天の国のたとえ 2014年9月14日(日曜 朝の礼拝)
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天の国のたとえ
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 13章44節~52節
聖書の言葉
13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、
13:50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
13:51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。
13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」マタイによる福音書 13章44節~52節
メッセージ
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イエス様は、群衆と弟子たちにたとえを用いて多くのことを語られました。私たちはこれまで、「種を蒔く人のたとえ」、「毒麦のたとえ」、「からし種のたとえ」、「パン種のたとえ」を学びましたが、これらのたとえは群衆だけではなく、弟子たちも聞いておりました。けれども、今朝の御言葉の「畑に隠されている宝のたとえ」、「高価な真珠のたとえ」、「地引き網のたとえ」は、弟子たちだけに語られた「天の国のたとえ」であります。36節に、「それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった」とありますように、イエス様は教会に入って、弟子たちだけに、「畑に隠されている宝のたとえ」、「高価な真珠のたとえ」、「地引き網のたとえ」をお語りになったのです。
44節をお読みします。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」
イエス様は、たとえを用いて「天の国」について教えられましたが、その天の国とは、御自分において地上に来ている天の国であります。イエス様は、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って宣教を始められました。また、イエス様は、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているならば、神の国はあなたがたの間に来ているのだ」と言われました。天の国とは神の国であり、神の王国、神の王的支配のことであります。神の王的支配は、イエス様においてこの地上に到来したのです。神の国は、小さなからし種のように、また隠れているパン種のように、この地上に到来したのであります。その天の国を、イエス様は、畑に隠されている宝にたとえられるのです。昔は、強盗や強欲な兵隊から宝を守るために、土の中に埋めるということがよくありました。宝を土の中に埋めるのは、今で言えば、金庫に入れるのと同じことであったのです。しかし、宝を隠した人が急に死んでしまったり、旅に出たまま帰ってこなかったりして、忘れられてしまうことがあったようです。その宝を見つけた人はどうするでしょうか?イエス様はこう言われます。「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。畑に隠されている宝を見つけた人は、この畑の持ち主ではありませんでした。その人は、雇われて、他人の畑を耕していたのです。それで、その人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰って、持ち物をすっかり売り払って、宝が隠されている畑を買うのです。そのようにして、その人は、畑に隠されている宝を自分のものとするのです。
イエス様において到来している天の国、それは畑に隠されている宝のようであるのです。それゆえ、それを見つけた人、すなわちイエス様において天の国が到来しているという天の国の秘密を悟った弟子たちは、喜んで、すべてのものを犠牲にしてでも、イエス様に従い天の国を自分のものとするのです。
多くの人が、死んだら天国に入りたいと願っていると思います。しかし、死んでからではなくて、今、生きている間に、この地上で、天国に入ることができたら、どうでしょうか?イエス様において天の国が到来したということは、そういうことであります。イエス様において、天の国の祝福に、この地上、生きている間に入ることができるのです。そして、これこそ、私たちが、すべてのものを売り払ってでも、手に入れるべき宝であるのです。ある人は、天の国では何がなされるのかと疑問に思うかも知れません。天の国でなされること、それは神様を礼拝することです。神様を礼拝する、その祝福がイエス・キリストにおいて、この地上にもたらされました。ですから、教会こそ天の国の門なのです(創世28:17参照)。キリストの教会として集まり、礼拝をささげている私たちは、今、天の国の祝福にあずかっているのです。
45節、46節をお読みします。
「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
イエス様は、御自分において到来した天の国を「一つの高価な真珠」にたとえられました。良い真珠を探している商人が、「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払って、それを買う」というのです。この「高価な真珠のたとえ」は、先程の「畑に隠されている宝のたとえ」と似ております。どちらのたとえにも共通しているのは、見つけた人が、「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」ということです。つまり、天の国は、すべてのものを犠牲にしてでも手にいれるべき絶対的な価値があるのです。イエス様において到来した天の国の中心的現れは、キリスト教会でささげられる礼拝であります。私たちは、日曜日を主の日として、教会に集い礼拝をささげております。また、それぞれの収入に応じて献金をささげております。それは、高価な真珠の値打ちが分からない人からすれば、愚かなことに思えるかも知れません。しかし、高価な真珠の値打ちを知っている私たちには喜びであり、最優先になすべきことであるのです。なぜなら、キリストの名によってささげられる礼拝においてこそ、私たちは天の国の祝福を豊かに受けることができるからです。
