五つのパンと二匹の魚 2014年10月05日(日曜 朝の礼拝)
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五つのパンと二匹の魚
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 14章13節~21節
聖書の言葉
14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。
14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
14:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、
14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
14:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。
14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。マタイによる福音書 14章13節~21節
メッセージ
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前回、私たちは領主ヘロデによって洗礼者ヨハネが殺されたお話を学びましたが、その12節にこう記されています。「それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した」。イエス様は、領主ヘロデが洗礼者ヨハネの首をはねたことを聞いて、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所(荒れ野)に退かれたのです。同じ預言者である洗礼者ヨハネの死は、イエス様の死の先触れでもありました。それゆえ、洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって殺されたことを聞いたイエス様は、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれたのです。そのようにして、イエス様は、ヘロデの殺意から逃れようとされたのであります(マタイ4:12、12:15参照)。しかし、群衆はそのことを聞いて、方々の町から歩いてイエス様の後を追って来ました。イエス様が舟から上がったときには、大勢の群衆がそこにいたのです。この大勢の群衆は、21節によれば、女と子供を別にして、男が五千人ほどでありました。男だけで五千人もの人が、イエス様のあとを追って来たのです。私たちはここから、イエス様の人気の高さがどれほどであったかを知ることができます。また、領主ヘロデが、イエス様をも殺そうと考えたことも頷けます。大勢の群衆に慕われ、影響力のあるイエス様は、領主ヘロデの支配にとって危険人物であったのです。そのように領主ヘロデから見られていることをイエス様はご存じであったのかも知れません。それゆえ、イエス様は、ひとり人里離れた所に退き、群衆と距離を置こうとなされたのです。しかし、イエス様は、ひとりになることできませんでした。群衆がそのことを聞いて、方々の町から歩いて後を追って来たからです。その群衆を見て、イエス様はどう思われたのでしょうか?煩わしいと思われたでしょうか?そうではありません。イエス様は大勢の群衆を見て深く憐れまれたのです。そして、群衆の中の病人を癒されたのです。私たちはここに、イスラエルの牧者としてのイエス様のお姿を見ることができるのです(マタイ9:36参照)。
15節で、突然、弟子たちが出てきますが、弟子たちはイエス様と行動を共にしていたのでしょう。夕暮れになったので、弟子たちはイエス様のそばに来てこう言いました。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」。この弟子たちの言葉はもっともな言葉であります。しかし、イエス様はこう言われるのです。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。弟子たちは群衆を去らせようとするのですが、イエス様は「行かせる必要はない」と言われるのです。そして、弟子たちに、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われるのです。それに対して弟子たちは、「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と答えます。これはおそらく、イエス様と弟子たちの御弁当、晩御飯であったと思われます。パンと魚の干物は、当時の一般的な食べ物でありました。パン五つと魚二匹では、大勢の群衆を養うことなどできません。しかし、イエス様は、「それらをここに、わたしのところに持って来なさい」と言われ(岩波訳参照)、群衆には草の上に座るようにお命じになりました。そして、イエス様は、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになり、弟子たちはそのパンを群衆に与えたのです。五つのパンと二匹の魚ですから、すぐに足りなくなってしまうはずですが、そのようにはなりませんでした。すべての人が食べて満腹したと聖書は記しています。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになったのでありました。ここで明らかにパンが増えています。どこで、どのように増えたかは分かりませんが、すべての人が食べて満腹したのですから、パンが増えたことは明らかです。これと似たような物語が旧約聖書に記されています。列王記下の4章42節から44節までをお読みします。旧約の583ページです。
一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。
