ヨナのしるし 2014年8月17日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

ヨナのしるし

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章38節~45節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:38 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。
12:39 イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
12:40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
12:41 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
12:42 また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
12:43 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
12:44 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
12:45 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」マタイによる福音書 12章38節~45節

原稿のアイコンメッセージ

 しばらくマタイによる福音書から離れていましたが、今朝から、また、マタイによる福音書を読み続けて行きたいと思います。

 38節に、「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った」とありますが、この「言った」は元の言葉ですと「答えた」と記されています。つまり、今朝の御言葉は12章22節以下の「ベルゼブル論争」の続きであるのです。何人かの律法学者とファリサイ派の人々は、イエス様が神の霊によって悪霊を追い出しておられる神の国の到来のしるしを目の当たりにしながら、更なる「しるし」を求めるのです。イエス様が28節で、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われたように、悪霊を追い出すことは、イエス様において、神の国が到来したことのしるしであるわけですが、ファリサイ派の人々はこともあろうに、イエス様が悪霊の頭ベルゼブルの力によって悪霊を追い出していると言ったわけであります。そのようなファリサイ派の人々にとって、悪霊を追い出すこと、障害や病を癒すことは、「しるし」とはならなかったわけです。ファリサイ派の人々は、自分たちが納得できるようなしるしを見せてほしいとイエス様に求めたのです。23節に、「群衆は皆驚いて、『この人こそダビデの子ではないだろうか』と言った」とありましたけれども、ファリサイ派の人々は、「あなたがダビデの子、メシア、救い主であるならば、そのしるしをはっきりと示してほしい」と言ったのです。それに対して、イエス様はこうお答えになりました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここにソロモンにまさるものがある」。ファリサイ派の人々は、イエス様に「しるしを見せてください」と言うのですが、イエス様は、そのようなファリサイ派の人々を「よこしまで神に背いた時代の者たち」と言われます。「しるしを見せてほしい」と求めることは、よこしまで神に背いた時代の者たちの特徴であると言われるのです。なぜなら、「しるし」とは「証拠」であるからです。ある神学者は、「しるしを求めることは、信仰の終わりである」と言っておりますが、「証拠を見たら、信じる」というのは、もはや信仰ではないわけです。それゆえ、イエス様は、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」と言われたのであります。では、イエス様は何のしるしをも与えられないかと言えばそうではないのです。イエス様は、「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われるのです。「預言者ヨナのしるし」とは何でしょうか?イエス様は、40節でこう言われています。「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」。ここで、イエス様は御自分の死と復活について語っておられます。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、イエス様も三日三晩、大地の中に、死者の領域である陰府に下ると言われたのです。ここで、復活のことは言われておりませんが、陰府に下ることが三日三晩と限定されていることによって、死者の中からの復活が暗示されています。イエス様の死からの復活は、よこしまで神に背いた時代の者たちに与えられる、唯一のしるしであるのです。このことは、現代の私たちにとっても同じことであります。私たちも、よこしまで神に背いた時代に生きる者たちであります。その私たちに与えられている唯一のしるしが、イエス様が死者から三日目に復活されたというヨナのしるしであるのです。このことは考えてみれば、よく分かることであります。なぜ、私たちはイエス様を神の御子、救い主と信じているのでしょうか?それは、イエス様が十字架の死から三日目に栄光の体へと復活されたからです。そのイエス様と、御言葉と聖霊において出会ったからであります。初めの弟子たちがまさにそうでありました。イエス様を見捨てて逃げた弟子たちが、身の危険を顧みず、イエス様を神の御子、救い主と宣べ伝えるようになったのはなぜか?それは彼らが復活されたイエス・キリストと出会ったからです。私たちの信仰は、イエス・キリストの十字架の死と復活という歴史的事実を土台としているのです。イエス・キリストの死からの復活こそ、私たちに与えられている唯一のしるしであるのです。

 イエス様は、「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われますが、このヨナのしるしが与えられるのは、まだ先のことであります。では、ファリサイ派の人々が、イエス様をメシア、救い主と信じられなくてもしかたがないのかと言えば、そうではありません。イエス様は41節でこう言われます。「ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある」。ニネベとは、アッシリア帝国の首都でありました。ですから、ニネベの人たちとは、神の民ではない、いわゆる異邦人であります。その異邦人であるニネベの人々が、ヨナの説教を聞いて悔い改めたのです。しかし、神の民、イスラエルは、ヨナにまさるイエス様の説教を聞いても、悔い改めなかったのです。イエス様は、「悔い改めよ、神の国は近づいた」と宣べ伝えましたけれども、イスラエルの民は悔い改めなかったのです。それゆえ、イエス様は、「ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定める」と言われるのです。さらにイエス様は42節でこう言われます。「また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある」。南の国の女王がソロモン王の知恵を聞くために地の果てから来たお話は、列王記上の10章に記されていますが、この女王も神の民ではない、いわゆる異邦人であります。異邦人である南の国の女王がソロモン王の知恵を聞くために地の果てからはるばるやって来たのに対して、神の民であるイスラエルはソロモン王にまさったイエス様の知恵に聞こうとはしないのです。それゆえ、イエス様は「南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう」と言われるのです。ここでの「裁きの時」はいずれも、世の終わりに行われる、いわゆる最後の審判を指しています。「立ち上がる」とは「よみがえる」「復活する」とも訳せる言葉であります。最後の審判においては、すべての人が復活させられ、神様の裁きを受けるわけですが、そのとき、ニネベの人々も、また南の国の女王も、ヨナにまさり、またソロモンにまさるイエス様を信じない人たちに不利な証言をするようになる。彼らの存在そのものが、イエス様を信じない者たちを罪に定めることになるのです。