47節から50節までをお読みします。
「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ下ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
ここでの「網」は「地引き網」のことであります。この「地引き網のたとえ」は、「毒麦のたとえ」に似ております。どちらのたとえも、世の終わりに、良いものと悪いものとが区別されることを教えています。「毒麦のたとえ」では、イエス様において到来した天の国には、麦と毒麦が混在している状態であることが教えられましたが、「地引き網の網のたとえ」でも、岸に引き上げられるまで、良いものも悪いものも一緒に集められることが記されています。そして、このことは、天の国の中心的な現れである教会の交わりにおいても言えることなのです。教会員であるから良いものであるとは言えないのです(イスカリオテのユダ、アナニアとサフィラ、デマスなど)。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言うものが皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」とイエス様が言われたように、天の父の御心を行う者が良いものであるのです(7:21参照)。それゆえ、私たちは、イエス・キリストにおいて示された天の父の御心を学び、行うことによって、自分が召されていること、選ばれていることを確かなものとすべきであるのです(二ペトロ1:10参照)。「悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」というイエス様の言葉は、私たちに対しても、語られている警告の言葉であるのです。
51節、52節をお読みします。
「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
イエス様は、弟子たちに、「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」と言われましたが、ここで「分かる」と訳されている言葉は、11節で「悟る」と訳されていたのと同じ言葉であります。イエス様は、11節で、「あながたには天の国の秘密を悟ることが許されている」と弟子たちに言われましたが、ここで、イエス様は、弟子たちに、「あなたがたは、これらのことをみな悟ったか」と問われるのです。そして、弟子たちは、「はい」と答えたのであります。イエス様は弟子たちに「あなたがたは天の国の秘密を悟ることが許されている」と言われましたが、それは、イエス様から天の国のたとえを学ぶことによってであるのです。イエス様は群衆と弟子たちにたとえを用いて多くのことを語られました。しかし、イエス様がたとえの意味を説明されたのは弟子たちだけに対してであったのです。弟子たちは、イエス様から天の国のたとえを学ぶことによって、天の国の秘密を悟ることが許されたのです。それと同じように、私たちもイエス様から天の国のたとえを学ぶことによって、天の国の秘密を悟る者とされているのです。
イエス様は、弟子たちの「はい」という返事を受けて、こう言われます。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」。ここでイエス様は、弟子たちを「天の国のことを学んだ学者」と言われます。イエス様は、私たちを「天の国のことを学んだ学者」と呼んでくださるのです。このところを新改訳聖書は、「天の御国の弟子となった学者」と翻訳しています。天の御国の学者となるには、天の御国の弟子とならなければならないのです。天の御国について教える者は、天の御国について学び続けなければならない、ということであります。天の国について学ぶための教科書は聖書であります。ですから、私たちは、礼拝において、聖書を学んでいるのであります。そして、それは天の国の学者としてふさわしいことであるのです。
「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」。ここでの「自分の倉」とは「自分の心」のことであります(12:35参照)。では、「新しいものと古いもの」とは何でしょうか?「新しいもの」とは、イエス様によって与えられた教えであり、「古いもの」とは、それまでに与えられた神様の教えである、と理解してよいと思います。聖書は、新約と旧約から成り立っていますが、「新しいもの」を新約、「古いもの」を旧約と理解してよいと思います。イエス様を信じない律法学者たちは、自分の心から古いものしか取り出すことができません。しかし、天の国について学んだ学者である弟子たちは、自分の心から、新しいものと古いものを自由に取り出すことができるのです。そのようにして、天の国のことを人々に教えることができるのです。そして、この「天の国のことを学んだ学者」の代表者が、この福音書を記しているマタイその人であるのです。マタイは、イエス様において起こった新しいこと、救い主の誕生、天の国の到来などを教えるのに、旧約聖書を引用し、これこそ神の約束の実現であると記しました。このようにマタイは、自分の心から新しいものと古いものを自由に取り出し、天の国のことを私たちに教えているのです。私たちは自分の心に、新約聖書の御言葉だけではなく、旧約聖書の御言葉をも蓄えなくてはならないのです。そうでなければ、私たちは、天の国のことを学んだ学者とは言えないのです。私たちは、自分の倉から新しいものと古いものとを自由に取り出す主人のように、旧約と新約からなる聖書全体に親しまなければならないのです。なぜなら、聖書こそ、宝が隠されている畑であるからです。それゆえ、私たちは喜びながら、聖書全体を学ぶことができるのです。そして、他の人たちにも、天の国について教えることができるようになるのです。イエス様が私たちに求めておられること、それは私たちが見いだした宝や真珠を、独り占めしておくことではありません。イエス様が私たちに求めておられること、それは私たちが聖書全体から、自由に天の国について教えることができるようになることであるのです。