畑の毒麦のたとえ 2014年9月07日(日曜 朝の礼拝)

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畑の毒麦のたとえ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 13章24節~43節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、
13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
13:34 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。
13:35 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
13:36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
13:37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、
13:38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
13:41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、
13:42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
13:43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」マタイによる福音書 13章24節~43節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様は、群衆にたとえを用いて多くのことを語られましたが、今朝の御言葉も、群衆に語られたたとえであります。前回、私たちは、「種を蒔く人のたとえ」を学びましたが、イエス様は別のたとえを持ち出して、御自分において到来した天の国について教えられるのです。

 「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 「天の国は次のようにたとえられる」とありますように、これは天の国のたとえであります。それも、イエス様において到来している天の国のたとえであります。イエス様は、12章28節で、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われましたが、イエス様において神の国、天の国が到来していることこそ、弟子たちが悟ることが許された神の国の秘密、神の国の奥義であるのです。では、イエス様において到来した神の国、天の国はどのようなものなのでしょうか?それをイエス様は、「畑の毒麦のたとえ」で教えてくださるのです。

 24節後半に、「ある人が良い種を畑に蒔いた」とありますが、これは前回学んだ、「種を蒔く人のたとえ」の続きとして読むことができます。種を蒔く人はイエス様であり、種は「御国の言葉」「御言葉」でありました。イエス様は分け隔てなく誰にでも御言葉を語って来たのですが、それを聞いたすべての人が御言葉を悟ったのではありません。しかし、その中から御言葉を聞いて悟り、天の父の御心を行うという豊かな実を結ぶ者が起こされたのです。そして、それがイエス様の弟子たちでありました。ですから、「ある人が良い種を畑に蒔いた」ならば、天の父の御心を行うという良い実を結ぶ者しか畑に育たないはずであります。しかし、そうではない、ということを「畑の毒麦のたとえ」は教えているのです。25節、26節に、「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると毒麦も現れた」とありますように、敵も種を蒔くのです。それも、麦の中に、麦と似ている毒麦の種を蒔くのです。この敵とは、神の敵であり、堕落した天使である「悪魔」のことであります。イエス様は、「種を蒔く人のたとえ」の説明の中で、「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」と言われましたが、悪い者である悪魔は、御言葉を心の中から奪い取るだけではなく、毒麦をも蒔くのです。種を蒔くのはイエス様だけではありません。悪魔も種を蒔くのです。このことの具体例を、私たちは、エデンの園の物語の中に見ることができます。神様は、アダムに、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われました。これはアダムの心に蒔かれた良い種であります。「善悪の知識の木から食べると必ず死ぬ」ということは、裏を返せば、「善悪の知識の木から食べなければ生きる」ということであります。善悪の知識の木の隣に生えていた命の木は、アダムがこの掟を守ったときに与えられるであろう永遠の命の象徴であったのです。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」。この神様によって蒔かれた神の言葉にとどまっているならば、アダムは命を得ることができたのです。しかし、悪魔もアダムの心に、助け手である女の口を通して、種を蒔くのです。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。悪魔は、女の口を通して、アダムの心に、神様の言葉を否定する、毒麦の種を蒔くのです。神様が、またイエス様が良い麦の種を蒔かれるところに、悪魔も毒麦の種を蒔くのです。

 ここで、少し自分のことをお話したいのですが、私が洗礼を受けて、キリスト者となってから、私の牧師の片岡先生に、次のような質問をしたことがありました。「ある本に、死ぬのは怖くない。死ぬのは、生まれる前に戻るだけであると書いてありました。これによると、復活はないのではないでしょうか?」。それを聞いて、片岡先生は、「それはサタンの教えだ」と言われたのです。このように悪魔は、私たちの心に毒麦の種を蒔くわけです。神の御言葉である聖書は、「神がおられること、それは天地万物を造られたお方である」と教えています。しかし、サタンは「神などいない。すべては偶然によって存在しているのだ」という毒麦の種を蒔くのです。また、聖書は、「聖書が神の御言葉であり、霊感によって記された権威ある書物である」と教えています。しかし、サタンは「聖書も人間の言葉にすぎない。そのような言葉に権威などない」と毒麦の種を蒔くのです。このようなことは、数え上げたら無数にあります。サタンは、私たちの心から神の言葉を奪い取るだけではなく、毒麦の種をも蒔いて行くのです。それゆえ、私たちは、日々、御言葉を読み、また聞いて心に御言葉を蓄えなければならないのです。また、聖霊なる神様に、私たちの心から毒麦を奪い取っていただかねばならないのです。