ここには、大麦パン二十個で、百人の人々を養う、神の人エリシャの奇跡が記されています。このエリシャの奇跡は、今朝の御言葉に記されているイエス様の奇跡とよく似ています。しかし、その規模の大きさは、イエス様がなされた奇跡の方が格段に上であります。エリシャの奇跡がパン二十個で百人の人々を満腹させたのに対して、イエス様の奇跡は五つのパンで五千人以上の人々を満腹させたのです。イエス様は神の人エリシャよりも偉大なお方であるのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の28ページです。
イエス様が五千人以上の人に食べ物を与えるという今朝のお話は、四つの福音書すべてに記されております。イエス様の地上の生涯を描いている福音書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと四つの福音書がありますが、すべての福音書に、五千人以上の人々に食べ物を与えるという奇跡が記されているのです。そのことは、どの福音書記者も、この奇跡が、イエス様がだれであるかを理解するうえで欠かすことのできない奇跡であると考えたことを教えています。イエスとはどのような人物であるのか?そのことを今朝の御言葉は私たちに教えているのです。そして、そのことを、先程私たちは、預言者エリシャの物語から見たわけであります。もう一つ、このイエス様の奇跡を正しく理解するために、欠かすことのできない旧約聖書の物語があるのです。それが、出エジプト記16章に記されているマナの奇跡であります。出エジプト記16章1節から16節までをお読みします。旧約の120ページです。
イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけを集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹させられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、主に向かって不平を述べているのだ。」モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。主はモーセに仰せになった。「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言われた。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。主が命じられたことは次のとおりである。『あなたたちはそれぞれの必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」
少し長く読みましたが、神様は荒れ野において、天からのパン、マナを降らせ、イスラエルを養われました。それと同じようにイエス様は荒れ野において、五つのパンと二匹の魚でイスラエルを養われるのです。今朝の御言葉に、「残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった」とありましたが、十二の籠はイスラエル十二部族を表しています。すなわち、イエス様はイスラエルを養われるお方であるのです。イエス様が五千人以上の人々を養われた奇跡は、イエス様こそが、かつて天からのパン、マナでイスラエルを養われた主なる神その方であることを示しているのです(マタイ14:32参照)。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の28ページです。
イエス様が五千人以上の人に食べ物を与えられた奇跡は、イエス様こそ、イスラエルを養われる神その方であることを教えているのですが、ここで、私たちが注目したことは、イエス様が弟子たちの献げ物を用いて、この奇跡をなされたということです。イエス様は、石をパンに変えられたのではなく、弟子たちが御自分のもとに持って来た五つのパンと二匹の魚を祝福されて、五千人以上の人々を満腹させられたのであります。このことは、イエス様が私たちの小さな献げ物を祝福して豊かに用いてくださることを教えているのです。ある研究者は、「イエス様は人を病から救うだけではなく、飢餓からも救ってくださるお方である」と述べておりました。現代の日本において、飢餓はそれほど深刻な問題ではないかも知れません。しかし、世界においては飢餓はなお深刻な問題であるのです。日本国際飢餓対策機構の『飢餓対策ニュース』によれば、1分間に17人(内12人が子ども)、一日に2万5000人、1年間で約1000万人が飢えのために生命を失っているとのことです。そのような世界に生きているキリストの弟子として、私たちは今朝の御言葉を聞かねばならないのです。多くの飢えに苦しむ人々を前にして、イエス様は、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われます。そのように言われれば、私たちも「ここには五つのパンと魚二匹しかありません」と答える他ないのではないでしょうか?しかし、それらをイエス様の御言葉に従って、ささげるとき、それらはすべての人を満腹させるほどになるのです。先程、ご紹介した日本国際飢餓対策機構は、「イエス・キリストの精神に基づいて活動する、非営利の民間国際協力団体(NGO)」であります。飢えている人をそのまま去らせずに、五つのパンと二匹の魚で養われたイエス様の御心に基づいて、飢餓から人々を救うために活動している団体であるのです。このような団体を通して、私たちの教会が、また、私たち一人一人が五つのパンと二匹の魚をささげるとき、イエス様がそれら祝福し、豊かに用いてくださいます。そのようにして、イエス・キリストは、今も、すべての人を飢饉から救おうとしておられるのです。
今朝の週報に、参考資料として、日本国際飢餓対策機構のホームページから抜き書きをしておきました。そこには1000円で、アフリカの国々にどのような支援ができるかが記されています。これは、円高によるものであります。日本の通貨である円が、アフリカの国々の通過に対して高いので、多くのものを支援することができるわけです。しかし、私はここに、イエス様の祝福の御手を見ることが許されるのではないかと思います。このことに、イエス様の祝福の御手を見て、たとえわずかな金額でもささげていくこと。それが、富む国に生かされている私たちキリスト者のなすべきことではないかと思うのです。