イエスの兄弟姉妹 2014年8月24日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

イエスの兄弟姉妹

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章46節~50節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。
12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
12:48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
マタイによる福音書 12章46節~50節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書12章46節から50節までを読んでいただきましたが、50節の御言葉は、今年の年間聖句でもあります。週報の表紙に記されているように、私たちの教会の年間テーマは「神の家族である教会」であり、年間聖句は「だれでも、わたしの父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」であります。このことを念頭において、今朝の御言葉をご一緒に学びたいと願います。

 46節に、「イエスがなお群衆に話しかけておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた」とあります。「その母」とは、1章に記されていた、聖霊によってイエス様を身ごもったマリアのことであります。マリアは、夫ヨセフとまだ一緒になる前に、聖霊によって身ごもり、イエス様を産んだのでありました。また、「兄弟たち」とありますが、これはマリアとヨセフとの間に生まれた、弟たちのことであります。13章53節以下に、「ナザレで受け入れられない」というお話が記されていますが、そこで人々はイエス様について次のように言っています。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」。私たちはここから、イエス様の義理の父であるヨセフが大工であったこと、イエス様に4人の弟がおり、その名前が「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」であったこと、イエス様には妹たちもいたことを教えられるのです。けれども、今朝の御言葉には、イエス様の家族として、父と妹たちは出て来ません。妹たちはナザレに住んでいたようですが、父ヨセフはおそらく、このとき死んでいたものと考えられています。イエス様が救い主としての公の活動を始められたのはおよそ30歳でありましたが、それまで、イエス様は、死んだ父に代わって大工の仕事をし、家庭を支えていたと考えられるのです。ともかく、イエス様がなお群衆に話しておられたとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていたのです。ここに「外に立っていた」とありますから、このときイエス様は家の中にいたようであります。初代教会は、家に集まって礼拝をささげておりましたから、このときイエス様は教会の中にいたとも言うことができるのです。母と兄弟たちは、話したいことがあるならば、家の外に立っておらず、家の内に入ればよいと思うのですが、そこには、自分たちはイエス様の家族であるという特別な思いがあったのかもしれません。いずれにしても、母と兄弟たちが、「外に立っていたこと」は、象徴的なことであります。母や兄弟たちが外に立っていたことは、彼らがまだ教会の交わりに加わっていないこと、イエス様の弟子となっていないことを象徴的に表しているのです。そもそも、母と兄弟たちが話したいこととは、何だったのでしょうか?マタイによる福音書は、そのことについて記しておりませんが、マルコによる福音書3章20節から22節にこう記されています。新約の66ページです。

 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

 21節に、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」とありますが、このことが、今朝の御言葉の背景になっているようであります。母と兄弟たちは、人々のうわさ、特に、ファリサイ派の人々のベルゼブル発言を聞いて、心配して、イエス様と話そうと外に立っていたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の23ページです。

 イエス様の母、兄弟たちが外に立っているのを見たある人は、イエス様にこう言いました。「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」。しかし、イエス様はその人にこうお答えになるのです。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」。それから、イエス様は弟子たち方に手を差し伸べて、こう言われるのです。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。

 47節にある「御覧なさい」という言葉と、49節の「見なさい」という言葉は、元の言葉ですと、同じ言葉で記されています。ある人は、外に立っている母と兄弟たちを指して、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいことがあって外に立っています」と言ったのに対して、イエス様は、内にいる弟子たちを指して、「御覧なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われたのです。ここにあるのは、イエス様の強烈な神の子意識、ご自分が神の独り子であるとの意識であります。そして、ここに、イエス様が福音を宣べ伝えている目的があるのです。イエス様は、生涯独身であり、結婚して、家庭をつくることはありませんでした。しかし、イエス様は、福音を宣べ伝えることによって、神様を父とする神の家族をおつくりになられるのです。イエス様は、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われましたが、イエス様のもとを訪ねて来たのは、母と兄弟たちでありました。「姉妹」たちはいないのです。しかし、イエス様は、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われたのです。これは、イエス様の弟子たちの中に、女性がいたからでありますね。私たちは、「主にある兄弟姉妹」という言い方をよくします。「主にある兄弟姉妹」とは、「主イエスにあって兄弟姉妹とされている」ということですが、その前に、私たちは、「主イエスの兄弟姉妹」とされているのです。イエス様の弟子である私たちは、イエス様の兄弟姉妹、イエス様の家族とされているのであります。

