願うものは何でもやろう 2014年9月28日(日曜 朝の礼拝)
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願うものは何でもやろう
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 14章1節~12節
聖書の言葉
14:1 そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、
14:2 家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
14:3 実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。
14:4 ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
14:5 ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。
14:6 ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。
14:7 それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。
14:8 すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。
14:9 王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、
14:10 人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。
14:11 その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。
14:12 それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。マタイによる福音書 14章1節~12節
メッセージ
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前回、私たちは、イエス様が故郷の人々から受け入れられなかったお話を学びました。故郷の人々は、イエス様の知恵の言葉を聞き、力ある業を見て、非常に驚いてこう言いました。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」。このように、故郷の人々にとって、イエス様は大工の息子でありました。しかし、そのような故郷の人々とは違って、イエス様を「あれは洗礼者ヨハネだ」と断言する人物がおりました。それが、今朝の御言葉に出てきます領主ヘロデであります。
「領主ヘロデ」とは、2章に出てきましたヘロデ大王の息子のヘロデ・アンティパスのことであります。ヘロデ大王が死んだ後、その領地は四つに分割され、息子たちによって統治されておりました。イエス様が活動しておられたガリラヤはヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスによって治められていたのです。その領主ヘロデがイエス様の評判を聞き、家来たちにこう言ったのです。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」。このヘロデの言葉は、洗礼者ヨハネが死んでいることを前提にしています。洗礼者ヨハネの死については、3節以下に記されておりますが、実は、ヘロデこそが、洗礼者ヨハネを殺した張本人であったのです。ヘロデは、イエス様の評判、イエス様がなされている悪霊追い出しや病の癒しなどの力ある業のことを聞いて、その力の源が自分が殺した洗礼者ヨハネと関係があると考えたのです。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」。私たちはこのヘロデの言葉をどのように解釈すべきでしょうか。ヘロデは、文字通り、自分が殺した洗礼者ヨハネが墓からよみがえったと言っているのでしょうか?どうもそうではないようです。ヘロデも洗礼者ヨハネとイエス様が別人であることは分かっていたと思います。ここでヘロデが言っていることは、洗礼者ヨハネの霊がイエスにとどまるという仕方で復活したこと、それゆえイエスに奇跡を行う力が働いているということであります。このヘロデの言葉について、ある研究者(D・R・A・ヘア)は次のように記しております。「古代人は明らかに、死者の霊がその後継者の生命力に貢献することは可能だと信じていた。したがって、ヘロデの論評は、イエスは正しくヨハネの後継者であるということ、そしてそれは、イエスがヘロデの支配にとってはヨハネと同様に、政治的な脅威であるということを意味するにすぎないのである」。この研究者は、「古代人は明らかに、死者の霊がその後継者の生命力に貢献することは可能だと信じていた」と記しておりますが、そのことは列王記下の2章に記されているエリヤとその弟子であるエリシャの物語に見られます。エリヤはエリシャが見ている前で、炎の馬車に乗って天へと上って行くのですが、その前に、エリシャはエリヤに「あなたの霊の二つ分をわたしに受け継がせてください」と願いました。そして、エリヤが天へと上げられた後、預言者の仲間たちは、エリシャを見て、「エリヤの霊がエリシャにとどまっている」と言ったのです。その証拠に、エリシャはエリヤと同じヨルダン川の水を左右に分けるという奇跡をなすことができたのです。それと同じように、ヘロデは、自分が殺した洗礼者ヨハネの霊が、イエスの内にとどまっている。だから、イエスは力ある業をなすことができるのだと言ったのです。これは、ヘロデのイエス様についての解釈であります。イエス様の故郷の人々は、「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と問うておりましたが、ここでヘロデは自分なりの答えを出しているわけです。ヘロデは、「イエスが力ある業を行うことができるのは、自分が殺した洗礼者ヨハネの霊が彼の内に働いているからだ」と、イエス様の力の源を説明したのです。しかし、このヘロデの理解は正しい理解なのでしょうか?エリヤの霊がエリシャにとどまっていたように、洗礼者ヨハネの霊がイエス様にとどまっていたのでしょうか?そうではありません。なぜなら、洗礼者ヨハネがまだ生きていたときにも、イエス様は力ある業を行っていたからです。11章に、洗礼者ヨハネが牢の中でイエス様のなさったことを聞き、弟子たちを遣わしてこう尋ねたことが記されています。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」。このヨハネの問いに対して、イエス様はこう答えられたのです。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人々は幸いである」。このように、イエス様はヨハネが殺される前から、奇跡を行っていたのです。では、イエス様の力の源はどこにあるのでしょうか?それは、ヨハネの霊ではなく、神の霊、聖霊にあるのです。3章に、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたことが記されていますが、その16節、17節にこう記されています。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。イエス様の内にとどまっておられるのは、鳩のように降って来た神の霊、聖霊であります。イエス様の知恵と力の源、それはイエス様のうちにとどまっている神の霊、聖霊であるのです。それゆえ、イエス様は、12章28節で、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われたのです。
