自分の言葉によって義とされる 2014年7月20日(日曜 朝の礼拝)
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自分の言葉によって義とされる
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 12章22節~37節
聖書の言葉
12:22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
12:23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
12:24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
12:25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
12:26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
12:27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
12:28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
12:29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
12:31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。
12:33 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。
12:34 蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。
12:35 善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。
12:36 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。
12:37 あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」マタイによる福音書 12章22節~37節
メッセージ
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先程は、マタイによる福音書12章22節から37節までを読んでいただきましたが、前回、22節から32節までを学びましたので、今朝は、33節から37節までをご一緒に学びたいと願います。
33節から35節までをお読みします。
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。」
イエス様は、この言葉をファリサイ派の人々に対して語っております。24節に、「しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、『悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない』と言った」とありますように、ファリサイ派の人々は、イエス様が「悪霊の頭ベルゼブルの力によって、悪霊を追い出している」と言ったのです。もちろん、イエス様は、ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのではありません。28節に、「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とありますように、イエス様は、神の霊、聖霊によって、悪霊を追い出しているのです。そして、これこそ、イエス様において、神の国が来ていることのしるしであるのです。それゆえ、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」といったファリサイ派の人々は、聖霊を冒涜する者であり、この世でも後の世でも赦されることがない、聖霊に言い逆らう者であるのです。
ファリサイ派の人々は、イエス様の力ある業、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人を癒され、ものが言え、見えるようにされた力ある業を目の当たりにして、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言いました。彼らは、その言葉によって、自分がどのような者であるのかを言い表しているのです。イエス様が33節以下で、教えていることはそのことであります。「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか」。「木」は「人」であり、「その実」は「その人が語った言葉」であります。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」という聖霊を冒涜する言葉は、ファリサイ派の人々が悪い人間であることを表しているのです。ここで、イエス様は、ファリサイ派の人々を「蝮の子らよ」と呼びかけています。これは洗礼者ヨハネが、ファリサイ派の人々に対して語った言葉でもあります。3章7節にこう記されていました。「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか』」。しかし、もっと遡るならば、この「蝮の子らよ」という言葉は、創世記の3章15節まで遡ることができると思います。創世記3章11節から15節までをお読みします。旧約の4ページです。
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
ここには、神様の蛇に対する裁きの言葉が記されています。蛇がどうして人間の言葉を話すことができるのか不思議に思いますが、この蛇の背後には、神の敵である悪魔とかサタンと呼ばれる者の力が働いていたのです。この蛇に対する裁きの言葉は、アダムとエバにとっては、救いの約束でもありました。15節に、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」とありますように、神様は、蛇の子孫の頭を打ち砕く、女の子孫の誕生を約束されたのです。そして、この女の子孫こそが、聖霊によっておとめマリアからお生まれになったイエス・キリストであったのです。では、蛇の子孫とは、誰のことでしょうか?それは今朝の御言葉によれば、聖霊に言い逆らうファリサイ派の人々であるのです。イエス様に対して、「この者は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言うファリサイ派の人々こそ、悪魔の支配下にある蝮の子らであるのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の23ページです。