 「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。ここでイエス様は、「わたしの兄弟、姉妹、また母であり父である」とは言われませんでした。それは、このとき、父が来ていなかったからだけではありません。イエス様の家族において、父はただ一人、天におられる父なる神様であられるのです。ここで、イエス様は「わたしの天の父」と言われております。天地万物を造られ、御心のままに保ち、統べ治めたもう全能の神様は、イエス様の父であられるのです。そして、イエス様こそ、天の父の御心を行う人であられるのです。それゆえ、そのイエス様に従う弟子たちこそ、イエス様の兄弟姉妹であり、神様を父とする神の家族であるのです。

 ある神学者は、50節について、「律法学者やファリサイ派の人々に対する皮肉である」と記しておりました。なぜなら、律法学者やファリサイ派の人々は、自分たちこそ、神の御心を行っていると自負していたからだ言うのです。しかし、彼らが決定的に行っていない神の御心があることを私たちは知っております。それは、神が遣わされたイエス・キリストを信じていないということであります。律法学者やファリサイ派の人々は、自分たちこそ神の御心を行っていると自負しておりましたが、神から遣わされ、神の御心を行っているイエス様を受け入れようとはしないのです。それゆえ、彼らはイエス様において開かれている神の家族の交わりに入ることができないのです。

 今朝の御言葉を読んで、イエス様が身内の者に冷たいと思われるかもしれませんが、今朝の御言葉は、イエス様にある神の家族から、母マリアや弟のヤコブたちを排除する御言葉ではありません。母マリアも、弟のヤコブたちも、イエス様の弟子となるならば、イエス様の霊的な家族、神の家族の一員となることができるのです。そして、現に、使徒言行録の1章を見ますと、弟子たちと一緒に、母マリアと弟のヤコブたちが心を合わせて祈っていたことが記されています。外に立っていた母マリアと弟のヤコブたちが、イエスの弟子たちと一緒に、すなわち、イエスの弟子として熱心に祈っていたのです。そればかりか、のちに弟のヤコブは、エルサレム教会の指導者となるのです。新約聖書にあるヤコブの手紙、ユダの手紙は、イエス様の弟であるヤコブとユダによって記されたと考えられているのです。イエス様が「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が」と言われているように、イエス様において開かれている神の家族の交わりからは、だれも排除されていないのです。必要なことは、外から内に、身を置くことであります。私は今朝の御言葉を読んで、ある長老さんのことを思い起こしました。この方は、もともと奥様が信者で、ご自分は未信者でした。礼拝が終わる時間になると信者である奥様を迎えに来るのですが、決して教会の中には入ろうとはしませんでした。それこそ、教会の外に立っていたのです。しかし、イエス様はその人を、教会の内へと招いてくださり、弟子としてくださり、さらには、長老として召してくださったのです。

 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。この御言葉は、私たちにとって、慰めに満ちた御言葉であります。特に、家族から反対を受けて、この場に集っている者たちとっては、慰めに満ちた御言葉であります。家族の反対にもかかわらず、イエス様を信じた。そのような人もおられるかも知れません。しかし、その人は、イエス様の兄弟姉妹とされ、神の家族の一員とされたのです。そして、それは、その人を通して、まだイエス様を信じていない家族が救われるためであるのです。聖書に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、家族も救われます」とありますように、イエス様は私たちの肉の家族を霊の家族ともしてくださるのです(使徒16:31)。神の家族は、父なる神様と御子イエス様でありましたが、御子イエス様の兄弟姉妹となることによって、私たちも神の子とされ、神の家族の交わりに加えていただいたのです。すなわち、神の家族の一員となるには、神の独り子イエス・キリストの兄弟姉妹としていただく必要があるのです。そして、イエス様の兄弟姉妹となるには、父なる神の御心を完全に行われたイエス様に従い、イエス様に似た者となる必要があるのです(一ヨハネ2:6参照)。

 福音書記者マタイは12章で、イエス様に対する様々な人々の反応を記してきました。安息日論争で、ファリサイ派の人々は、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し」ました。また、彼らはその悪い心から、イエス様が「悪霊の頭ベルゼブルによって悪霊を追い出している」と言いました。彼らはイエス様ばかりか、イエス様を通して働く神の霊、聖霊を冒涜したのです。また、彼らの中には、イエス様がメシア、救い主であることの証拠を求める人々もおりました。群衆は、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言いましたが、それは弟子として従うことを決断しない、空き屋になっているような状態でしかなかったのです。このような、イエス様に対する否定的な反応を記した後で、福音書記者マタイは、イエス様の周りにおられる弟子たちの姿を記すのです。そして、イエス様はその弟子たちを、「わたしの天の父の御心を行う人」と呼んでくださり、さらには「わたしの兄弟、姉妹」と呼んでくださるのです。そのような者たちとして、私たちはこれからも兄であるイエス様に従って、天の父の御心を行っていきたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す