3節以下には、領主ヘロデがヨハネを捕らえた経緯が記されています。ヘロデは自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと恋に落ちまして、自分の妻を離縁して、ヘロディアと結婚いたしました。これは神の掟である律法が禁じていることであります。レビ記20章21節には、「兄弟の妻をめとる者は、汚らわしいことをし、兄弟を辱めたのであり、男も女も子に恵まれることはない」とはっきりと記されています。それゆえ、ヨハネは「あの女を妻とすることは許されていない」とヘロデに何度も言ったのです。そのようなヨハネが邪魔であったのでしょう。ヘロデはヨハネを捕らえ、牢の中に入れました。そればかりか、ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたのです。しかし、民衆を恐れて、それができないでいたのです。なぜなら、人々はヨハネを預言者だと思っていたからです。人々が預言者と思っているヨハネを殺したら、暴動が起こるかも知れない。そのことを恐れて、ヘロデはヨハネを殺そうと思いながら、殺せずにいたのです。ところが、計らずしてそのことを実行する日が訪れるのです。それはヘロデの誕生日でありました。ヘロデの誕生日を祝う宴において、ヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせました。上機嫌なヘロデは娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束します。すると、娘は母親のヘロディアに唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に乗せて、この場でください」と言ったのです。ヘロディアは、洗礼者ヨハネが自分たちの結婚が律法違反の罪であると非難したことを根に持っていたようです。それで、ここぞとばかり、娘を唆して、ヨハネを殺そうとするのです。娘の言葉を聞いて、王は心を痛めましたが、誓ったことではあるし、客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして牢の中でヨハネの首をはねさせました。その首は盆に乗せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行ったのです。このようにして、洗礼者ヨハネは殺されたのでありました。
私がここで注目したいのは、9節で領主ヘロデが「王」と呼ばれていることです。ヘロデは領主でありまして王ではありません。しかし、ここでは領主ヘロデが「王」と記されているのです。なぜなら、ヘロデはまさしく王として振る舞っているからです。それも神を畏れない王として振る舞っているのです。神を畏れない王は、思うままに殺し、思うままに生かし、思うままに栄誉を与え、思うままに没落させるのです(ダニエル5:19参照)。裁判にもかけずに人を殺すこと、これも律法で許されていないことであります。しかし、ヘロデは神を畏れぬ王として、自分の面子を保つために、洗礼者ヨハネの首をはねさせるのです。聖書は、天地を造られ、イスラエルをエジプトから導き出された神が王であると教えております。しかし、ヘロデは自分を王として、神の言葉を語るヨハネを殺すのです。このことは、ヘロディアも、その娘も同じであります。洗礼者ヨハネが生きている限り、王家としての地位は安泰ではないと彼らは考えたのです。自分を王とすること、それは自分を神とすることでもあります。ですから、ヘロデは、娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束したのです。この言葉は、神様がソロモン王に言われた言葉でもあります。列王記上の3章を見ますと、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。それに対してソロモンは、「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願ったのです。ソロモンは、自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めたのです(列王上3:10参照)。これが神を畏れる王、ソロモンが求めたことでありました。しかし、神を畏れない王、自分を神とする王が、「願うものは何でもやろう」と誓って約束するとき、これまた神を畏れない娘とその母は、自分たちの敵である洗礼者ヨハネの首を求めるのです。ヘロデは、これを聞いて心を痛めたとありますが、それをとがめもせず実行したのは、自分もヨハネを殺そうと思っていたからです。神を畏れない王、自分を神とする王であるヘロデにとって、神の言葉は聞くに堪えない言葉でありました。そして、ヘロデはヨハネを殺すことによって、神の言葉を聞かなくて済むようにしたのであります。しかし、その神の言葉が聞こえてくるのです。自分が殺したはずの神の言葉が聞こえてくる。イエス様の口を通して聞こえてくるのであります。それゆえ、ヘロデは、イエス様の評判を聞いたとき、「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ」と言ったのです。福音書記者マタイは、洗礼者ヨハネがユダヤの荒れ野で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えたと記しました(3:1参照)。それと同じように、イエス様も、「悔い改めよ。天の国は近づいた」といって、ガリラヤで宣べ伝え始められたのです。ヨハネの言葉とイエス様の言葉は同じ言葉です。なぜでしょうか?それはヨハネもイエス様も神の言葉を語る預言者であるからです。ですから、ヘロデによってヨハネが殺されたことは、イエス様の身にこれから起こることの先触れでもあるのです。ヘロデは、イエス様の評判を聞いて、「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」と言いました。このとき、ヘロデはどのような思いを心に抱いていたのでしょうか?自分の犯した罪を後悔して、謝りたいとでも思ったでしょうか?そうではありません。あのイエスも殺さねばならないと思ったのです。そのようにして、ヘロデは自分が善悪を決める王であり続けたいと願ったのです。王は法を与えるものです。そして、法とは支配であります。神はイスラエルに律法を与え、この律法によってイスラエルを御支配されます。しかし、神を畏れぬ王、自分を神とする王は、自分を法の支配の下にいないものとするのです。ですから、ヘロデは、兄弟の妻を自分の妻とし、裁判もせずにヨハネの首をはねたのです。これはヘロデだけのことでしょうか?そうではないと思います。ここに描かれているのは、神を畏れない人間の姿であります。神を畏れない人間、自分を王とし、自分を神とする人間は、このようなおぞましいことを平気でやってのけるのだということを聖書は教えているのです。
今朝の説教題を「願う者は何でもやろう」としました。これは、7節のヘロデの言葉から取ったものであります。しかし、私が思い起こしていたのは、先程も引用したソロモン王に語られた主の御言葉であります。主はソロモンに、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。神様からそのように言われて、あなたなら何を願うでしょうか?そのことを、どうか御自分でよく考えていただきたいと思います。神様から「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われて、私たちが何を願うのか?そこに私たち一人一人の信仰の姿が映し出されるのです。