湖の上を歩くイエス 2014年10月19日(日曜 朝の礼拝)

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湖の上を歩くイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 14章22節~36節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
14:32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
14:34 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。
14:35 土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、
14:36 その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
マタイによる福音書 14章22節~36節

原稿のアイコンメッセージ

 前々回、私たちは、イエス様が五つのパンと二匹の魚で、五千人以上の人々を満腹させられたお話を学びましたが、今朝の御言葉はその続きであります。

 イエス様は、五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々を満腹させられてからすぐ、弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられました。ここで、イエス様は弟子たちと群衆とを引き離しておられます。イエス様は弟子たちを強いて舟に乗せることにより、弟子たちを群衆から引き離されるのです。なぜ、イエス様はこのようなことをなされたのでしょうか?マタイによる福音書だけを読んでもその理由はよく分かりませんが、ヨハネによる福音書の並行箇所を見ますと、その理由を知ることができます。ヨハネによる福音書の並行箇所によれば、満腹した人々がイエス様のなさるしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言ったこと。さらに、人々がイエス様を自分たちの王とするために連れて行こうとしたことが記されています。五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々を満腹させるという奇跡は、預言者エリシャにまさる奇跡であり、さらには、天からのパン、マナを彷彿とさせる奇跡でありました。そのような奇跡は、群衆の内に、イエス様に対するある熱狂を生じさせたのです。そのような熱狂に弟子たちが巻き込まれてしまわないように、イエス様は、弟子たちを強いて舟に乗せて、向こう岸へと先へ行かせたのです。また、御自分は、群衆を解散させてから、祈るためにひとり山に登られたのです。イエス様は、山でひとり祈られることにより、十字架の苦難を通らずして王となる誘惑と戦われたのです。イエス様は、山のうえでただ一人、御父と語らいのときをもたれ、御心に適う者としての姿勢を整えられたのです。

 イエス様は夕方になっても、ただひとり山で祈っておられました。他方、弟子たちは、まだ舟の中におりました。舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていたのです。一スタディオンが約185メートルでありますから、彼らは既に陸から何百メートルか漕ぎ出していたわけです。夜が明けるころ、イエス様は湖の上を歩いて弟子たちのところへ行かれました。しかし、弟子たちは、イエス様が湖上の上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげたのです。弟子たちは、自分たちに近づいてくるのが、イエス様だとは分かりませんでした。岸から何百メートルも離れている湖の上ですから、弟子たちは自分たちに近づいてくるのがイエス様だとは考えなかったのです。ですから、彼らは「幽霊だ」と言って怯え、恐怖のあまり叫び声をあげたのです。そのような彼らにイエス様はすぐに話しかけられました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。イエス様は逆風に悩まされていた弟子たちのもとに、荒ぶる波を踏み砕いて近づいて来てくださったのです。旧約聖書のヨブ記の9章8節に、「神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる」とありますが、イエス様は、このときまさに、海の高波を踏み砕かれるお方として、波に悩まされていた弟子たちのもとへ来てくださったのです。このことは、イエス様がまさしく神の子であることを表しています。33節に、「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」とありますように、海の高波を踏み砕き、湖の上を歩かれるという奇跡は、イエス様が神の子であることを私たちに教えているのです。

 マタイによる福音書において、イエス様が神の子であるというときに、二重の意味で言われております。イエス様は、その存在において、またそのお働きにおいて「神の子」であるのです。1章に記されていたように、イエス様は聖霊によって、おとめマリアの胎に宿り、お生まれになりました。それゆえ、イエス様はその存在において、神の子であられます。また、イエス様は、聖霊を注がれたお方、メシア、救い主として神の子であられるのです。3章に記されていたように、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後で、天がイエス様に向かって開き、神の霊が鳩のように降って来たのでありました。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたのです。このように、イエス様は二重の意味で、神の子なのであります。このことを、弟子たちがどれだけ理解していたかは分かりませんが、彼らは、湖の上を歩いて来られたイエス様に救われた者たちとして、「本当に、あなたは神の子です」と言って、イエス様を拝んだのです。

