神の言葉を無にするな 2014年10月26日(日曜 朝の礼拝)

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神の言葉を無にするな

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 15章1節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:1 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。
15:2 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
15:3 そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。
15:4 神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。
15:5 それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、
15:6 父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。
15:7 偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。
15:8 『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
15:9 人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」マタイによる福音書 15章1節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様がゲネサレトという土地に着き、その土地の病人を癒されたそのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエス様のもとに来てこう言いました。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」。「ファリサイ派の人々と律法学者たち」とありますが、ファリサイ派の人々とは、神の掟を守ることに熱心であった人々のことであります。また、律法学者とは、神の掟である律法の専門家でありますが、律法学者の多くは、ファリサイ派に属していました。マタイによる福音書は、これまでもイエス様とファリサイ派の人々の論争を記してきましたが、そのファリサイ派の人々はガリラヤに住むファリサイ派の人々でありました。しかし、今朝の御言葉に出て来るファリサイ派の人々は、都エルサレムから来た者たちであったのです。彼らはエルサレムから、もっと言えば、最高法院から遣わされた調査団として、イエス様のもとに来て、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」と言ったのです。ここで手を洗わないが問題となっていますが、これは衛生面から言われているのではありません。現代の私たちも、衛生面から食事の前に手を洗いますが、ここでファリサイ派の人々が手を洗わないことを問題にしたのは宗教的な意味においてであるのです。つまり、宗教的な清めの儀式として手を洗うことが問題となっているのです。この背景には、律法に、祭司が神殿の奉仕をする前に手を洗うよう定められていることがあります(出エジプト30:19参照)。神殿で奉仕する祭司に定められていた、手を洗うことを、ファリサイ派の人々は、日常の食事に当てはめたのです(出エジプト19:16参照)。また、当時のイスラエルの人々にとって、食事は現代の私たちよりも、宗教的なものと考えられておりました。食卓は、神様の恵みをいただき、神様を賛美する礼拝の場であったのです。私たちキリスト者にも、食前の祈りをして、食事をいただくという良い習慣がありますから、そのことはよくお分かりいただけると思います。ともかく、ファリサイ派の人々は、昔の人の言い伝えに従って、食事の前にも手を洗い、身を清めてから食事をしていたのです。しかし、イエス様の弟子たちは、パンを食べる前に、手を洗わなかったのです。それで、ファリサイ派の人々は、イエス様に、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破っていると非難したのであります。ファリサイ派の人々は、昔の人の言い伝えを口伝律法と呼び、記された律法と同じように重んじていたのです。それに対して、イエス様は、こうお答えになりました。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」。ファリサイ派の人々が、「あなたたちの弟子たちは昔の人の言い伝えを破っている」と非難したのに対して、イエス様は、「あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているではないか」と反論されました。そして、その具体例として、十戒の第五戒である『父母を敬え』という掟と、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』という掟を挙げられるのです(出エジプト20:12、21:17参照) 。ここで、イエス様は父と母を敬うことに、年老いた父と母を扶養することが含まれていると理解しておられます(一テモテ5:8参照)。「父と母を敬う」ということには、年老いた父と母を養うことが含まれているのです。けれども、ファリサイ派の人々は、「父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』という者は、父を敬わなくてもよい」と言っていたのです。このような自分たちの言い伝えによって、彼らは神の言葉を無効にしていたのです。ここで問題となっていることは、昔の人の言い伝えを記された律法と同じように重んじるならば、記された律法である神の言葉が無効にされる事態が生じているということであります。実際、ファリサイ派の人々は、「父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』という者は、父を敬わなくてもよい」と言って、「父と母を敬え」という神の言葉を無効にしていたのです。「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」と記されているほど、父母を重んじることが命じられているにもかかわらず、彼らは自分たちの言い伝えによって、神の言葉を無力なもの、権威のないものとしてしまっていたのです。

