエス様の御言葉を聞いて、ファリサイ派の人々はつまずいたのです。私たちが用いている新共同訳聖書は、「つまずいた」と翻訳していますが、新改訳聖書は、「腹を立てた」と翻訳しています。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか」。このように新改訳聖書では翻訳しています。もとの言葉(スキャンダリゾー)は「つまずく」とも「腹を立てる」とも訳すことができますが、「腹を立てる」という翻訳の方が文脈には即しているのではないかと思います。ファリサイ派の人々は、イエス様から偽善者たちと呼ばれ、神から心の遠く離れた、むなしい礼拝者呼ばわりされて、腹を立てて、イエス様の前から立ち去って行ったのです。このことは、弟子たちにとっては、気にかかることであったと思います。なぜなら、イエス様の御言葉に腹を立てたファリサイ派の人々は、都エルサレムから来た者たちであったからです。彼らはユダヤ人の議会である最高法院から遣わされた、いわば調査団であったのです。イエス様は既に、ガリラヤに住むファリサイ派の人々とは安息日のことで激しく衝突しておりました。その衝突の激しさは、ファリサイ派の人々が「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」ほどでありました(12章14節参照)。そして、今朝の御言葉でも、イエス様はエルサレムから来たファリサイ派の人々と論争し、彼らに腹を立てさせてしまうのです。それで、弟子たちは心配して、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、腹を立てたのをご存じですか」と言ったのです。それに対して、イエス様はこう言われました。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」。イエス様は、御自分の言葉に腹を立てて去って行ったファリサイ派の人々を、「わたしの天の父がお植えにならなかった木」と言われます。旧約聖書において、神の民イスラエルは、神の植えられた植物に譬えられることがあります。例えば、イザヤ書60章21節には、このように記されています。「あなたの民は皆、主に従う者となり/とこしえに地を継ぎ/わたしの植えた若木、わたしの手の業として輝きに包まれる」。ファリサイ派の人々は、神の掟を守ることに人一倍熱心な人たちでありましたから、彼らは自分たちこそが、神様に植えられた若木であると考えていたはずです。しかし、イエス様は、自分の言葉を聞いて腹を立てた彼らを、「わたしの父がお植えにならなかった木」と呼び、「そのままにしておきなさい」「放っておきなさい」(新改訳)と言われたのです。さらには、彼らを「盲人の道案内をする盲人」に譬えられるのです。ファリサイ派の人々、ことに律法学者たちは、神の律法を知っている自分たちこそ、神の律法を知らない群衆を導く案内人であると自負しておりました。彼らは自分たちこそ盲人(律法を知らない群衆)の案内人であると考えたのです。しかし、イエス様は彼らも盲人であると言われるのです。イエス様の目からすれば、ファリサイ派の人々は物事の本質を見抜くことのできない盲人であるのです。

 15節で、ペトロが、「そのたとえを説明してください」と言っておりますが、これは、14節の盲人の道案内をする盲人のたとえではなくて、11節の「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」という御言葉を指しております。「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚す」。このなぞなぞのような言葉を説明してください、とペトロはイエス様に願い出たのです。それを受けて、イエス様はこう言われました。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」。

私たちが用いている新共同訳聖書は、「腹を通って外に出される」と翻訳していますが、新改訳聖書は「かわやに捨てられる」と翻訳しています。口から入るものは、胃や腸を通って、最終的にはトイレで体の外へと排泄されるわけです。口から入るものは、人の心(思考と意志決定の座)に入ることはないゆえに、人を汚すことはないのです。ファリサイ派の人々は、洗わない手を汚れた手とし、その汚れた手でパンを食べれば、パンも汚れてしまい、その汚れたパンを食べれば、その人も汚れてしまうと考えました。しかし、イエス様は、口の中に入るものは、人の心に入ることはなく、かわやで捨てられてしまうので、人を汚すことはないと言われるのです。そして、問題なのは、口に入るものではなく、口から出て来るものであると言われるのです。ここで、イエス様が問題としていることは、私たち人間の心であります。ファリサイ派の人々が食事の前に手を洗うことを問題としたのに対して、イエス様は私たち人間の心を問題とされるのです。ファリサイ派の人々は、昔の人の言い伝えを守って、食事の前に手を洗うことによって、汚れずに神様を礼拝することができると教えておりました。しかし、それは偽りの安心であります。なぜなら、神様の御前に、私たちの心が汚れているからです。そのことは、私たちの心から出て来る、また口から出て来る言葉によって分かります。すなわち、私たちの心から、悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などが出て来るのです。イエス様は、4節で、十戒の第五戒の「父と母を敬え」を取り上げられましたが、ここでは第六戒から第九戒までが取り上げられています。神様は、「殺してはならない」と命じられましたが、私たちの心からは悪意や殺意が出てきます。また、神様は「姦淫してはならない」と命じられましたが、私たちの心からは姦淫やみだらな行いが出て来るのです。神様は「盗んではならない」と命じられましたが、私たちの心からは「盗み」が出て来るのです。神様は「偽証してはならない」と命じられましたが、私たちの心からは偽証や悪口が出て来るのです。そして、これこそが人を汚すのであります。この場合の「人」とは、その人自身とその人と関わる隣人のことを指しています。私たちの口から出てくるもの、もっと言えば、私たちの心から出て来るものが、私たち自身と隣人とを汚してしまうのです(一コリント6:18、5:11参照)。ですから、私たちは、手を洗うどころか、実は心を洗わなければならないわけです。しかし、そのようなことが可能なのでしょうか?ダビデは、詩編51編で、「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」と歌いました。私たち人間には生まれながらの罪、いわゆる原罪があるのです。今朝の御言葉で言えば、私たち人間の心は生まれながら汚れているのです。そして、この汚れを誰も自分で清めることはできないのです。では、私たちは絶望するしかないのでしょうか?そうではありません。なぜなら、このように言われるイエス・キリスト御自身が、私たちの心を汚れから清めてくださるお方であるからです。旧約聖書のエゼキエル書36章に次のような預言が記されています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」(25~27節)。この預言は、イエス・キリストを信じるならば、あなたのうえにも実現するのです。イエス・キリストを信じるならば、あなたの心は清められ、聖なる者とされるのです。

 主イエス・キリストは、ヨハネによる福音書15章3節でこう言われております。「わたしの話した言葉によって、あなたがは既に清くなっている」。イエス様の御言葉によって、弟子である私たちは既に清くなっているのです。また、使徒言行録15章8節、9節で、使徒ペトロは、こう言っています。「人の心をお見通しになる神は、私たちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした」。イエス・キリストを信じる人には、聖霊が与えられ、その心は信仰によって清められるのです。そのようにして、人は、心を御覧になる神様に受け入れていただくことができるのです。私たちが礼拝している神様は、何よりも私たちの心を御覧になるお方であられます(サムエル上16:7参照)。それゆえ、すべての人が、イエス・キリストの御言葉と聖霊によって信仰をいただき、心を清めていただかなくてはならないのです。また、イエス・キリストを信じた私たちは、心を清められた者たちとして、ふさわしい言葉を語ることが求められているのです。今朝は最後に、使徒パウロの勧告の言葉を読んで終わりたいと思います。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」(エフェソ4:29、30)。

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