 今朝の「湖の上を歩く」というお話は、マルコによる福音書にも、ヨハネによる福音書にも記されていますが、マタイによる福音書だけが、ペトロも湖の上を歩いたことを記しています。今朝の説教題を「湖の上を歩くイエス」としましたが、「湖の上を歩くイエスとペトロ」とした方が正確であったかもしれません。イエス様の「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という言葉を受けて、ペトロはこう答えました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。ここでペトロは突拍子もないことを言っていますが、ペトロは、イエス様なら、自分に命令して、水の上を歩かせることができると信じたのでありました。このペトロの言葉を受けて、イエス様は「来なさい」と言われました。それで、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエス様の方へ進んだのです。イエス様と同じように、ペトロも水の上を歩くことができたのです。しかし、ペトロは強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだのです。イエス様だけを見つめていたとき、ペトロは、イエス様と同じように水の上を歩くことができました。しかし、強い風を見たとき、その心が二つに分かれてしまったのです。そのようにして、ペトロの信仰は揺らいだのであります。その結果、彼は沈みかけ、「主よ、助けてください」と叫んだのであります。この時も、イエス様はすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえてくださいました。そして、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われたのです。ここで、イエス様はペトロの信仰が無いとは言われていません。ペトロには信仰があるのですが、それは薄いのです。イエス様だけを見つめて一筋の心で歩くことができず、強い風に目を向けて、沈みかけてしまう薄い信仰であるのです。そして、それはペトロだけではなく、私たちにおいても言えることであるのです。私たちも、イエス様を信じて歩み出しました。しかし、様々なことに目を向けて、恐れを抱くのです。時には、信仰を失ってしまのではないかという危機的状況におかれてしまうこともあるのです。しかし、そこで大切なことは、その沈みかけている中で、「主よ、助けてください」と叫ぶことです。そのとき、主イエスは、私たちの祈りを聞いてくださり、私たちを信仰の危機的状況から救い出してくださるのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とたしなめられながらも、私たちを舟の中へと導いてくださるのです。32節に、「そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった」とありますが、この舟とは、「教会」のことを表しています。イエス様を神の子と告白し、イエス様を礼拝する人々が乗っている舟こそ、教会であるのです。ペトロは、自分も水の上を歩いてイエス様のもとへ行こうとしましたが、ここで、イエス様は、沈みかけたペトロを救って、ペトロと共に、舟の中へと乗り込んでくださいました。私たちは、このように教会に集まって、礼拝をささげておりますが、それはイエス様が沈みかけそうな私たちの手をとって招いてくださったからであるのです。

 先程も申しましたように、マタイによる福音書は、イエス様だけでなく、弟子のペトロも湖の上を歩いたことを記しております。ペトロもイエス様の御言葉に信頼して、イエス様と同じ業をすることができたのです。そして、このことは、私たちにおいても言えることであると思います。私たちもイエス様の御言葉に信頼するとき、イエス様と同じ業をすることができるのです。では、私たちができるイエス様と同じ業とは何でしょうか?それは、神の国の福音を宣べ伝えるということであります。私たちもイエス様の御言葉に信頼するとき、イエス様と同じように福音を宣べ伝えることができるのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。……わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:18~20)。このイエス様の御言葉に信頼するとき、私たちはイエス様と同じように福音を宣べ伝えることができるのです。しかし、そのとき、私たちが実感することは、自分の信仰の危うさ、信仰の薄さであります。イエス様のことを伝えて、反論されたり、嘲りを受ければ、それだけで沈みかけてしまいそうな自分であることに気づかされるのです。しかし、そこで大切なことは、「主よ、助けてください」と祈ることであります。イエス・キリストを信じない世の荒波にもまれ、沈んでしまうことがないように、助けを求めるのです。そのとき、イエス様は私たちの手を取って、御自分の教会へと招いてくださるのです。そして、礼拝をとおして、私たちの信仰を強めて、祝福をもってそれぞれの場所へと遣わしてくださるのです。

 

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