 イエス様において到来した神の国、それは神の敵であるサタンが毒麦の種を蒔き、毒麦が芽を出し、実る、未完成の神の国であります。神の王的支配が完全に到来したならば、神の敵である悪魔の入り込む余地は全くないのですが、イエス様において到来した神の国は、未完成のものであり、悪魔が働くことのできる、毒麦が実を結ぶそのようなものであるのです。では、私たちは、神の御言葉に反する教えに従って歩んでいる人たちを、もっと言えば、キリストに敵対する人たちをどうすればよいのでしょうか?そのことが27節から30節までの主人と僕たちの会話に記されています。ここでの「主人」は良い種を蒔いた人、イエス様であります。また、僕たちとは、イエス様の弟子たちのことです。僕たちは、主人が畑に良い種は蒔いたことは知っていても、どこから毒麦が入ってきたのかは知りません。しかし、主人は、それが「敵の仕業である」ことを知っておりました。それを聞いて、僕たちは、「では、行って抜き集めておきましょうか」と申し出ます。僕たちは、畑を良い麦だけにしたいわけです。それでこそ、神の国にふさわしいと、彼らは考えたのです。このことは、よく分かることであります。イエス・キリストにおいて、天の国が地上に到来したならば、この地上には、良い種から実った、麦だけが生えているべきであると考えるのです。しかし、そうではない。イエス様において到来した神の国には、麦も毒麦も芽を出し、実るのです。そして、どちらも刈り入れの時まで育つままにされるのです。29節、30節で、主人はこう言いました。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と刈り取る者に言いつけよう」。ここで、主人は、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜いてしまうかも知れないことを恐れています。つまり、僕たちには、麦と毒麦を区別する能力がないのです。このことは、麦が人間を指していることを考えればすぐ分かります。ルカ福音書に出て来る、イエス様と共に十字架につけられた犯罪人の一人は、まさしく毒麦のようでありました。しかし、彼は死ぬ間際に、イエス様を信じ、自分が御国の子らであることを証明したのです。イエス様が、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とその保証を彼に与えてくださったのです。ですから、主人は、終わりまで、刈り入れのときまで、麦と毒麦の両方を育つままにしておくようにと命じられたのです。そして、主人は、刈り入れる者である御使いによって、毒麦と麦とを完全に区別するのです。畑の刈り入れという世の終わりの裁きを通して、イエス・キリストにおいて到来した神の国は完成するのです。そのとき、つまずきをもたらすものすべてと不法を行う者どもは、燃えさかる炉の中に投げ込まれるのです。そして、イエス様に従って天の父の御心を行う正しい人々は、父の国で太陽のように輝くのです。少し先の17章に、イエス様の姿が変わる、いわゆる山上の変貌の出来事が記されていますが、そこに「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と記されています。御国の子らである私たちは、世の終わりの裁きを通して、イエス様と同じ栄光の姿へと変えられるのです。

 ここまでの話をまとめますと、イエス様が「畑の毒麦のたとえ」で教えられた、御自分において到来した天の国は、悪魔も働くことができる、麦と毒麦が混在する、そして、終わりの時に麦と毒麦の完全な区別がなされる、そのような天の国でありました。これは、当時の人々が考えていた神の国とは大きく違っておりました。当時の人々が期待していた神の国は、即座に麦と毒麦の区別がなされる。裁きが行われる神の国でありました(3:11、12参照)。旧約聖書において、神の王国、神の王的支配は、主の日の到来において実現すると考えられておりました。また、その主の日にこそ、神の裁きが行われ、神に逆らう者たちが滅ぼされると考えられていたのです。しかし、イエス様において到来した神の国は裁きと同時に到来したのではありませんでした。イエス様において到来した神の国はからし種のように小さいものとして、パン種のように隠されているものとして到来したのです。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」。このようにイエス様において到来した神の国は、成長力と影響力をもっているのです。そのことは歴史が証明しております。今や、全世界にイエス・キリストを信じる者たちがおり、あらゆる地域に教会が建てられています。キリスト教を抜きにして歴史を語ることはできませんし、現在の世界の姿を考えることもできないでしょう。現在の日本において、キリスト者の人口は1%未満でありますが、日本においても、キリシタン、キリスト者が社会に多くの影響を与えて来たことを否定することはできないのです。

 イエス・キリストにおいて神の国は、小さいからし種として、隠されたパン種として到来しました。しかし、それは最後には、空の鳥が巣を作る大きな木となり、パン全体を膨らませるのです。小さく始まったものが、最後には大きくなる。これが、35節で言われている「天地創造の時から隠されていたこと」であります。その天の国の秘密を、イエス様は、今朝、私たちに教えてくださったのです。

 今朝は、最後に、もう一つの天の国の秘密についてお話して終わりたいと思います。それは、イエス・キリストは裁く方としてではなくて、裁かれるために来たということであります。イエス・キリストにおいて到来した天の国において裁かれたのは、イエス・キリスト御自身でありました。神に逆らう者を滅ぼす主の日は、イエス・キリストの十字架の上に到来したのです。イエス・キリストは、すべての人の罪を担って、十字架の死を死んでくださったのです。そして、神はイエス・キリストを死から三日目に復活させられたのであります。そのようにして、神は、イエス・キリストがすべての人の救い主であることを示されたのです。復活し、今、天におられるイエス・キリストは、私たちの救いを完成するために、私たちを罪から完全に救うために、栄光の裁き主として、この地上に再び来てくださるのです。それゆえ、私たちは、イエス様に代わって、イエス様と共に、良い種を蒔き続けることが求められているのです。私たちは、イエス様において到来した天の国の成長力と影響力を信じて、御言葉の種を蒔き続けて行きたいと願います。

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