このような厳しいイエス様の御言葉を聞きますと、ファリサイ派の人々は「心にもないことをうっかり言ってしまった」と弁解するかも知れません。しかし、イエス様は、そのような彼らの弁解を前もって封じられるのです。34節後半から。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は悪い倉から悪いものを取り出してくる」。心にあふれている思いが、言葉として口から出て来る。それゆえ、悪い言葉は、その心が悪いことを表しているのです。ファリサイ派の人々は、イエス様を殺そうとしていました(12:14参照)。その悪い心から、「この者はベルゼブルの力で悪霊を追い出している」という悪い言葉が出て来たのです。ですから、彼らは「心にもないことをうっかり口にしてしまった」などと弁解することはできないのです。
36節、37節をお読みします。
「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
このようなイエス様の御言葉を読みますと、もう何も言えなくなってしまうのではないか、と思ってしまいますが、しかし、これまでの文脈からすれば、ここでの「つまらない言葉」とは、24節の、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」というファリサイ派の人々の言葉であります。イエス様は、そのようなつまらない言葉を語った彼らに対して、「裁きの日には責任を問われる」と言われるのです。それは、言い換えれば、「自分の言葉によって罪ある者とされる」ということであります。福音書記者マタイは、12章17節以下で、イザヤ書の預言を引用し、イエス様こそ、神の愛する独り子であり、神の霊を授けられたメシアであると記しました。その聖霊の働きを悪霊の働きとし、イエス様を魔術師呼ばわりする者は、その自分の言葉によって、罪ある者とされるのです。つまり彼らは自分の語ったつまらない言葉によって、自分をイエス様の救いにあずかれない者としてしまうのです(ヨハネ8:24参照)。
では、私たちは、「あなたは、自分の言葉によって義とされ」るというイエス様の御言葉をどのように理解したらよいのでしょうか?その前に、私たちは、34節の「良いこと」が何であるのかを考える必要があります。イエス様は、34節で、「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか」と言われましたが、「良いこと」とは何でしょうか?結論から申しますと、「良いこと」とは、聖霊の御業が示しているように、イエス様をメシア、神の子であると告白することであります。少し後の16章で、ペトロが、イエス様に、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しますが、これこそ、「良いこと」であります。そうしますと、「あなたは自分の言葉によって義とされ」るの「自分の言葉」とは、「イエス・キリストは主である」という信仰の告白であることが分かるのです。そして、このような告白を、私たちに与えてくださる方こそ、私たち一人一人の心に宿ってくださる聖霊であるのです。使徒パウロは第一コリント書の12章3節で、次のように言っています。新約の315ページです。
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
私たちが、なぜ、「イエスは主である」と告白することができたのか?「十字架につけられたイエスを、神が死から三日目に復活させられ、御自分の右にあげられ、主とされた」と、なぜ信じることができるのか?それは、私たちに、神の霊、聖霊が注がれているからであるのです。なぜなら、聖霊は、イエス様を主となされた御父の霊であり、御父によって主とされた御子イエスの霊であるからです。聖霊は、神の右に座して主となられた、イエス・キリストを通して注がれるがゆえに、私たちの口に「イエスは主である」とのよい言葉を語らせてくださるのです。今朝、改めて確認しておきたいこと、それは「イエスは主である」と告白する私たち一人一人の心に、聖霊が宿っておられるということです。聖霊が私たちの口に、良い言葉を、「イエスは主である」との信仰の言葉を語らせてくださり、その信仰の言葉によって、私たち一人一人は、裁きの日に義とされるのです。私たちは、「イエスは主である」という信仰の言葉によって、すべての罪を赦され、裁きの日に、公に正しい者とされられるのです。
前回の説教において、「聖霊に言い逆らう者」とは、現代においては、教会を通して語っている聖霊に言い逆らう者であると申しました。聖霊は、今、教会を通して、特に聖書の朗読とその説き明かしである説教を通して語っておられます。その聖霊の語りかけに、耳を傾け、聞き従っていきたいと説教を結びました。しかし、今朝は、少し違う観点から、聖霊を冒涜する罪についてお話したいと思います。それは、私たちが自分に与えられているイエス・キリストへの信仰を軽んじるところに生じる罪についてであります。聖書が「だれも聖霊によらなければイエスは主であると言うことはできない」と教えているにも関わらず、私たちは自分の信仰を、また兄弟姉妹の信仰を聖霊のお働きとして、しっかりと捉えていないことがあるのではないかと思うのです。キリスト教に敵意を持っている人からすれば、十字架につけられたイエスを、神が死から三日目に復活させ、天へとあげられ、主となされたことを信じる私たちは、気が変になっていると言われるかも知れません(ヨハネ8:48参照)。しかし、そうではないのです。もし、そのように考えるならば、私たちは聖霊を冒涜する罪を犯すことになるのです。私たちが、イエスを主と告白し、礼拝をささげているのは、すべて聖霊なる神様のお働きによるものであるのです。そのことを、私たちは互いに確認したいと思います。イエスは主であると告白し、礼拝に集っている一人一人に、聖霊なる神様が宿られ、働いておられる。そのことが、どれほど驚くべき奇跡であるのか。そのことを覚えて、私たちは神様の御名をほめたたえたいと願います。