 イエス様は、御自分を「預言者ヨナにまさるもの」「王ソロモンにまさるもの」と言われましたが、これについては、何のしるしも与えられていません。ヨナのしるしが与えられるのは、まだ先ですから、この時点では、何のしるしも与えられていないのです。しかし、言い方を変えれば、彼らの目の前にいる、イエス様御自身がしるしであるとも言うことができます。イエス様が、預言者ヨナにまさる預言者として、また、王ソロモンにまさる知恵者として、ここにおられる。そのイエス様の存在そのものがしるしであると言えるのです。イエス様は、ヨハネによる福音書8章で、「わたしは世の光である」と言われましたけれども、光は、それ自らが光であることを証ししております。他のものは光に照らして、確かめる必要がありますが、光は誰からも確かめられる必要がないのです。それと同じことが、「ここに、ヨナにまさるものがある」「ここに、ソロモンにまさるものがある」という御言葉においても言えるのではないかと思います。イエス様の説教、イエス様の知恵、そのものが、イエス様がヨナにまさるお方であり、ソロモンにまさるお方であることを証明しているのです。そのようなイエス様に対して、人はどのように応答すべきでしょうか?そのことをイエス様は、43節以下の「汚れた霊が戻ってくる」というたとえ話で教えられるのです。

 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出てきたわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」。

 このイエス様の御言葉は、しるしを求めたファリサイ派の人々に留まらず、群衆に対しても語られている御言葉であります。イエス様の癒しの業を見た群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言ったのでありますが、彼らは、イエス様を、ダビデの子、メシアであると告白しているわけではありません。むしろ、元の言葉を見ますと、否定的な答えが予測される疑問文で記されているのです。「この人はダビデの子ではないだろうか。まさかそのようなことはあるまい」と言ったように記されているのです。ですから、悪い時代の者たちとは、イエス様にしるしを求めたファリサイ派の人々だけではなくて、イエス様をダビデの子、救い主と信じていない群衆も含まれているのです。そのような群衆に対して、イエス様は、「汚れた霊が戻ってくる」というたとえ話をお語りになるのです。

 イエス様が汚れた霊を追い出されるのを目の当たりにして、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った群衆は、たとえれば、「悪霊を追い出していただき、空き屋となっており、掃除をして、整えられた状態にしていただいた人」であると言えます。空き屋となり、掃除をして、整えられているのは、イエス様を救い主と信じて、聖霊に住んでいただくためでありますが、群衆はその決断をいたしません。そうするとどうなるか?悪霊は、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込み、住み着くというのです。悪霊にとって、掃除をして整えられた家ほど、住みにくいものはありませんから、自分よりも悪い七つの霊を一緒に連れて来て、家をゴミだらけにしてしまうのです。それゆえ、イエス様は、「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」と言われるのです。これと同じようなことを、使徒ペトロは第二の手紙の2章20節で記しています。新約の438ページです。 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。

 イエス様を信じること、それは悪霊を追い出していただくことであります。さらには、イエス様の霊、聖霊に住み込んでいただくことであります。しかし、それは自動的なことではありません。聖霊は人格的な存在でありまして、私たちは聖霊に住み続けていただくために、世の汚れから逃れなければなりません。「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェソ4:30)、「霊の火を消してはなりません」(一テサロニケ5:19)とありますように、私たちは世の汚れから逃れて、自分を清く保たねばならないのです。しかし、もし、私たちが再び世の汚れに巻き込まれ、打ち負かされるようなことがあるならば、私たちは空き屋になるのではなく、七つの悪い霊が住み着くようになるのです。そのようにして、私たちはイエス様の救いにあずかる前よりも、ずっと悪い状態になるのです。これは、私たちに対する警告の言葉でもあります。私たちは、イエス様を目の当たりに見ることはできませんが、聖書の御言葉を通して、イエス様の説教を聞くことができます。また、イエス様の知恵についても知ることができます。さらには、私たちには、イエス様が死から三日目に復活されたというヨナのしるしが与えられているのです。そうであれば、私たちは、イエス様を信じて、聖霊に住み込んでいただくべきであるのです。復活されたイエス・キリストを仰ぎつつ、聖霊に住み続けていただくとき、私たちは神様の救いにあずかり続けることができるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す