 このような問題は、実はキリスト教会においても存在しています。私たちは、宗教改革に端を発するプロテスタントの教会でありますが、私たちは聖書のみを信仰と生活の唯一の規準としています。私たち改革派教会にとって、聖書だけが信仰と生活の唯一の規準であり、絶対的な権威であるのです。しかし、ローマ・カトリック教会は、人間の言い伝えを聖伝と呼び、聖書と同じ権威があると教えております(『カトリック要理』第十課49参照)。私たちプロテスタントの教会は聖書のみを絶対的な権威としておりますが、ローマ・カトリック教会は、聖書と同じように、人間の言い伝えを聖伝と呼び、重んじているのです。ですから、今朝の御言葉は、イエス様の時代に限られた問題ではなくて、現代のキリスト教会においても考えるべき問題であるのです。そして、私たちは、今朝の御言葉から、人間の言い伝えを聖書と同じように重んじるならば、神の言葉を無にしてしまうことを教えられるのです。

 さらに、イエス様は、ファリサイ派の人々を「偽善者たちよ」と呼び、こう言われました。「イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている』」。ここでイエス様は、イザヤの預言がファリサイ派の人々のうえに実現していると言われます。「偽善者」と訳される言葉は、元々は仮面をかぶって演じる役者を指しておりましたが、イエス様は、ファリサイ派の人々が宗教的な演技をしている役者であると言われるのです。なぜなら、彼らは口先では神を敬っていても、その心は神様から遠く離れていたからです。「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物とする」。この言葉だけを聞くならば、神を敬っているように聞こえるわけですが、しかし、そこで、「あなたの父と母を敬え」という神様の御意志はないがしろにされているのです。それゆえ、イエス様は、ファリサイ派の人々が、人間の戒めを教えとして教え、むなしく神様を崇めていると言われるのであります。これは、私たちにも語られている警告の言葉ではないでしょうか?確かに、私たちは聖書のみを信仰と生活の唯一の規準とし、聖書のみを絶対的な権威と信じております。しかし、そうはいいながらも、人間の教え、学校教育や社会生活において耳にする人間の教えを聖書と同じように重んじて、むなしく神を崇めていることはないだろうか、と反省させられるのです。讃美歌を歌いながら、御言葉を聞きながら、その心が神様から遠く離れていることはないだろうか、と反省させられるのです。

 今朝の説教題を「神の言葉を無にするな」といたしました。これは、6節の「あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」というイエス様の御言葉から取ったものですが、この御言葉を読んだときに、私は、ガラテヤの信徒への手紙2章21節の御言葉を思い起こしました。新約の345ページであります。「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」。ガラテヤの諸教会を惑わせていた偽教師たちは、イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守るべきである、そのしるしとして異邦人も割礼を受けるべきであると教えておりました。しかし、パウロは、それでは、神の恵みを無にしてしまうことになる。もし、人が律法を守ることによって、神様に正しいとしていただこうとするならば、キリストの死は無意味なものとなってしまうと記すのです。なぜ、神の御子が私たちと同じ人となり、律法の呪いの死、十字架の死を死んでくださったのか?それは、私たちが誰一人、神の掟を守ることができないからです。その私たちのために、キリストは十字架の死を死んでくださり、そして三日目に復活され、私たちに聖霊を注いでくださったのです。復活されたキリストは、神の言葉を無にすることがないように、御自分の霊である聖霊を注ぎ、私たちを心から神の言葉に従うことができる者にしてくださったのです。ですから、私たちの礼拝がむなしく、私たちの心が神様から遠く離れているようなことがあるならば、このイエス・キリストに、私たちの思いをもう一度向け直さなければならないのです。パウロは、先程引用した御言葉の直前の20節で、このように記しています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。これは使徒パウロだけの言葉ではありません。キリストのものとされている私たち一人一人が、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」と語ることができるのです。復活されたイエス・キリストが私たちの内に生きておられる。それゆえ、私たちは、神の言葉を無にすることなく、神の言葉に導かれて、この地上を歩んで行くことができるのです。わたしのために身を献げられた神の子であるイエス・キリストに感謝して、心からの礼拝をささげることができるのであります。

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